平成世代の方にとったら山口百恵さんは「伝説」的存在かもしれませんね。

人気最盛期の時に「結婚」という道を選んで潔く、本当に潔く茶の間のブラウン管から消えてしまったのです(当時のアイドルとの接点の最重要メディアはテレビでしたからねえ)。

もし、そのまま芸能界に残っていたら今頃どういう存在になっていたのでしょう?

今回は昭和が生んだアイドル界の伝説の大スター、山口百恵さんを取り上げてみたいと思いますね。

️プレイバックといえば…山口百恵!

山口百恵さんの代表曲といったら皆さん、何を思い浮かべるでしょうか?

デビュー曲の「としごろ」?初大ヒットの「青い果実」?オリコンチャートのベスト3に入った「ひと夏の経験」?それともオリコンチャート初1位の「横須賀ストーリー」?それとも…。

いやあ、山口百恵さんの代表曲、いっぱいあります!10年も活動されていないのにヒット曲が目白押しです!

そんなたくさんあるヒット曲の中でも敢えてこの曲、という事で「プレイバックpart2」を挙げる方も多いでしょうね。

確かこの曲、紅白歌合戦でオオトリを務めた時に歌った曲のはずです。

「プレイバック」といえば、誰あろう、ズバリ「山口百恵」という事になるのですよ。

️山口百恵のプロフィール

それではここからは山口百恵さんのプロフィールについて紹介していきますね。

大きなプロフィールから小さなプロフィールまで。

山口百恵のありとあらゆる魅力をお伝えしていきます。

山口百恵

山口百恵さんは歌手であり女優業にも力を注いでいましたね。

ではまずそんな彼女の簡単なプロフィールからご紹介致します。

生年月日

山口百恵さんの生年月日は、1959年(昭和34年)1月17日生まれの山羊座です。

よって平成世代の人にとったら、もう年代の完全に離れた人になるわけです。

丁度、母親ぐらいの世代になるんでしょうね。

余談ですが、この記事を書いております私、実は百恵さんとはほぼ同学年なのです。

私の誕生日が昭和35年1月9日。

同じ山羊座であるという事はデビュー当時から知っていました。

当時の夢多き私にとりまして、たった1年しか歳の違わない彼女の存在感に圧倒されていたのを覚えています。

と、同時にどこか共通点のあるような親近感も物凄く感じていたのを覚えています。

だから私も彼女のファンになったのでしょうね。

レコード、沢山持ってます。

出身地

山口百恵さんの出身地は、東京都の渋谷区になっています。

そして幼少時は神奈川県の横浜市から横須賀市に移り住んでいました。

彼女が中学生でデビューするまで横須賀に住んでいた、という事ですね。

そう、後に大ヒットを飛ばした「横須賀ストーリー」の誕生は、ここがルーツだったのです。

山口百恵のイメージ

山口百恵さんのイメージは?と、問われたら、疑いなく「大人の魅力」とでもいったらいいでしょうか?

