大みそかの夜には、お寺の鐘の音が響き渡ります。

お寺が近くになくても、NHKの大みそかの夜の放送では、各地の年越しの除夜の鐘を突く様子とその鐘の音が生放送で聞こえてきます。

「除夜の鐘」は、人の煩悩をうち払うものとして煩悩の数と同じ108回鳴らすそうです。

でも、小さい頃から大みそかの時には、鐘は108回突くんだよと親に教えてもらいました。

そのことは覚えていますが、なぜ突くのか、そしてなぜ108回なのかは知らなかったのです。

小さい頃に、煩悩と言われても何のことかも分からないはずです。

大人になっても、煩悩とは仏教用語なので正確な意味が分からないのです。

人間のもつ何かの悩みぐらいの感覚です。

しかし、108個もあるようには思えないのですが、本当に108個も煩悩があるのでしょうか?

そもそも「煩悩」とは、仏教徒が辛い修行に修行を重ねて「悟り」を開くのですが、その時に妨げになる心の迷いのことなのです。

特に修行をしているわけでもないのですが、何かを成し遂げようとする時にいろいろと考えてしまって前に進まない時などに「あいつは煩悩が多すぎる」などと悪口を言われてしまうのです。

優柔不断で決断ができない性格の人は、煩悩が多いと陰口を叩かれます。

会社の帰りに、ついつい女性が接待をしてくれるようなガールズバーや飲み屋に立ち寄ると、「あいつは煩悩が多いから引き寄せられる」などとも言われてしまいます。

何事も我慢できずに誘われるとフラフラとついていく人は、自分の感情をうまくコントロールできない煩悩の多い人かも知れません。

しかし、煩悩についての考え方はいろいろあります。

煩悩の中身としては、「腹が立つ」「怠けたい」「金を稼ぎたい」「もっと楽をしたい」などなどです。

煩悩の「煩」は「わずらわせる」という意味です。

煩わせて悩ませるという辛い精神状態なのです。

この辛い悩みがなくなれば、どんなに楽なのでしょうか。

それを仏教の立場から悩みを解決する努力、つまり「修行」が生まれたのです。

修行では、煩悩を生きる力に変えることができるのです。

修行という厳しい行動でなくても、毎日の暮らしの中でも煩悩と上手に付き合うことで、穏やかな気持ちになって精神状態も大きく改善されることもあるようです。

このように、「煩悩」は仏教とは切っても切れない関係があるようです。

仏教の出発点は、「一切皆苦(いっさいかいく)」(人生は思い通りにいかない)と知ることから始まります。

さらに「諸行無常(しょぎょうむじょう)」(すべてはうつり変わるもの)「諸法無我(しょほうむが)」(すべては繋がりの中で変化している)という心理にたどり着くのです。

このことを正しく理解して世の中を捉えると、つまらないこと(煩悩)に一喜一憂することなく心が安定した状態になるのです。

つまりは、「煩悩」から解放されるということなのです。

少し仏教の教えを説いたようですが、「煩悩」というものを理解する上からは仏教の基本も知っておく必要があるのです。

煩悩とは?

「煩悩」とは、仏教で心身を悩ませ、苦しめ、煩わせ、汚す心の作用のことです。

仏教では、「煩悩」が人間の「苦」の原因であると説いています。

現実的には、肉体や心の欲、怒り、執着などのことで、これを修行で消滅させることを「悟りを開く」とも言うのです。

「煩悩」は、何かを成そうとする時に邪魔になるものです。

「煩悩」には、人間の諸悪の根源とも言われる三つの毒があるのです。

それは、「貪欲(どんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴(ぐち)」の三つで、これらを合わせて「三毒」と言われています。

「瞋恚」はあまり聞かない言葉ですが、悪意や憎しみという意味です。

これらの三毒「貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)」に、さらに「慢(まん)」(慢心)、「疑(ぎ)」(仏教の教えに対する疑い)、「見(けん)」(誤った見解)の三つを加えて六煩悩と呼び、人間の根本的な煩悩とされています。

