みなさんは「恥をかく」、つまりは「情けないなぁ…」と感じてしまう事は無いでしょうか?人は誰でも失敗をします。

そう考えると本当に情けなく思わなくてはならないのは、「失敗をしてしまった直後のケアの方法」ではないかと思います。

そこで今回は、自身を「情けない…」と感じてしまったときに観て頂きたい、自身を鼓舞する方法を記事にまとめて皆さんにご紹介出来ればと思います。

「情けない…」と思っても、時間は返って来ません。

前向きにいきましょう。

情けないなぁって感じる時ってどんな時?

まず「情けない…」と感じてしまう状況とはどんな状況でしょうか?

何か失敗した時、思っていたように出来なかった時、期待に応えられなかった時、自分を守りたいあまり人を傷つけてしまった時などなど…。

長い人生を生きていけば、こんな事はたくさんありますよね?

そうやって、「またやってしまった…」と思っても、2、3日したら忘れてしまって、また同じ失敗をしてしまい、強い後悔を感じてしまうことの繰り返しで、人は人生を送っていくのでしょう。

人は誰でも失敗はある。

しかしその失敗を「善し」としていては、前進できません。

失敗は誰にでもあるのだけれども、己の失敗を「悪し」として改善していく姿勢が重要なのです。

しかし失敗を改善していくことも一筋縄ではありません。

では一体どうすれば、「情けない…」と感じてしまう状況から解放されるのでしょうか?

情けないと思う心理状況から抜け出す方法

ではつづいて、「情けない…」と感じてしまうことから脱する方法を見ていきたいと思います。

ここでご紹介するのは「考え方」に重点を当ててご紹介していきます。

ご自身に合った具体的なモノの捉え方が見つかれば、何か改善までの糸口が見つかるかも知れません。

順番にご紹介していきますので、さっそく参りましょう。

情けないという状況は変わらないと受け入れる

まず、いくら自身を「情けない…」と嘆いても状況は改善されないと考えましょう。

確かにしてしまった「失敗を分析」して、「次回からは絶対にやらないんだ」という意識は重要です。

しかし、中には「自分はなんて情けないんだ…」と、反省だけして次回から有効的な「どうしていたら良かったのか?」という改善点を挙げずに終わってしまうこともあるかと思います。

これでは単なる「反省」、「自己否定」だけの一種の「自己満足」だけで終わっているので、

本当に情けないと感じるのなら、「では次回からはどうすれば?」という自身への問いかけが重要です。

どんなに深刻に悩んでも、「何が悪かったか?」、「では次回からはどうすれば?」という、一種の「自己分析と改善」を行わないと、

ただの時間の浪費というとても「もったいない状況」になってしまいます。

折角悩む時間を設けるのなら、自身を本当の意味でに見つめ直す、「有効な時間の使い方」をした方が賢明でしょう。

過ぎた時間は帰って来ませんからね?

情けないと自分を責めない

そして次に、「情けない情けない」と自分を責め過ぎるのも止めた方が良いでしょう。

あまり自身を追い込み過ぎても不必要に縮こまってしまい、それから「同じ様なミスを誘発してしまうこと」もあります。

更に度が過ぎれば、「もう一生やらない」と諦めてしまう事もあり得るでしょう。

何事にも失敗はつきものです。

どんな優秀な人材も始めは「大きな失敗」を重ねてきたのでしょう。

不必要に根拠のない「自己否定」は、自身の成長や、これからの人生設計・実現に大きな溝を開ける原因になってしまいます。

失敗を重ねてしまう自分を責め過ぎるのはあなたのためになりません。

何処かで「ずぶとく生きる事」も人生においては必要なことがあるでしょう。

情けないを自己防衛にしない

そうであっても、「自己防衛し過ぎる事」も余りよろしくありません。

「自分に甘い」のは、自身の失敗を容認すること、つまり「自分だけは失敗しても構わない」という事になります。

では周りの方に向けてその気持ちはどうでしょうか?

