いつ頃からでしょうか?日本語が乱れてきだしたのは。

私が知る限りにおいてはテレビ文化が花盛りになった昭和50年代頃からその兆候があったように思われます。

テレビコマーシャル等で数々の目新しい言葉が生まれてきた時代です。

俗にいう「キャッチコピー」というものですね。

そしてやがてバラエティー番組を中心にどんどん、日本語は乱れ崩れてきました。

新宿のことを「ジュク」と言ったり、警察の事を「ポリ」と言ったり。

そして今回ご紹介致します「ら抜き言葉」が横行し始めます。

ところが私自身も全く違和感なく「ら抜き言葉」を使っているから不思議です。

新聞もテレビも、マスコミに関わる機関自体が間違いを指摘しないのですからね。

それでは今回は少々、国語の文法の話しに偏ってしまうかもしれませんが私自身が中学高校を通して文法は全く苦手だった口なので、極力、専門知識に走り過ぎないようまとめてみるつもりです。

ら抜き言葉、使っていませんか?

さて、タイトルにもありますように「ら抜き言葉」を皆さん、使っていませんでしょうか?

基本的に「ら」を抜いて書いたり話したりすることは日本語の文法上は誤っているのです。

しかし、その事を誰も指摘したりはしませんね。

別に「ら」を抜いたからからいって、言葉の意味が通じなくなることもないからでしょう。

では、「ら」についてざっくりですが大まかにならない程度に見ていく事に致しましょう。

ら抜き言葉とは?


それではまず「ら抜き言葉」について少々、学校で学習したつもりになってみていきましょうね。

助動詞「られる」の「ら」を取ってしまっている

「ら抜き言葉」というのは助動詞の「られる」の「ら」のみを抜き取ってしまって使っている言葉を指します。

さてここでそれぞれのややこしい単語について少しばかりおさらいをしておきましょう。

まず助動詞というものは、

・動詞の付属語であり活用がある
・体言・用言に意味を添える単語

であるのです。

そして

・受け身
・尊敬
・可能
・自発

という動詞型の活用で主に動詞の未然形につくのが特徴です。

ここで未然形というのはどういう意味だったでしょうか?それは「まだそうなっていないこと まだその事が起こらない事」という意味なのです。

つまり「ら抜き言葉」の「ら」は助動詞であり,動詞の「未然形」の末尾につけて活用するものであり、その動詞の意味合いは「受け身」「尊敬」「可能」「自発」の4つの意味合いに主に使われる、という事になるようです。

さあ、いかがですか?ここまで理解できましたでしょうか?「え?全然分からない?」

ウウン、仕方ないですね。

バカな私が難しい日本語の文法を解説するのはここが限界です。

第一、日常会話で「受け身」やら「尊敬」とか「未然形」とかを意識して話していませんからね。

これ以上の学問的追求を目指すなら。

日本語検定を受ける覚悟で日本語を勉強し直さなければならないでしょうね。

でも今となってはそれはまっぴら御免ですけどもね。

下一段活用の影響とも言われている

「ら抜き言葉」の横行は五十音の下一段活用も影響していると言われているようです。

その前に下一段活用について少し触れておきましょう。

助動詞の活用語尾が五十音図の「エ段」だけで活用するものを「下一段活用」といっています。

昔、学校で習った事をかすかにでも思い出した方も多いのではないでしょうか。

動詞の次に来る音、例えば「れ」や「け」などが五十音で見れば「エ」の段にきます。

それらを使う言葉が「下一段活用」と呼ばれるわけです。

さて下一段活用はまあ、いいとして実際にその通りに使おうとすれば、案外発音しにくいのがお分かりいただけるでしょうか?

「ら」の次に「れ」がくると確かに発音がしにくく、ちょっと面倒くさい感じがするのですよね。

だから知らず知らずのうちに「ら」を特別使わなくなってしまったのかもしれません。

「乗れる」「上れる」「走れる」など


例えば「乗れる」「上がれる」「走れる」などがそれに該当してきます。

これらの言葉は本来「ら」をつけるべき言葉のはずだった、という訳なのです。

「乗られる」「上がられる」「走られる」という訳です。

たった一言「ら」がついただけで言葉の意味が変わってしまった感もありますし、早口で発音すると確かに言いにくいのですよね。

それならわざわざ舌をかみそうな言い方をせずにさっさと「ら」を抜いて喋ってしまった方が楽じゃないか、というのが現代に生きる人々の偽らざる心境なのかも分かりませんね。

いつ頃から使われるようになった?