しかし、現実的には余計なことを考えていてぼんやりしていると、「煩悩を捨てなさい」などと言われてしまいます。

何か悪いことをしているように聞こえるので、不愉快に感じてしまいます。

自分がなんだか未熟者に聞こえてしまうからです。

何か考え違いをしてしまうと、「おまえは煩悩でいっぱいなのか?」などと揶揄される始末です。

正体が分からない時でも「煩悩」と言ってしまえばみんなが納得するところに不気味さがあるのです。

「煩悩」についてもう少し考えてみました。

読み方「ぼんのう」


「煩悩」とは「ぼんのう」と読みます。

もちろん仏教における教義のひとつなのです。

「煩」という文字は、「火」と「頁」という「頭」の部分の文字から成り立っています。

すなわち、燃えたつ炎と人の頭を意味する象形から、悩みで熱が出て頭痛がするさまを表しているのです。

頭が燃えてしまうほどに熱っぽくなっている状態なのです。

文字の成り立ちを考えるとおもしろいものです。

「煩悩」に悩んでいる人の様子が分かりやすく理解できます。

意味

「煩悩」の原語はサンスクリット語のクレーシャ(煩悩、苦痛、悪い心という意味)という言葉からきています。

このクレーシャの苦しみから人々を救うためにうまれたものが「ヨガ」ということらしいのです。

この「煩悩」がない世界を仏教では「涅槃(ねはん)」と呼びますが、修行僧は「涅槃」にたどり着くために日々辛い修行に明け暮れているのです。

仏教における教義のひとつ

「煩悩」は、仏教における教義のひとつなのです。

仏教の教義として分類すると、先ほど紹介した三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)が基本的な煩悩と言われています。

これ以外に、仏教において瞑想修行を邪魔する5つの煩悩は「五蓋(ごがい)」と言われ、「貪欲、瞋恚、惛沈・睡眠(こんちんすいめん)、掉挙・悪作(じょうこおさ)、疑(ぎ)」などがあります。

修行者を欲界に縛り付ける5つの煩悩は「五下分結(ごげぶんけつ)」と言われ、「貪欲、瞋恚、有身見(うしんけん)、戒禁取見(かいごんしゅけん)、疑」に分けられています。

さらには、修行者を色界・無色界へと縛り付ける煩悩は「五上分結(ごじょうぶんけつ)」と言われています。

このように、修行僧に対する基本的な煩悩である「三毒」以外にも、これらのす種類の煩悩に分けられているようです。

人間の心身の苦しみを生みだす精神のはたらき

「煩悩」の「煩」はわずらわしいという意味なので、何かを成し遂げようと頑張る時に邪魔になるわずらわしい悩みといえます。

わずらわしいことがたくさんできると、本来そのことを考えるつもりでも、つい欲望に負けてしまって余計なことを考えてしまうのです。

それによって、心身共に苦しんでしまうというパターンがあるのです。

試験勉強を頑張ろうと思っているのに、つい好きなガールフレンドのことを思い詰めてしまったり、「おごってやるよ!」と言われて、外に用事があったのについて行ってしまって、約束を破ったとして信用を失ってしまったりすることもあるようです。