「自分は良いけど、あいつの失敗はダメ」となるのならおかしな話です。

周りとの「協調性・信頼性」にも響いてくるでしょう。

「情けない」と思うのだから、「改善した方が良い」のは事実です。

しかし「自分を責め過ぎるのもダメ」、「自己防衛し過ぎるのもダメ」です。

どちらにしても「バランス」が重要です。

その一種の「判断基準」は難しいところですが、それが仕事に関係のある事ならば、ある種の客観性も重要になります。

その「情けない」と思う事が、直す事をしないと周りにどんな苦痛や、わだかまりを生むか?どんなデメリットがあるか?

という視点で捉え、あまりに理不尽ならば直す必要があるし、あまり関係のないことならば無理して直す必要性はありません。

情けない事に対して、周りの人も巻き込む「緊急性があるかどうか?」が直すか直さないのかの大きな基準の一つであるでしょう。

自分ルールを一旦壊す

どうしても自身の「情けない状況」が改善されない場合は、自身の中の生活習慣やルールがおかしい場合があると思います。

そういった一種の「自分ルール」を一旦は壊さない事には抜本的な改善は見込めないでしょう。

ルールのパターンを増やす

自身の中での「自分ルール」、それがおかしいと当然、その人の思考・行動から導き出される結果も「おかしいもの」になってしまいます。

ですからこのおかしい「自分ルールの改善」に努めなければなりません。

そもそも自分ルールとは、例えば「人と会う時には10分前行動を心掛ける」とか、「家路に着く時は2駅分歩いて帰る」などの、

他人には関係ないけど独自で設けている「自分を規制するルール」のことです。

この自分ルールの改善にはいくつか方法があるかと思います。

例えば痩せたいのに、「全て三日坊主になってしまう」という状況では、「ダイエットが続かない」という問題点が挙がるでしょう。

何故続かないのかはそれぞれ違った原因があるのでしょうが、第一に「目標設定が辛すぎる」ということでしょう。

辛い運動や、食事制限は「いままで気を付けてこられなかったんだから、ツケが周って太っている」という状況があるのだと思いますから、そのやり方では「上手くいかない」としか言えません。

そこに気づいてやってこれたのならば、誰も太ったりしません。

続かないのは分かっているけど、何かやらないと満足できない、そんな考え方、ここで言う「自分ルール」が間違っているのです。

ではどう直したらいいのでしょうか?目標設定がキツ過ぎるのならば、「ほどほどにする」こと。

食事制限が辛いのなら「無理な方法はやらない」として、「ルールを緩くする事」を考えるのが第一にあるでしょう。

確かにこの方法を取ると、結果は遠のくばかりです。

しかし一日「1」でも前進すれば、一年間で「365」、三年頑張れば「1000以上の4ケタ」になります。

少しの変化なら「やっても意味ない」と決めつけるのではなくて、「少しの変化でさえも求めないのなら、何も変わっていない」と思い、毎日少しでも進めれば、正に「塵も積もれば山となる」でしょう。

他には、「強制的にやる」という方法です。

有無を言わさずということですね?決まった時間に筋トレをやるとか、

ジムに友人を作って毎週そのジムで絶対に会うという約束を作るといった方法で、「半強制的に行動」すれば、やるしかないので結果は出るでしょう。

やり方はいくらでもあります。

しかし今の方法で結果が出ないのならば、「やり方が悪い」としか言えません。

もっとご自身に合った、「最適の方法」があるはずなので、周りの人の力も借りて時間を掛けて直していくのがいいのではないでしょうか?

自分を肯定する


つづいてこれまでの方法でも改善できない場合は、「肯定」に走りましょう。

前述で「根拠のない自己防衛は良くない」との旨の文章をご紹介しました。

確かにこの考え方は変わりません。

できれば止めておいた方が良いでしょう。

しかし、自分を否定したところで改善の兆しが見えないのなら、先ほどの自分ルールの改善にもある通り、「やり方が悪い」はずなので、他の方法を取る必要があります。

そこでご提案するのが、「自己肯定」です。

失敗して情けない状況にある自分も、「まごう事なき自分」なのですからどんなに逃げても他人には成れません。

ですからとりあえずはそんな自分も「肯定」して、冷静に見つめ直すことも必要になってくると思います。

自分を一旦は肯定してみて、そんな「他人にすり替わって逃げられない状況からどうすればいいのか?」という視点から徐々に改善していくしかありません。

この考え方の良いところは、他人と自分は関係なく、「主観で自分を見つめ直せる事」です。

自分の事を考える時、「あの人はこうだから…」と他人視点で考え過ぎなところがあります。

しかしこのような考え方だと、上手く改善できない時もあります。

それは何故かというと、「あなたとその人は同じでない」からです。

与えられた外見や能力、価値観、性格など全て合致しているのなら、「あの人はこうだから、自分もこうしよう…」という視点は正しいと思います。

しかし改善のお手本にしている「その人とあなたの間に共通点がなければ、お手本にしている人を間違っている」という事に他なりません。

プロ野球選手になりたいのに、すし職人をお手本にしても果たして意味があるでしょうか?