さてそれでは「ら」を抜いて用いるようになったのは何時頃のことなのでしょうか?

このお話の冒頭でも少し触れましたが、恐らくテレビが一家に一台、完璧に揃いだした昭和50年代の後半あたりから「ら抜き言葉」が出てき始めたのではないかと、私は思っています。

西暦で言え1980年代からが該当しそうです。

確かこのあたりからテレビのCMに斬新なキャッチコピーがあふれだしてきました。

「なんとなくクリスタル」「美味しい生活」、果ては当時の人気番組でギャグや流行語として変な日本語のオンパレードになっていったのを覚えています。

とにかく和製英語というか日本語に英単語をくっつけて略字にしてしまうとか、(喫茶店をサテン、マクドナルドをマック、あるいはマクドなど)これらの言葉がテレビから毎日、洪水のように流されてきたのです。

また時代の最先端をいっていたはずの各局の報道情報番組の有名アナウンサーたちが軽いノリでおかしな日本語を平気で使っていました。

今、ネットの世界ではそれこそ魑魅魍魎のような怪奇な言葉が日常茶飯事で流されています。

動画の中の文字、投稿の文字、SNSで使われている文字。

もう文法も何もあったものではありませんね。

本当にめちゃくちゃです。

しかしながらこのような傾向の礎は1980年代のマスコミの多くから既に発信されていたことは疑いようのない事実だと私は思っているのです。

そんな流れの中で「ら抜き言葉」の発生が見過ごされてきたとしてももはや誰も気づかなかったのではないでしょうか?

文法的にNGだが、通じるようになった

「ら抜き言葉」は確かに文法的には誤りです。

先ほども触れましたが、動詞の後に続くはずの助動詞を不完全な形で用いているからです。

ところが実際に「ら」を抜いて使ってみたからといって人々の生活やコミュニケーションに著しい支障が起こったかといえば、応えは「ノー」でしょう。

実際に何ら困った事は起きていないのです。

意味も大きく歪曲されて相手に伝わる、という事も起こっていません。

例えば本来の使い方が「乗られる」と言うべきところを「乗れる」と言っても全然、違和感は覚えないのです。

言葉を使った会話は、前後の文脈というか話のニュアンスによって大方、会話が成立します。

例え全然違う言葉を間違って言ったとしても瞬時に判断して頭で理解し直したり出来るものです。

だから「ら」という文字が一つ抜けたぐらいでそうがたがた言い放つ方がおかしな人、という風潮が起こってしまったのかもしれませんね。

特に若者は普通に使用している

さて、今の時代の若者にとって、「ら抜き言葉」がそれほど重要な問題かと問えば、必ずや答えは「ノー」と却ってくるに違いないでしょう。

ネットが生まれながらにして既に存在していた人達です。

パソコンやスマホを縦横無尽に使ってSNSに没頭する時代です。

今までのように自分が発信した文書が「私」から「公」に行っていたのではなく「私」から「個」、つまり一般人同志、何ら自分の人生において深い影響も与えないであろう人間とのやりとりになっているからです。

そこにはあなたへの厳しい採点や評価もありません。

緩い関係が延々と続くだけです。

そんな環境の下にいてどうして正しい日本語の取得が出来るでしょう。

誰もあなたの日本語のここが間違っている、などと指摘しません。

間違ったまま、ネットを使い続けるのですから今更どうしようもないでしょう。

よって、今の若い人達が「ら抜き言葉」だけではなく全ての日本語において間違った使い方をしていたとしても、それは確たる大事な事ではないのです。

だって、ネットに投稿している人の大部分が間違っているのですから。

大部分に抵抗する方が却って怖いですからね。

教科書や新聞には一切使われない

ところが教科書や新聞といった活字を使う媒体においては、しっかりと「ら抜き」ではない正しい日本語を使い続けてくれています。

ある意味「ほっ」とできる出来事ではありますね。

ただ、残念な事に若者の多くは全国版の新聞社が発行する紙媒体をほとんど読みません。

これは日本の問題だけではなく全世界共通の問題かも分かりませんが、ネットがあれば手軽に手早くニュースや情報が手に取るようにゲットできてしまうのですからどうしようもないのです。