「欲望」にすぐに負けてしまうような人は、「煩悩にまみれている」とか「煩悩のかたまり」などと非難されてしまうのです。

このように「煩悩」とは、現代社会ではマイナスのイメージとして使用されるようです。

ただひとつ、プラスイメージで使われる時があります。

それは「あの人は本当に子煩悩な人だ!」という時です。

「子供をわずらわしいと思う親」ということでは無くて、「子供を非常に可愛がっている親」という意味です。

肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など

「煩悩」とは、心を迷わせて乱す原因となるものです。

一般的には、煩悩は「欲」と考えがちですが、仏教の教義においては「欲」は生きる力と考えられていて、必ずしも悪いことではないのです。

生きるためには「食欲」が大事ですし、いいものが欲しいという「物欲」で一生懸命に働いてお金を稼ぐのです。

「欲」は生きるための力なのです。

しかし、こうした健全な「欲」だけではなく、「欲」を法律を無視してまで達成しようと執着することでトラブルを引き起こす場合があるのです。

三毒に心が侵されてれてしまうのです。

欲が強すぎると、自分自身をコントロールすることができなくなってしまい、他人と衝突して怒りや愚痴ばかりこぼしてしまうようになるのです。

煩悩を捨てるということは、すべての欲を捨てるということでは無くて、過ぎた欲望や怒り、執着を捨てることなのです。

使い方


「煩悩」という意味はこれまでに説明してきましたが、仏教で言う「貪欲、瞋恚、無知」の三毒を基本とする欲望なのです。

ですから、この三毒の悩みにまつわる行為をすることを避けようとするのです。

しかし、その三毒に負けてしまうと煩悩の塊になって仲間から非難されるようになってしまうのです。

そのような意味合いでの使い方が多いようです。

例文

「煩悩」を使った例文を以下にまとめてみました。

偉人でも修行中は煩悩に負けそうになった

受験生が、一日に5時間受験勉強をしようと心に決めて頑張ってきました。

初めの2日間は意志を貫いて頑張って勉強してきましたが、友人から好きなバンドのDVDを貸してもらったのです。

勉強が終わってから見ようと思っていたのですが、そのDVDのことが忘れられず、「少しだけ見よう」と時間を決めておいて見てしまったのです。

決めた時間でDVDを見るのを止めたのですが、残念ながらその魅力的な音楽シーンが頭の中を駆け巡って、真剣に勉強するどころではなくなったのです。

煩悩は、時間には関係なく心の中に留まってしまうものなのです。

ちょっとだけ見ようという「欲望」に負けてしまって見たことで、頭の中に煩悩を残してしまったのです。

修行僧や偉人が修行する時にも、頭の中に残っている「煩悩」に負けそうになるのです。

そんな時には、「煩悩に打ち勝つぞ!」という強い気持ちが必要なのです。

一般の人が、何かの目的を持って努力しようと頑張ったけれども、なかなか思うように進まなかったのです。

こんな時には「あの人は、煩悩が多すぎる」とか「煩悩にまみれている」と揶揄されるようです。

限界のぎりぎりまで自分の煩悩と戦った

「煩悩」というものは、なかなかしつこいものです。

偉人でも煩悩に妨げられて「悟り」がなかなか開けなかったという話もあります。

「煩悩」は切っても切っても次々に湧いてくる時もあるのです。

人間の煩悩の根源の「六煩悩」というものは、誰もが抱える煩悩のことです。

こんな煩悩は、生きていくためには自分の身体の中に自然に生まれてくるものなのです。

人間心の中には、「煩悩」を作り出す源泉があるようなのです。

だから、この自然に生まれて来る「煩悩」を、いかにコントロールできるかが人間の評価になってくるのです。

余計な「煩悩」に負けないようにしようと決心して、みんな戦っているようなものです。

「悪友のしつこい誘惑に負けないように、限界のギリギリまで自分の煩悩と戦った」というようなことになるのです。

みんな、悪い煩悩に負けないように、戦っているのです。

彼が人並みに煩悩を持っていると感じる瞬間だった

いつも淡々とした感じで暮らしている人がいます。

友人がギャンブルに凝ってしまい、毎日というほどパチンコ店に出かけています。

今日は朝一から狙っていた台が確保できて、数万円儲けたとか楽しそうに仲間と話しています。

しかし、一緒に行こうと誘っても乗って来ません。

別の仲間は、スタイルの良い彼女がいるキャバレーに行こうと誘いますが、これもまったく興味が湧かないようなのです。

彼は、何に対しても欲がなく、悟りを開いた僧のようにさえ思われたのです。

しかし、そんな彼でもある日落ち込んでいた時があったのです。

伏し目がちで何かに悩んでいるようだったのです。

彼と仲の良い友人の話では、お見合いの話があったのでしたが、直前に先方からお断りがあったとのことです。

それで悩んでいたとのことで、「彼も人並みに煩悩を持っているようだ」とみんなは感じたのでした。

外からではわからないが内では煩悩が絶えることはなかった

「煩悩」とは形があるものではありません。

その人の心のうちに隠れているものなのです。

だから、その人の態度や行動でしか「煩悩」を持っていることを判断するしかありません。

「あの人は穏やかそうに見えるけれども、煩悩が絶えることがないほど苦しんでいるようです」などと、「煩悩」にまみれている人もいるようです。

願いが叶ったために、煩悩がすっかり増えてしまったようだ

欲望や悩みの「煩悩」が生まれるのは、辛い時ばかりではありません。

可愛い子供に恵まれた夫婦では、今度は愛しい子供のことが頭から離れなくなります。

毎日子供の世話をしたり子供と遊んだりと、子煩悩になる人もいます。

何かの願いが叶ったことで、その次に対する期待や欲が膨らみ、新たな煩悩が増えてしまうこともあります。

自慢のお嬢さんが東京の私学の入試に合格して、来春から一人暮らしをすることになったのです。

お父さんは、娘の願いが叶ったのだが、別の煩悩がすっかり増えてしまったようです。

煩悩は108個あるといわれる由来は?