ですからとりあえずは、他者は関係なく己の状況を己の目線で見て改善していく、その下準備に「自己肯定」をワンクッション設けることが重要になってきます。

あまり、「周りの人はこうだから、自分も…」と考えても上手くいかない時もありますから、

「他人は他人、自分は自分」と考えた方が楽に自分を改善でき、情けない自分から脱却できるのかも知れません。

プライドを捨てて無になる

次にご提案したいのが、時に「プライドが邪魔する」という点です。

記事冒頭でご紹介しましたが、鼻をほじっている時に知り合いから挨拶された時の状況を使いましょう。

ここで正解は、「挨拶されているのだから失礼のないようにきちんと返すこと」だと思いますがどうでしょうか?

しかし、「プライドが高い」と、異性の知り合いに鼻をほじっているところを見られた時点で「その高いプライドがズタボロ」です。

こうなると、相手を邪険に扱ったり、無視したりと、正に「カッコ悪い態度」になってしまいます。

これは、自分を「人前で鼻をほじるような人間に思われたくない」ということですかね?

または、「何で鼻ほじっている時に限って、挨拶してくんだよ?確信犯かよコイツ?」、「どうせ、鼻ほじってた話を誰かにすんだろ、このバカは」とかを考えているのでしょうか?

そういった考えから、「鼻をほじった自分が悪い訳ではなく、それを見た相手が悪い」となって、本来挨拶を返さなければいけない相手に「無視」という最悪のお返しをしてしまうのです。

しかし考えてみて下さい。

本当に「鼻をほじる事」はそんなに悪い事でしょうか?冗談で言っている訳ではありませんよ?人間生きていれば「鼻をほじる事」もあります。

確かにそれを人前でやる必要性はありません。

状況や場所を考えた方が良いでしょう。

しかしここで重要な考え方は、「確かに人前で鼻をほじる事は悪かった」、「それを見られて相手に誤解されたのでは?」、「いやいやそんな事より、挨拶しているのだから返さなくては」、「鼻をほじった自分を見られた事よりも、きちんと挨拶を返さなきゃ」というものです。

誰でも鼻くらいほじるんだから、「ごめんね汚いところ見せて、今朝鼻血が出たから気になっちゃって…」とか、

「うわぁあ、こんな時に限って最悪だぁ」、「毎回ここで鼻をほじるのがルーティーンなんだよ?」とか、

何でもいいのでプライドを捨てて「鼻をほじった事をカッコつけずに肯定して、きちんと挨拶を返す」。

こうすれば見てしまった相手も、そこまで深くは考えないでしょう。

逆に鼻をほじっているところも見て、挨拶したのに無視されたのでは相手からしてみて「汚いし、失礼な奴」としてそれこそ大々的に笑い者にされてしまいます。

そうなるくらいなら、「私のルーティンワークです」と言いきった方がよっぽど人としてカッコいいでしょう。

いや、鼻ほじってる時点で負けですね、すみません…。

みなさんはどっちを取るでしょうか?

切り替える

何か失敗をして「情けない…」と思った時、それが仕事中などの時間と状況が時々刻々と変わってしまう状況ならば、

「悩んでいても意味がない」、だから切り替えて頑張るのが良いと思います。

「自分に悩む」のはどこか自分を抑制してしまう行為です。

迷いとも言いますね?