かつてはニュースや情報を取得しようとしたら毎晩、テレビでニュースを見るか、あるいは翌朝の新聞を待ってじっくり読むか、のどちらかでした。

ただ活字媒体の新聞はさすがの情報量は豊富でテレビのニュースが伝えきれていなかった情報も網羅していました。

勿論、正しい日本語で、です。

よって昔の学生さんを含む多くの若者は正しい日本語に接する機会が今よりもはるかに高かったというのは疑いようがないでしょう。

更に各家庭もほとんどが新聞を購読料を払って取っていました。

ところがここにもネットの普及により新聞を定期購読しない家庭が大幅に増えているという実態があるわけです。

社会人になって今更学校時代の教科書は読まないでしょう。

救いは新聞だけなのですが、現状は今、もうした通りです。

このような状況だと、これからますます日本語が解体されてしまい元の原型を留めない変な母国語になってしまう可能性も無きにしも非ず、といった事態に陥ってしまうかも分かりませんね。

代表的なら抜き言葉を見てみよう

それではここからは代表的な「ら抜き言葉」を見ていく事に致しましょう。

全部で5個のご紹介です。

ピーマン食べれる

代表的なら抜き言葉の1つ目は「ピーマン食べれる」です。

多くの子供が(中には大人も)嫌いな野菜のナンバーワンの座を常にニンジンと争っている「緑の苦み」、それがピーマンです。

ピーマンのあの独特な苦みが子供の味覚に合いません。

基本、甘いもの好きな子供には生は勿論のこと、お母さんがいくら腕によりを振るって料理しても必ずやお皿の端っこにニンジンと共によけられている存在、それがピーマンです。

このピーマンを食べることが出来るようになれば、あなたは晴れて大人の仲間入りと言える訳なのです。

食べられるが正解

「ピーマン食べれる」は「ピーマンを食べられる」と言うのが正解です。

「ピーマン食べれる」は確かに自分の意思でピーマンを食べることが出来ますよ、という意味とお母さんが子供に「ピーマン、ちゃんと食べることができる?」と相手の気持ちを聞く様子とが伺えます。

そこに正しい「食べられる」という言い方にしておけば、「私はピーマン、嫌いだけど残さずにちゃんと食べることができますよ」という「可能」の意味合いが色濃く描出されてくるのです。

しかし、何気ない日常会話だと、どちらの言い方でも十分伝わっている感じはしますね。

ここら辺が日本語の奥ゆかしさを通り越した「無駄」というか難しさを大いに感じさせる一面を見る事ができますね。

クレヨンしんちゃんで一般化

人気アニメ「クレヨンしんちゃん」の作中で主人公のしんのすけはピーマンが食べられず嫌いだったのでしょう。

確か設定は幼稚園児のはずだったと思いますが、日頃、大人顔負けの事ばかり言っていてもさすがに食べ物の好き嫌いの激しさは5歳児の設定になっていますね。

劇中でしんちゃんが「ピーマン食べれる」と言うシーンのシチュエーシンは綺麗なお姉さんに向かって

「おらは野原しんのすけだぞー、ピーマン食べれる?」という感じで言っているようです。

どうやらこれはしんちゃんの口癖で一種のナンパのセリフのようですね。

相手の女性に対して「私はピーマン嫌いだけどお姉さんは食べることができますか?」といのが直訳した感じでしょうか?

つまり「食べれる」は自身の事ではなく疑問形として第三者に尋ねていた、というのが真相のようですね。

6時に起きれる

代表的なら抜き言葉の2つ目は「6時に起きれる」です。

朝の6時に起きるのはなかなか大変です。

特に朝に弱い人にとったら6時という時間帯はまだまだ熟睡中の時間かもしれませんね。

となってくると、この場合の「起きれる」はどっちの意味でとったらいいのでしょうか?