大晦日の除夜の鐘は、煩悩の数である108個と同じ回数をつくと聞きました。

大人になった今でも、108回という数だけは覚えているのです。

昔、友人といろんな話をしている時に、除夜の鐘をつくことができるお寺があるという情報を得たので、じゃあ大晦日に行こうということになったのです。

大晦日に除夜の鐘をついてから初詣にいくという計画でした。

夜の10時頃にそのお寺に着くと、ご近所の人たちなど子供も含めて40~50人ぐらいの人が並んでいました。

僧侶の案内で順番につくことになります。

鐘の直径は1m程で、高さが1.5m程の鐘でした。

鐘をつく木の棒のようなものは「撞木(しゅもく)」と言うそうです。

そのお寺の撞木は、想像よりも軽かったのを覚えています。

全国の有名なお寺では、大きな鐘をつくところをTVなどで見る時がありますが、僧侶が身体全体を使って満身の力でつくようです。

しかし、ここでは子供でも簡単につけるような撞木でした。

両手でつくと、ゴーンという独特の音色が響きました。

暗い夜に厳かな響きが伝わって行くようです。

なんだか、心が浄化されるように感じてしまいました。

僧侶にわたしは何人目だろうと聞くと、にっこりと笑って「46番目です」という答えでした。

これはこのお寺の恒例の行事のひとつだということです。

みなさんがつき終えてから、改めて僧侶が除夜の鐘を突くことになるそうです。

除夜の鐘を突くタイミングは、その年のうちに107回突いておいて、108回目を0時に(新年)つくそうです。

新年を迎えるにあたって煩悩を綺麗さっぱり払っておこうという考え方のようです。

お寺の鐘は、僧侶が修行を積むときに煩悩を消し去り悟りを開く時にも使います。

そもそもお寺の鐘は「梵鐘(ぼんしょう)」と言います。

この梵鐘は仏教の儀式で使う重要な仏具のひとつなのです。

仏教ではお正月とお盆とは、年に二回先祖を祀る(まつる)儀式に使われていました。

その時以外にも、時刻を知らせたり法事の開始を知らせたりする時にも鐘をつきます。

先祖を祀るお正月の儀式が、除夜の鐘となって風習として続いているのです。

そして、除夜の鐘だけは、厳しい修行を積んでいない人々でも、心の乱れや汚れを払う力があると伝えられているのです。

一般の人にも大晦日に梵鐘を解放するのは、そういう理由からなのです。

煩悩が溜まり過ぎたあなたは、年末には鐘をつきに行くべきですね。

さて、ではなぜ108回なのかということです。

これには、大きく分けると四つの由来があるようです。

それぞれの由来を考えると、なるほどと思えるものばかりですが、以下にまとめてみました。

1.六根説

この説は、煩悩という心の動きを具体的に数字で表現して、理論的に数字で解き明かした説です。

数学が好きな人は納得しやすい説なのです。

六根×好・悪・平×浄・染×過去・現在・未来

①人間は、煩悩を感じるために感覚を司る6つの身体の器官を持っています。

それらは六根と呼ばれています。

つまり、「眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)」の6つです。

そして、その時の人間の心の状態は「好(こう)」(気持ちが良い)、「悪(あく)」(気持ちが悪い)、「平(へい)」(どちらでもない)の3種類があります。

これらの事より、ここまでの煩悩の数は「6根×3状態=18個」の煩悩が存在するのです。

②さらにその18個の煩悩には、「浄(じょう)」(清い状態)と「染(せん)」(汚い状態)2種類があるので、「18煩悩×2種類=36個の煩悩」に分かれるのです。

③さらに時間軸を考慮すると、「前世・現世・来世」の3通りですから、「36煩悩×3世=108個の煩悩となる計算です。

整理すると、「6根×3状態×2種類×3世=108煩悩」ということです。

六根とは、感覚を生じさせることで迷いを起こさせる眼・耳・鼻・舌・身・意

「六根」とは仏教用語で、感覚や意識を生じ、またはそれによって迷いを起こさせる原因となる六つの器官のことです。

先ほど説明した「眼・耳・鼻・舌・身・意」の6つです。

この「六根」の具体的な感覚を表現すると「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識」ということになります。