ですから日頃の力が出し切れずに、いつもは絶対にやらないような「初歩的な失敗」をしてしまいます。

またそれを連発してしまう事もあるでしょう。

こういったときには「失敗」を悔やんでいても意味がありません。

むしろその失敗にこだわる事で、「今やらなくてはならない事に支障がでてきてしまう」という最悪の事態に陥ってしまいます。

何としてもそれだけは避けなくてはなりません。

ですからどこかで前述にも書かせて頂きましたが、「ずぶとさ」のようなものが必要な時もあります。

失敗を後悔したり、分析・改善することは状況を覚えていれば後でいくらでも出来ます。

今はやらなくてはならない事が他にあるのなら、そのことに囚われている暇はないはずです。

アンプのボリュームのような「つまみ型スイッチ」ではなく、パチパチと押す部屋の電気のような「ON/OFF型のスイッチ」を念頭に置いて対処していった方が良いでしょう。

自己暗示する

最後に最終手段をご紹介しましょう。

それは「自己暗示」です。

自身の状況に納得ができず、尚且つ直す事もままならないのならば、理想の自分を「言い聞かせる事」で直ったような気になることも必要かもしれません。

「病は気から」という言葉もありますし、「プラシーボ効果」なんてこともよく言われたりします。

タレントの武井壮さんによれば、骨折も自己暗示で治るといったような旨のお話もテレビでしておりましたから、

本気で信じて「暗示に掛けること」ができれば改善できるのかも知れません。

 

「情けない」と思っちゃう原因ってなに?


さて、続いてのテーマは自身を「情けない」と感じてしまう「原因」をまとめていきたと思います。

細かな原因が分かれば、それだけ対処法も見つかり易いというものです。

ご自身で思い当たる節がある場合は確認してみましょう。

人と比べたときに感じる劣等感

まずは一番多いであろう「劣等感」を感じた時です。

世の中、顕在的にも潜在的にも「競争」が多く取り入れられていますから、学校や社会に出てもこの「競争」の中に身を置く事に成ります。

これは何も試験結果の順位や、会社のノルマなどの数値化したもののみの話ではありません。

自分以外にクラスメイトや同僚が居れば、「君は○○より××だ」というように他人からは見られてしまいます。

直接言われなくても評価されてしまっていることだってあるでしょう。

そうなった時に人は劣等感を感じてしまうのです。

勝負で負けた時

次に挙げるのが「勝負に負けた時」です。

これは誰かと比較された時や、一人で何かに挑戦して出来なかった時でも同じ様に「勝負に負けた」と感じて、「情けなさ」を覚えてしまうことを言うと思います。

勝負に負けて感じる相手への怒りや、自分への情けなさはとても強烈に残り、後に尾を引く問題にもなりかねません。

また勝負に負けた相手に根を持ってしまい、人間関係が崩れてしまう事もあるかも知れませんね?

特に恋愛の三角関係などに破れた時はショックも大きいでしょう。

プライドがズタズタにされたとき

プライドとは自身の平静を保つのにとても重要なものです。

自分への自信や、肯定、時に物事を取り組む為の原動力にもなり、人間社会で生きていくためには多少なりとも必要ななるものでしょう。

しかしそのプライドが他者によって「ズタズタにされた時」は、自分への自信や肯定の崩壊、物事への挑戦をも止めてしまう、「自暴自棄」の状態になってしまいます。

こうなれば立ち直るのはなかなか難しく、多大な時間や労力が掛る事でしょう。

自分の理想や考え方と大きくずれていた時

人は何かに挑戦してみた時、「理想と現実」を思い知らされます。

「机上の空論」という言葉がありますが、いかに机の上で「理論上の話」をしても実際にやってみると、

その一生懸命考えた理論道理にはいかず、現実は不測の事態が多く怒ってしまうことを指しています。

「こんなはずではなかった」と感じて、物事が大分進んでから、後悔をしてしまう様は正に情けないのかも知れません。

もっとよく考えて、前もって準備できていたらどんなに良かったのかと考えてしまい、自己否定に繋がってしまう気持ちはよく分かります。

労働環境の変化についていけない

後は「変化についていけない」ということも考えられます。

社会や世の中は「常に動いていて」、その大きな変化に対応できない者はどんどん淘汰されていってしまうのがこの世の理です。

この時々刻々と変わる社会の変化について行く事は並大抵のことではないと思いますが、「できてしまう人」もいるのも事実です。

でないと社会は成り立ちませんからね?そういった変化についていけない自分を哀れに思って、

人と比べて劣等感を感じてしまう事も社会人の方なら誰でもご経験があるのではないでしょうか?