「自分の意思で起きることができる」、の方でしょうか。

それとも母親か誰かが「6時に起きることができるのですか?」という疑問形なのでしょうか?

さあ、どっちの意味になるのか、「起きれる」だけでは見当がつきかねますね。

起きられるが正解

「起きれる」の本来の言い方は「起きられる」が正解です。

この場合、自分でちゃんと起きることができますよ、という意味と「ちゃんと6時に起きることができるの?」という疑問形と第三者からみてあの人は6時にきちんと起きることができます、と敬われる感じでみてもらえる表現の3つが出てきます。

「ら」を抜いたか抜かなかったかでこの言葉の意味合いが大きく変化することはないかもしれませんが、ここはきちんと正しく「起きられる」という言い方を覚えておきたいところです。

「ら」を抜くとどこか相手に対してぶっきらぼうな言い方をしているように聞こえてくる感じがするんですよね。

やはり日本語というものは丁寧に使いたいものですよね。

授業に出れる

代表的なら抜き言葉の3つ目は「授業に出れる」です。

「出れる」つまり「出席できる」という意味合ですね。

しかし「出れる」とだけ聞くといくつかの意味合いが考えられます。

相手に対して「授業にちゃんと出席できるのか?」と問われているシーン。

自らの意思により授業の始まる時間までにはきちんと席について出席出来ているシーン

の2つです。

どうやら「ら」を抜いて話をすると、言葉の意味あいが限定されてくるきらいがあるようですね。

「ら」を抜かないで話した時にはこの2つの他に第三者があなたの事を別の人にいい意味でアピールしている情景が浮かんでくるからです。

出られるが正解

「授業に出れる」ではなくて「授業に出られる」と言うのがこの場合の正解です。

「ら」を抜かないことにより第三者からみた意見の意味合いも込められるようになりました。

自らの意思で授業に出ます、という意味と相手の人が「授業に出るのですか?」と疑問形で聞いた場面とを合わせて3つの意味あいが成立するのです。

まあ結局「ら」を抜くことによって発言した本人にとっては言葉を短縮しただけの感覚しかないのかもしれませんね。

その方が確かに発音しやすいというメリットはあるからでしょう。

「ら」の次に「れ」を続けて発音するのは確かに舌をかみそうな危険性がありますからね。

日本語というのはこういったところで段々と省略化されて崩れていくのかも分かりません。

しかしながら今の口語体は昭和の頃になってようやく世間に浸透してきたもののはずです。

明治時代はまだ文語体が主流でしたからね。

「森鴎外」や「樋口一葉」の作品を読んだことがある方なら分かると思いますが、今の概念で読もうと思ったら文体に馴染みがないので全く読めません。

そう思うと今、この時代で「ら」抜き言葉が横行していることは、結局時代の流れの結果と言えるのかもしれませんね。

まだこの服着れる

代表的なら抜き言葉の4つ目は、「まだこの服着れる」です。

身長が伸びたからか、はたまた流行遅れになったからか、お気に入りだった洋服をこの先も着ることができるかどうか、を問うた文言です。

「着れる」という言葉の意味を率直に解釈したならば、

「着ることができる」なのですが、この場合でも「自分一人で誰の助けを借りずとも着ることができる」と「流行遅れや身長が伸びた事によって服のサイズが合わなくなったりした理由で、まだ着る事が可能だろうか?という問いかけの言葉になっている」の2つの意味合いが込められていますね。

ただ、日本語的にいうとこの言葉も「ら抜き」言葉となっています。

本来の正しい使い方は「服を着られる」が正解となります。

着られるが正解

「服を着られる」という言い方をすれば上記の意味合いにプラスして第三者が見た場合の判断が加わります。

つまり「あの方は只今、洋服をお召しになっています」という伝聞の言い方が加わるのです。

そう思うと本当にお日本語というのは難しい言語なのかも分かりません。

たかが「ら」が一つ加わるだけでその言葉の意味あいが2通りにも3通りにも拡大するのですからね。

服を着られるかどうかについての会話は、一般家庭内においてお母さんと子供との間で多く会話されるのではないでしょうか?