とにかくアイドルとしてデビューしたのは間違いないのですが、とても「カワイ子ちゃん」系のアイドルとはいえませんでしたよね。

大きく一線を引く存在でした。

デビュー当時からテレビ番組にはよく出演されていましたから、私としても非常に馴染みがありましたね。

インタビューされても彼女はハキハキと明確に、嘘偽りのない飾り気のない受け答えに終始していたと思います。

また、一般的に多く存在していた、ただニコニコ笑っているだけのアイドルでもなかったですね。

媚びを売らずに自分の芯をしっかり持っていて、しかもそれが嫌味に映らず多くの人の心を掴むタイプだったと思います。

当時、「花の中三トリオ」として売り出されていましたが、桜田淳子、森昌子と比較したら一歩遅れを取っていたのは事実でした。

歌謡大賞の新人賞で一躍脚光を浴びた歌の上手い森昌子、徹底したカマトトぶりでカワイ子ちゃん人気を独走していた桜田淳子。

そんな中で山口百恵は少々、特徴のない中性的な存在でしたね。

しかし、彼女の成長と共にそのスポットライトは一気に山口百恵の方に当たる事になるのです。

山口百恵の家族

山口百恵さんの生い立ちにおける家族構成については多くは語られていません。

一説によれば彼女の実家は母子家庭であったと言われています。

ただ、芸能界にデビューする方たちの家族構成は、必ずしも世間一般の常識でみてはいけない部分が多々あります。

だからこそ、自分が頑張ってお母さんを楽にさせてあげたい、というハングリーパワーが生まれるのかも知れません。

よって百恵さんの生い立ちにおける家族の事についてはここまでとさせていただきます。

今の百恵さんの家族構成は、いたって普通です。

夫はかの俳優の三浦友和さん。

そして三浦祐太朗、三浦貴大という二人息子に恵まれました。

山口百恵さんは、その生い立ちが原因しているのか、家族を非常に大事にしておられる印象がありますね。

自身が決して表に出ないのも、夫、三浦友和さんの事を慮っての行動なのでしょう。

ただ、引退してからもこれだけ噂される存在の山口百恵さん。

夫や息子にとってみたら、偉大すぎる妻であり母親であることが重荷にならなければいいのですけれどもね。

️山口百恵の歴史をプレイバック!