情けないと思っているのは自分だけ!

それではここからは、いよいよ「対処法」について書いていきたいと思います。

前述にも示した通り、ここでは行動というよりも「考え方」をまとめていきたいと思います。

そこで、皆さまにこの対処法をご紹介させていただく上で、一つの「前提」を書いておきたいと思います。

もう何年も前のテレビ番組の話しになりますが、その番組内で街ゆく日本人に対し、

「あなたは英語を話せますか?」とインタビューしてどれくらいの割合の人が「はい」と答えるかという企画をやっていました。

結果は英語を話せるといった人は2~3割程度で、半分以上が「英語は話せない」というものでした。

日本の英語教育は少なくとも中学からは行っているはずなので高校も通えば6年間、大学も通えば10年近く英語を勉強している事に成ります。

誰でも英語で簡単な自己紹介くらいは出来るはずですね?しかしほとんどの人が「話せない」と答えました。

そんな中でも英語が話せると答えた人の多くは、英検1級取得や英会話教室の通学、仕事で使用しているなど、

普段から「英語の勉強を努力している人」、つまりは「流暢に英語を話せる人」ばかりでした。

次に同じような質問を今度は「アメリカ」で行いました。

もちろん英語で「日本語話せますか?」という質問です。

すると結果は、日本語を話せる人はなんと8割ほどで、話せないと答えた人は1割程度でした。

そこで「では日本語で話しをしましょう」と英語で言うと、道行く人は自信満々に、「Sushi! Tempura! Ichiro~! Ichiro~!」と何個か単語を街中で叫んで終わり。

これにはスタジオのタレント陣も嘲笑でした。

しかし本来は「コレで良いはず」です。

この質問の意図は「言語が話せるのかどうかを他人は関係ないから自分で判断しろ」というものです。

日本人的に考えれば、納得がいかないかもしれませんが、それが正に「日本人の民族性」だと私は考えます。

相手に「○○できる?」と聞かれた時、自分に出来るという自信があっても、

日本人場合それは関係なく、「相手の要求しているレベルに応えられるか?」を考えてしまいます。

自分の自信や判断は二の次なのです。

もし「出来る」と応えて、相手に「じゃあ、見せて下さい」と言われて披露したとき、

「え?英語が話せるって言ったのに挨拶だけ?きちんと日常会話を初めから終わりまで完結させられるくらい話せないの?」などといったように、

自分の能力が相手の要求以下だった場合は、相手から「こいつは嘘付きだ」とか、「信用ならない奴だ」と思われるのが恐いのです。

ですから日本で「英語を話せますか?」という質問に対し、「英語が流暢に話せるような人」、

つまりは「英語に対し絶大な自信がある人のみ」しか「英語を話せる」と応えなかったのです。

日本人はよく「完璧主義だ」と持て囃されます。

「職人気質」とも言うかも知れません。

確かに向上心を重んじて日々の鍛錬を欠かさず物事を自分の為に極めていく高尚な人はいます。

しかし多く日本人は、完璧主義で「英語を話せない」と答えているのではなく、「相手の目を不必要に気にし過ぎているために英語を話せると答えられない」のではないかと思うのです。

もしかしたらもしもの時の「恥をかく覚悟がない」のかも知れません。

確かに相手の要求は何か?と考えその要求に足るような答えが出来た方が良いとは思いますが、

それは本当に「相手のため」なのでしょうか?私にはただただ「己の保身に走る」ような自己防衛の考え方にしか思えません。

アメリカ人が良いという訳ではありませんが、少しは日本人も「自分は自分で、他人は他人」と割り切って物事を考える必要は大いにあると思います。

これを「前提」としてどうしても書きたかったので書かせて頂きました。

長くなりましたが本題に参りましょう。

悩むほど情けないことはない

つい長々と前置きを書いてしまいましたが、このことはとても大事だと思っています。

自分の「返答」は、何のため何に対して、何に起因する答えだったかを考えることで、「今の答え方は単なる保身だ」とか、

「今の気持ちは紛れもなく相手の為だ」とかとても精度の高い「自己分析」に役立つと私は考えています。

そういった事を踏まえると、「自分は自分」、「相手は相手」なので、「悩むほどは情けなくない」のかもしれません。

自分は自分、相手は相手と「自分と外界と切り離して」考え、「何がどう自分が情けなかったのか?」を冷静に分析すると、

「そこまで悩むほどの事ではない」と思える事もあるのではないかと思います。

悩みの多くは「固定観念に囚われた、正しくないモノの見方からくるもの」であると思います。

そういった一部のしがらみや、どうでも良いルールに縛られた「偏見」で自分を見てしまっているから、

例えば「大自然」を感じられるようなところへ旅行でも行くと、「自分なんてちっぽけだなぁ」と感じて、小さな悩みがどうでも良くなるのではないでしょうか?