子供がお母さんに対して「この服、着れる?」と聞いたとしてお母さんは今冬だからそんな薄手の服を今の時期に着せる訳にはいかない、という考えを持つでしょう。

一方の子供の方は服を着るときにいつもお母さんに手伝ってもらっていたので、たまには一人で着ることが出来るところを見せてお母さんから褒めてもらいたかったのかも分かりません。

このように発言する人の年齢や立場によっても、「着れる」「着られる」という言葉の意味が大きく変化してくるのです。

本当に日本語は注意して聞き取らないと全然違った方向に話が進んでしまうかもしれませんね。

だから、日本には言葉を娯楽にした「落語」や「漫才」という大衆芸能が発展したのでしょうか?

明日来れる?

代表的なら抜き言葉の5つ目は、「明日来れる?」です。

この「明日来れる?」、活字として文字を目で追うのなら、この文章が疑問形になっていることが分かります。

よって、相手の人が自分に対して「明日、来ることができますか?」という事を聞いてきているんだな、と判断できます。

ところが普通に耳と口との会話だと、「?」のイントネーションが聞き取りにくかった場合は全く違う意味合いに解釈されてしまう事でしょう。

この場合でも相手の人が明日に自力で約束の場所に行きますよ、という意味で判断してしまう可能性もあるのですよね。

来られるが正解

さて、「明日来れる」の正しい日本語は「明日来られる」が正解です。

「明日、来られる」になれば自分の予定がないのでその時間にその場所へ行く事は出来ますよ、と言う意味合いと明日、この時間にここへ来る事が出来ますか?、という疑問形。

それと第三者が別の人に対して「Aさんはちゃんと明日、ここに来る事ができます」という言い方を敬意を込めた表現にして伝える意味合い、とに分類されます。

ただ、この場合でも最近の日常会話では「ら」を抜いて短縮形のような感じで話すケースが多いでしょう。

確かに意味は十分伝わります。

親しい間柄だったら相手に対する敬意も必要ないかもしれません。

この先日本語はこういう感じで時代の変遷と共に簡易化、短縮化されていくのでしょうか?皆さんはどう思われますか?

ら抜き言葉にはメリットもある?!

ここまではどちらかというと、「ら抜き言葉」による日本語の衰退と申しましょうか、崩れゆく日本語の行く末を案じる調の事を書いて参りました。

しかし、世の中は裏があれば表があるように悪いと思われている事の中にも実はいい事もあるという事があり得そうなのです。

そこで「ら抜き言葉」の弊害面ばかりではなく「ら」を抜くことによって起こるメリット面をピックアップしてみたいと思います。

「可能」と「受け身」と「尊敬」を区別できる

「ら」という助動詞は「可能」「受け身」「尊敬」という意味合いを発揮できるものだという事が分かったのですが、あえて「ら」を抜くようにすればこの言葉のそれぞれの意味を狭めて、区別しやすくなるというメリット面が発見できます。

「られる」という表現を行う事によって、同じ言葉が「可能」「受け身」「尊敬」というように3つの意味を同時に持ってしまうわけなのですが、それならば始めから「ら」を抜いてしまえば少なくとも「尊敬」の意味合いは発生してこなくなるはずです。