それではここからは山口百恵さんの歴史をプレイバックしていきましょう。

彼女の短かった約8年間の芸能生活。

この凝縮されたような8年間を青春の1ページの思い出として改めて思い出していきたいと思います。

芸能界デビューまで

まずは彼女の芸能界デビューまでの道のりを簡単に追っていきたいと思います。

生い立ち

山口百恵さんは当時の東京都渋谷区で生まれ、幼少時は横浜の当時の戸塚区で過ごし、小学校2年生から中学生でデビューするまでの期間を横須賀市で過ごしています。

よって彼女にとっての故郷は東京というよりも横須賀のイメージの方が強かったでしょう。

事実、芸能界在籍中はよく横須賀についてのお話が多かったように記憶しています。

当時の横須賀、米軍基地のあるどちらかと言えば、あんまりお上品な場所ではなかった土地柄のはず(間違っていたらごめんなさいです)。

多感な少女期をこの場所で過ごしたことが、後の大スター「山口百恵」誕生の下地になったのかもしれませんね。

オーディション番組「スター誕生!」

1972年の12月、百恵さん中学1年生の時にかの有名なテレビ番組「スター誕生」の本選に出場。

見事に準優勝に輝き20社から指名を受けた、という事になっていますね。

残念ながらこの時の放送は、私は見ていません。

この番組が、人気が出始めた当時は私も中1。

クラスの皆が話題にするので自然と見るようになった口です。

覚えているのはやはり森昌子さん。

自分と同い年くらいの子がテレビに出て脚光を浴びている、というのは思春期真っ盛りの私にとっては、かなり刺激的でしたね。

もしかしたら自分にもそういう道が開けるんじゃないか?と本気で思ったりもしましたよ。

でも、やはり森昌子さんって、歌がメチャクチャ上手いんですよ。

こっちがいくら真剣に歌っても遠く及びません。

やはりスターになれる子って素質が違うんだなあ、と思ったものです。

で、本題に戻って百恵さん。

本番の映像を見ていないので何とも言えませんが、きっと審査員の人達からしても何か光るものを感じたのでしょうね。

よかったよかった。

ついでですが、この「スター誕生」っていう番組、本当にガチなオーディション番組だったと思うんですよ。

だって結構、可愛い子や歌の上手い子が沢山いたのに本選で落とされる子が目白押しだったですからね。

司会の萩本欽一さんが「札を上げてください!」って威勢よく言ってるのに、スカウトの人達から誰も上げてもらえなかった時のあの怖さというか冷酷さ。

世の中の厳しさを13歳にして顧みた瞬間でしたね。

森昌子に憧れて

山口百恵さんがどうして「スター誕生」に出演するようになったのか?そのきっかけは単純に「テレビに映る森昌子さんのようになりたい」という憧れだったようです。

そう、この年代の子たちが芸能界に憧れるのは至極、普通の流れです。

その憧れの対象がたまたま森昌子さんだった、という訳です。

まあ、今の時代ではちょっとあり得ないデビューの仕方ですからね。

テレビのオーディション番組からデビューするっていうのは。

当時は本当に、本物の歌手を発掘しようとしてこのような歌番組が企画されたのでしょう。

他局にも10週勝ち抜いたらデビューのチャンスが与えられる(五木ひろしさんや中条きよしさんがこれに該当)ものもありましたからね。

今とは時代背景が違うとはいえ、ビジュアルよりも中身で勝負したこの時代の真剣さに、今でも「やはり昭和は良かった」という納得感を味わさせてもらえる気分です。

映画「としごろ」で女優デビュー

山口百恵さんは大手プロダクションの一つ、「ホリプロ」に所属します。

ただ、今でこそ「ホリプロ」は芸能界きっての大物プロダクションになっていますが、当時の芸能界は「ナベプロ」と呼ばれた「渡辺エージェンシー」が一大勢力を誇っていました。