その「小さな悩み」はきっと「偏見」ではないのか?と思ったりしています。

みなさんはどう思いますか?

周りは何も気にしていない


私の友人に「不登校」になってしまった友人がいました。

学校の成績が悪くなり、家庭環境も悪化し、徐々に不登校になってしまったのです。

そんな折、久しぶりに学校へ来た友人は、とても申し訳なさそうに、そして自分を卑下している様子でした。

しかし、私も含め他の友人達も、その不登校の友人が学校に顔を出してくれた事にみんなホッとして、尚且つ喜んでいました。

しかし、友人はきっと自分を「情けない…」と責めていた事でしょう。

自分の事は自分にとって最重要であるはずなので、どうしたって「気になる」ことが多いでしょう。

しかし周りの人は、本人が考えているよりもそんな不登校や何とかにこだわっては居ません。

自分一人がこだわって悩んでしまい、周りは置いてけぼりの事もあると思いますので、

どうしても悩んでしまう場合は誰かに相談するか、何か別の事で発散して早く忘れてしまうのが良いと思います。

最後までこだわってしまうのは、多分「あなただけ」です。

考えを変えるだけで情けなくなくなる

考え方の違いと言えば、冒頭で話した鼻くそほじりの話でしょう。

異性の知り合いに「自分が鼻くそをほじっている事がバレた事」が情けないことではなく、

相手が私を見つけてわざわざ挨拶してくれたのに、「冷たく無視してしまったことが情けない」と感じなくてはならないということです。

このように考えれば、「次から挨拶されたら応えよう」とか、「異性に恥ずかしいところを見られても明るく気丈に振舞おう」と思うと思います。

考えてみればそっちのほうが絶対に良いでしょう。

自分にとっても相手にとっても…。

恥ずかしいところなんて誰でもあります。

しかし一番恥ずかしいのは、恥ずかしいところを見られて、「無かった事にしたり」、「そういう自分を否定して相手を責める」ようなことが一番「恥ずかしい」のではないでしょうか?

「てへぺろ」ってすれば相手もそんなに頭ごなしに否定してこないでしょう。

多分…。

情けないのは悪いことじゃない

そしてなによりも「情けないことを恐れない」で下さい。

人間誰でも不完全です。

そんな不完全なものが「完全になってしまったら」、それこそ終わりです…。

これは何かの歌の歌詞だったような気もしますが、訴えないで下さい、お願いです…。

まぁ、とにかく誰でも失敗や、思い悩むことはあるので、それをも否定してしまっては何よりも自分がかわいそうです。

例え今は情けなくても「止まない雨は無い」ので、努力すればいつかは身を結ぶ事があるでしょう…。

おかしいな、これも何かの歌詞のような。

情けない自分も自分

最後です。

もう言う事は何もありませんがとにかく、「情けない自分も自分」と最後は言い聞かせて、そんな自分も同じく受け入れて愛してあげて下さい。

自分の事を最後まで裏切らずに面倒みてくれるのは、まごうことなく「自分だけ」です。

そんな「不完全な自分」も受け入れられたら、自分ではなくて「誰かの恥をかいてあげられる、優しい人」に成れるような気もします。

人生山あり谷あり、いろいろあると思いますが、山も谷も越えたモン勝ちです。

どれだけ多く苦難を経験してきたかでここぞという時の人の度量が決まるのではないかと思います。

時には苦難の多い人生を楽しんで生きていきましょう。

疲れたら道中の団子屋さんにでも入って休めば、新しい出会いもあったり、長い人生の行く先を大きく変える出来事もあるかも知れません。

あまり気負いせずに気楽にいきましょう。