この特徴を踏まえておけば、状況に応じて「ら抜き」にするか「ら」を抜かないようにするか、の判断基準が生まれてくることになるのではないでしょうか。

「花子さんは食べられる」だと3つ解釈できる

それでは具体的に例文を立てて考えてみましょう。

「花子さんは食べられる」を用いて解釈してみましょう。

先ほどまでのご紹介に則ればこの文章からは「可能」「受け身」「尊敬」の3つの意味合いが発見出来る訳です。

食べることができる

まず最初は「可能」という解釈からみていきます。

花子さんは食べられる、つまり主役である花子さんは何かを食べることができる、という意味合いです。

花子さんは好き嫌いはありません。

今、食卓の上には美味しそうなケーキが置いてあります。

こういうシーンになっていれば主役である花子さんは、目的物であるケーキを食べたのだな、という事が分かりますよね。

よってこの場合の「食べられる」は「可能」という意味合いになるんだな、と判別出来る訳なのです。

食べられてしまう

「花子さんは食べられる」を違う視点で眺めると、また違った風景が見えてきます。

ちょっと怖い展開なのですが、何と花子さんが誰かに食べられてしまう、という意味合です。

傍から見ている傍観者が違う人に尋ねます。

「あの花子さんと書いてあるお菓子は食べられるものですか?」と。

そう、実は花子さんは人間ではないのです。

ただのお菓子なのです。

名前が「花子さん」なのです。

それを見た子供がお母さんに聞くのです。

こういう展開ならば見事に「食べられる」が「受け身」の形になります。

こう思うと本当に日本語の言葉一つが持つ意味の多様性。

感心するばかりですね。

お食べになる

そして3つ目の「花子さんは食べられる」の持つ意味合いは「お食べになる」という「敬語」の意味合いです。

あなたが第三者の人から花子さんの事を訪ねられました。

花子さんはこの食事がお口に合うでしょうか、と。

するとあなたは敬意を込めて「花子さんはこのお食事を美味しくいただく事と思います」と。

即ち、あなたの目から見た花子さんへの尊敬の念を第三者の方に語っているわけです。

これが3つ目の「尊敬」に当たるわけです。

「尊敬」の意味合いが込められている時は、当事者である花子さんからは言葉は発せられません。

あなたを含めた別の人が言葉を発しているのです。

ここが「尊敬」の言葉の使い方の違うところなのです。

それにしても、「食べられる」という一つの言葉に3通りもの意味が込められているのです。

日本語とは何と含蓄に富んだ素晴らしい言語なのでしょうか?

だから外国人の方が初めて日本語を勉強すると口を揃えていう訳ですね。

「日本語は難しい」と。

実際、日本で生まれて日本で育った人間でも訳の分からない日本語を使う人は結構います。

まあ、そういった現状ですから諦めずに国語や漢字を勉強しましょうね。

ここで「食べれる」と言うと「可能」だということが分かる

最後になります。

「ら」を抜けば「食べれる」となりほぼ「可能」を意味する言葉となることが分かりますよね。

これは本人自身の意見であり意思です。

英語で言えば「can」です。

「私は◯◯できる」という意味合いです。

しかし、「食べれる?」となったら「受け身」に変わります。

本当にややこしいですが文字一つあるかないかで日本語のニュアンスは大きく変わります。

本当に日本語というのは勉強のし甲斐がありそうですね。

なるべく正しい日本語で話そう!

如何だったでしょうか?「ら抜き言葉5選」と銘打って

・ら抜き言葉の意味
・代表的なら抜き言葉を5つ
・ら抜き言葉のメリット

という順番で「ら抜き」についてご紹介して参りました。

国語の勉強のようになって助動詞だとか活用だとか下一段活用だとか、学校の授業を思い出せそうな言葉が多数出てしまいましたね。

いやあ、ややこしかったです。

ただ、いずれにしても日本で生まれて日本で育ったからには誰が聞いても恥ずかしくない正しい日本語を使ってもらいたいからです。

今や外国の方が多数、日本に観光に来る時代になりました。

もしかしたらそのような方たちの方が正しい日本語を勉強されているかも分かりません。

私たちの母国語は日本語である、という事を今一度、再認識する必要もあるかもわからないのです。

品が無いと思われてしまう

正しい日本語を使えない人を見て、あなたはどう思いますか?

特に外国の人とお仕事をする機会の多い方にとったら尚更、正しい日本語の習得は品格というか「品」のある人間になるための欠くべき習得事項と思えるのですよね。

その人の実成を見ればあらかた紳士かどうかは分かりますが、話してみたらガックリする人間も結構、いるのです。

例え外見がもう一つさえなくても正しく美しい日本語をスパッと使えたら印象は大きく変わります。

日本語のややこしさは「ら抜き言葉」だけではありません。

幅広く勉強して品のある人間を目指しませんか?