今の時代で例えれば「ジャニーズ事務所」のような存在ですね。

そんな中にあってホリプロは山口百恵に力を入れました。

じっくりレッスンに時間をかけ、いきなり歌手デビューではなく、映画への出演でデビューを飾らせたのです。

とはいえ、この「としごろ」という映画、ほとんど記憶がありません。

調べてみたら主演は和田アキ子と森昌子。

山口百恵はほんのチョイ出し程度のようです。

そりゃあ、記憶にないですよ。

さすがに和田アキ子主演はちょっと敬遠してしまいますねえ。

「としごろ」はホリプロ制作の映画なので今でいうバーター的な出演だったのでしょう。

まあでもプロダクションとしては期待の程を伺わせるようなムードは演出出来たわけです。

ここで歌手デビューも果たす

そして山口百恵さんはここで、同名曲で歌手デビューも果たします。

記念すべきシングル第一弾です。

ただオリコンでの最高ランクは37位。

期待度の割にはデビューシングルとしてはパッとした売り上げにはなりませんでしたね。

当時の新人さんたちのデビュー曲は今の時代になっても受け継がれるようないい歌が目白押しでした。

森昌子さんは「せんせい」、麻丘めぐみさんは「めばえ」、三善英史さんは「雨」、と。

郷ひろみさんも「男の子女の子」で印象的なデビューを飾っていました。

それらに比べると少々、物足りないデビュー出会った事は仕方ありませんね。

「大きなソニー、大きな新人」

しかしながら、山口百恵と契約を交わしたレコード会社は、大手の優良企業、「CBSソニー」です。

せっかくの金の卵をそうやすやすと見放しはしません。

当時、山口百恵につけられたキャッチフレーズが「大きなソニー、大きな新人」です。

キャッチフレーズに自社の名前まで取り込んで売り込みにかかっているのです。

その期待度が表れているというものです。

まあしかしながら初期の百恵ちゃんは、芸能雑誌の「平凡」や「明星」を飾る貴重なアイドルでした。

雑誌の企画でも様々なコスプレやポーズを決めてくれています。

後に伝説と呼ばれるくらいの超大物に育って行ったアイドルもデビュー当時はまだまだ「その他の多くのアイドルの1人」という位置づけだったのです。

花の中三トリオ

山口百恵が売れていく過程で欠かせなかったのが「花の中三トリオ」の結成でしょう。

これは恐らくデビューのきっかけとなった「スター誕生」と桜田淳子所属のサンミュージックとの共同の企画だったのでしょう。

当時はプロダクションの垣根を超えていい意味での交流があったのでしょうね。

これによってもう一つインパクトに欠けていた山口百恵にも3人平等に扱ってもらえる下地が出来たような気がします。

勿論、本人に売れるための素養があったればこそ、必然的にこのような売り出し方が成し得るのですよね。

「青い果実」でイメージチェンジ

山口百恵が一気にスターダムにのし上がった作品がこの「青い果実」です。

何せ、その歌詞が独特でセンセーショナルでした。

「あなたが望むなら、わたし、何をされてもいいわ」といういきなりの歌いだし。

およそ中学生が歌うような曲ではありません。

全く従来のアイドルのイメージを壊したかのような挑戦的なシングル第2弾だったのです。

ところがこの曲がオリコンで初めてのベスト10内にランクインします。

最高位が第9位でした。

これでようやく花の中三トリオの中にあってもバランスが取れるようになったのです。

そういった意味では記念すべきヒット曲なのですよね。

そしてこの曲のヒットにより山口百恵のイメージチェンジ作戦は見事に成功したといえるでしょう。

彼女は以後、誰も追随できない独自の路線をひた走る事になっていくのです。

青い性路線と呼ばれた

青い果実がヒットしたことにより、山口百恵のイメージ戦略は功を奏しました。

以後、売り出し方の基本方針は、それまでのアイドルとは一線を画する事となるのです。

その後のシングル曲は当時のアイドル路線とは全く相反する方向へとかじを切ります。

いわゆる「青い性路線」ですね。

(この言い方は恐らく今の時代になってから名付けたものでしょう。

当時は少なくともそのような言い方で山口百恵を語っていませんでしたからね)

その後発売されていく新曲は、ほとんどが作詞、千家和也、作曲を都倉俊一が担当するのですが、とにかく「詩」が革新的でした。

お色気路線とは違うのですがとにかく十代のアイドルが歌うには先進すぎる歌詞だったのです。

女の子の「性」を意識した作詞は当時の歌謡界においては非常に斬新的で他のアイドルと競合せず、且つ山口百恵自身の幼いながらもどことなくエロチックさを感じさせる表現力によって彼女の地位を絶対的なものにしていった、と思いますね。

この戦略イメージは、プロダクションとレコード会社や様々な関係スタッフが持ち寄い、擦り合わせていった成果でしょう。

勿論、山口百恵自身にアーチストとしての魅力とアイドルとしての素養があってこその成果なのです。

「ひと夏の経験」が大ヒット

そうこうしているうちに山口百恵にとって、彼女の地位を不動のものにすべき大ヒット曲が誕生しました。

デビューから丸一年、5枚目のシングル曲となった「ひと夏の経験」です。

この曲こそが山口百恵の青い性路線の総決算となった1曲であるでしょう。

オリコンランク、最高が第3位。

レコード売り上げ40万枚を超える大ヒットです。

当時の歌番組にこの曲で出まくっていましたからね。

ラジオからも頻繁にかかっていました。

まさに1974年を代表する「夏の歌」という感じだったのです。

ちなみに当時のレコードの売り上げとオリコンでのランキングの相関関係、10万枚売れればベスト10にランクインです。

トップアイドル級で30万枚売れれば軽くベスト3に入っていました。

ひと夏の経験はセンセーショナルな歌詞とアップテンポ且つどこか大人へと脱皮しようとする山口百恵の魅力を凝縮した感じでその年の代表曲となりましたね。

確か紅白歌合戦にもこの曲で初出場したと思います。

これで晴れて花の中三トリオのセンターに立った、という感じだったのです。

歌とビジュアルのギャップ

山口百恵の楽曲は青い性路線でも分かるように、同世代のアイドルの中にあってはかなり先進的でした。

ハッキリ言ってPTAや大人のおうるさ型の人達から苦情が来ていただろうと思います。

しかし、問題がそこまで大きくならなかったのは彼女のビジュアル面にあったのではないでしょうか?

ズバリ、外見は今風で言えば「どこにでもいそうなお姉さん」のようなタイプです。

髪型も至って自然で普通。

黒髪でしたね。

服装も派手ないでたちは全くなく、ステージ衣装も決まって大人しめのワンピース。

青い性路線という割には、見かけは普通のどこにでもいそうないい雰囲気のお姉さんのような感じだったのです。

だから多くのファンや見方を得たのでしょうね。

実際、彼女の事を悪く言う人なんてほとんど聞きませんでした。

ファンの反応もいいものばかり。

当時、可愛いだけで性格の悪そうなアイドルは他にもいましたが、殊、山口百恵に関したら応援する気にはなっても敵にするような雰囲気は全くなかったのです。

この辺りの歌とビジュアル上のギャップが彼女の大きな魅力でもあったわけですよね。

山口百恵は「ひと夏の経験」以後は全く減速することなくスター街道をひた走っていくのです。

「伊豆の踊子」で演技力をかわれる

「アイドル・山口百恵」と「歌手・山口百恵」のみならず、彼女にはもう一つ「女優・山口百恵」としての新天地を開拓したのが1974年に封切られた文芸大作「伊豆の踊子」です。

かつては芸能界の大先輩である吉永小百合さんも主演したことがあるこの作品。

まだデビューして2年目のアイドルに大役を抜擢したのですから、事務所の力の入れようが分かろうか、というものです。

昨今ではアイドルが映画に主演するのはさして珍しくもありませんが、それというのもそういった流れを作ってくれたのが70年代のアイドルたちだと言えるでしょうね。

話が逸れましたが、「女優」としての百恵さん、演技力に関して一定以上の評価を得ました。

一介のアイドルの芸域を超えていました。

ファン以外の人が鑑賞しても十分耐えうる演技力を発揮していたのです。

この年、「女優・山口百恵」は本格的にスタートします。

あの有名な「赤いシリーズ」がこの年から始まるのです。

宇津井健さんとの親子役の定着ともう一つ、忘れられないのが「伊豆の踊子」で共演した現旦那さんの「三浦友和」さんとの定番的共演です。

三浦友和とのゴールデンコンビ

三浦友和とのゴールデンウイークが誕生したのは、映画「伊豆の踊子」からですが、多くのファンに認知されるようになったのは「赤いシリーズ」の第2弾「赤い疑惑」からではないでしょうか?

この作品から二人の仲が急接近したのはファンならずとも、多くのマスコミを通じて芸能ニュースとして取り扱われ、同時に多くの方が否が応でも目にし、耳にしたトピックスの一つだったからです。

ハッキリいって当時の私としては、「おいおい三浦友和、なにすんねん、百恵ちゃんに手を出すな!」という心境でしたねえ。

きっと多くの方が同じ思いをしていたのではないか、と確信いたしております。

しかし、そんな周囲の心配事を尻目に二人の仲はもはや誰もどうする事もできないくらいひっついてしまいました。

思えばプロダクション側の戦略が可愛いカワイイ金の卵をかっさわられてしまうというまさに「想定外」の出来事としてしまったのですね。

いやはや、世の中、一歩先は誰にも読めません。

結局、二人は伝説のゴールインに向かって走り出すわけです。

1976年ブロマイドの売り上げ1位

ブロマイドの売り上げはそのタレントの相対的な人気度を伺わせます。

熱狂的なファンだけでは総売り上げ枚数はどう頑張っても広く大衆に支持されるタレントには勝てませんからね。

山口百恵は1976年にブロマイドの売り上げでもナンバーワンを達成します。

この年は百恵さんがデビューして3年目の頃。

歌の方では年初から「白い約束「「愛に走って」と連続大ヒット。

そして満を期して発売されたのが百恵と言えばこのコンビ、「阿木燿子・宇崎竜童」による一連のヒットナンバーのうちで最もレコードセールスを記録したかの有名なあの曲「横須賀ストーリー」の大ヒットです。

ビジュアル的にもこの頃から百恵さんの「顔」はすっかり変わりました。

とても綺麗になったというか大人の女の表情になったというか。

とにかく歌のイメージと自身とが見事に一致していたのです。

もう本当に飛ぶ鳥を落とす勢い、というのはこの事でしょう。

そして、もうこの頃は「花の中三トリオ」のイメージは微塵もありません。

山口百恵の一人勝ち状態です。

というか、芸能界の頂上に近い位置にいた、と言っても過言ではないのではなかったでしょうか。

私はそう思っています。

1978年紅白歌合戦大トリ

山口百恵の勢いは更に加速します。

1978年の掉尾を飾る紅白歌合戦。

その紅組のトリをこの年の夏に出した「プレイバックPART2」で見事に飾っています。

デビューして5年目。

もう山口百恵は押しも押されもせぬ、芸能界の大スターとして君臨していたのです。

そしてこの翌年にもはや公然の秘密となっていた「例の人」との恋人宣言へと突き進んでいくわけなのです。

それにしても、紅白で演歌系以外のポップス系がトリを務めたのは恐らく山口百恵が初めてだったのではないでしょうか?

美空ひばりを演歌系としないなら話は別ですが。

そう、この時期は芸能界の大御所的存在の美空ひばりをも凌ぐくらいの勢いで彼女はスター街道を突っ走っていたのです。

リサイタルでの恋人宣言

そしてついに宣言の日がやってきました。

1979年10月20日、大阪の厚生年金会館ホールでのリサイタル中に。

結婚を前提にして付き合っています、と。

お相手は大方の予想通り、三浦友和です。

いつかはこうなる日が来る事は分かっていましたが…。

実際、公表されてしまうとショック+寂しさで何とも言えない気分でしたねえ。

そしてこの時に憶測されたもう一つのニュースは「引退するのでは?」というものです。

ただ、まだこの時点では誰もその事について触れませんし、本人も語りません。

しかし、当時の芸能界、引退して普通の生活に行ってしまう事が一つの暗黙の了解のようになっていました。

ザ・ピーナッツの引退然り、キャンディーズの引退然り。

おまけにどちらも渡辺プロの所属のタレントさん、大御所のところで起こった実例の流れはもはや止められないムードがあったのです。

1980年に婚約発表

やはり、というかとうとうその日が本当に来てしまいました。

1980年3月7日、婚約発表と同時に芸能界も引退すると本人の口からハッキリと公表されたのです。

この時、私、大学の3年生。

ぼちぼち迫ってくる就職活動に備える不安と焦りの中で「ああ、やっぱりか…」という大いなる寂しさを感じていたのです。

思えば私が中学1年生の時に山口百恵デビュー。

だから私の思春期から青春の期間の間をずっと彼女と過ごせた計算になるわけです。

まあ、あちらは芸能界の大スター。

こちらは60億人の地球の人間の1人。

全く接点はありませんが、とにかく一つの時代が終わった事だけは確かでした。

本来ならば「結婚おめでとう!」という祝福の気持ちを贈らなければならないはずなのですが。

複雑な気持ちですねえ。

当時人気番組だった「ザ・ベストテン」の司会者・久米宏さんも山口百恵ファンを公表していた一人。

どういう気持ちだったのでしょうねえ。

伝説の芸能界引退へ

そして山口百恵はあっさりと潔く、毅然とした態度で芸能界を引退したのでした。

1980年10月5日、日本武道館において彼女はたったの8年間の芸能生活に別れを告げて家庭に入ったのです。

本当に何という潔さでしょう。

山口百恵の引退は今や「伝説の引退」という一句がついて回ります。

それは引退してからというもの、一切のテレビは勿論、インタビューにもちょっとした特別出演という形も全くなく、私たちの前から姿を消したからでしょう。

だからこそ完全無欠の引退劇といえるのでしょうね。

今現在の芸能界では、結婚しても育児が終わった段階で再デビューを果たすタレントさんが多いのを思うと、芸能界に全く未練を示さない、この終始貫かれた鉄の意志があるからこそ、「伝説の引退」と言えるのでしょうね。

️大スター山口百恵、彼女は伝説を残した

如何だったでしょうか?「プレイバックと共に振り返る山口百恵の歴史」という事で紹介してみました。

まあ、山口百恵さんの芸能界での活躍はネットで十分調べられると思いますので、ここでは私が当時、思った事や感じたことをメインにして紹介させてもらいました。

確かに引退してしまったのは非常に残念でしたねえ。

何せ私がファンになった芸能人、軒並み「結婚」→「芸能界から引退」という流れになっていましたから。

ざっと振り返っても「キャンディーズ」「五十嵐淳子」「仁科明子」といったところが私の前から消えていったのですから。

青春真っ盛りの私にとったらそりゃあ、ショックでしたよね。

でも、結局、引退してからも一切、表舞台に現れず初志を貫いたのは山口百恵さんだけでした。

あとの人たちは時間の経過とともに次から次へと芸能界に再び現れてきました。

嬉しい気もしましたが、今となってはあまり感心できない気持ちで一杯です。

ただ、海千山千の世界が芸能界。

昔の事にいちいちこだわっていたらとても芸能界なんてところでは生き延びていけないでしょう。

そういう意味では、復帰した人達はタフだった、という結論でいいでしょう。

また話が逸れてしまいました。

山口百恵さんの引退後は80年代アイドルたちが一気にデビューしましたね。

特に松田聖子さんと中森明菜さんは百恵さん無きあとのアイドル界を引っ張っていってくれた大功労者だと思います。

いずれにしても山口百恵の歌は良かった!「プレイバックpart2」もいいですが「プレイバックpart1」もなかなかいい曲ですよ。

機会があったら一度聞いてくださいね!