この感覚が作用して煩悩を起こさせるのです。

6×3×2×3=108

六根説による煩悩の数は、「6×3×2×3=108」という計算式になるのです。

2.四苦八苦説

仏教では、人間の生きる苦しみを大きく4つに分けています。

これを「四苦(しく)」といいます。

具体的には、
①「生苦(しょうく)」
②「老苦(ろうく)」
③「病苦(びょうく)」
④「死苦(しく)」
の4つです。

さらに下の4つの苦しみを加えたものを「八苦(はっく)」と言います。

⑤「愛別離苦(あいべつりく)」(愛する者と離別すること)
⑥「怨憎会苦(おんぞうえく)」(怨み憎んでいる者に会うこと)
⑦「求不得苦(ぐふとく)」(求める物が手に入らないこと)
⑧「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」(五蘊とは人間の肉体と精神のことで、これが思うがままにならないこと)
このように、「四苦八苦」と言っても、4個と8個の計12個あるわけではないのです。

「四苦八苦」の苦しみは、全部で8個なのです。

これらの苦しみは煩悩の根源でもあるのです。

「4×9=36」「8×9=72」を足したもの

この「四苦八苦」という言葉を数字に表現すると、「四苦=4×9」「八苦=8×9」と考えられるので、「4×9+8×9=108」という計算になります。

誰が考えたのかは分かりませんが語呂合わせのようにも感じられるので、これで煩悩は108個だと言い切るのにはちょっと無理があるようです。

3.一年の太陽の動きや季節に通じた説

除夜の鐘を108回つくのは、一年間を表現したものだという説もあります。

つまり、
①一年間の月の数(12個)
②「二十四節気」(24個)
春夏秋冬の4つの季節をそれぞれ6つに分けたものです。

それらは、
立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒、と24の季節に分けられています。

③「七十二候(しちじゅうにこう)」(72個)
古代の中国で考案された季節を表す言葉です。

「二十四節気」をさらに約5日ずつの「初候」「二候」「三候」に三分したものです。

中国では、各気を中国の故事にちなむ名前や気象の変化や動植物の様子を知らせるための短文になっています。

月の数と二十四節気と七十二候を足したもの

以上の数字を足し算すると、「12+24+72=108」となるのです。

4.たくさんという意味説

108の数字の8(八)は、特別な意味があるという考え方です。

「八」は、古代中国の道教では、無限である宇宙の真理を表す数とみなされています。

日本でも、「八」は末広がりで「弥栄(いやさか)」(ますます栄える)に通じるとして「永遠、無限、完全」などを意味していたようです。

「八百(やお)」とは物事の数が非常に多いことを意味し、「八百万」(やおよろず)、「八百屋」(やおや)、さらには「嘘八百」などと用いられているのです。

江戸時代には、大阪は「八百八橋」、江戸は「八百八町」、京都は「八百八寺」と呼ばれていました。

これらの言葉は、本当に808個あったということでは無くて、それほど勢いがあって非常に多くの寺や橋ができたということの比喩的表現だったのです。

たくさんという意味の8という数字にかけて

そこで、100個以上の非常に多くの煩悩があるということで、「八」という数字が最後について「108」になったのではという説なのです。

除夜の鐘

大晦日の夜につく「除夜の鐘」ですが、改めて考えてみたいと思います。

最近では、古いお寺の周りにも住宅が密集しているところもあって、お寺の鐘と言えども多く叩いていると騒音苦情がくる時があるそうです。

時代の変化と言えばそれまでですが、そんな事情で除夜の鐘をつくことを止めたお寺もあるようです。

こんな話を聞くと、寂しくなってくるのはわたしだけでしょうか。

ともかく、大晦日の夜半から元旦にかけて、寺院で梵鐘を108回つくことを「除夜の鐘」と呼んでいます。

お隣の国の韓国では、除夜の鐘は合計33回つくそうです。

この33回という回数の根拠は、観世音菩薩が民衆救済のために33に分身した説、仏教での万物の根源とされる数字であるという説、時報として昔から33回ついて知らせていたという説、さらには政治がらみですが日本の植民地時代に独立運動に立ち上がった人の数だという説までいろいろあります。

ともかく、鐘をつくのは33回なのです。

日本の約三分の一の回数です。

さらに、中国の上海の大晦日をご紹介します。

上海の有名なお寺のひとつである「龍華寺」では、大晦日の夜に人々がお寺に集まって、日本と同じく108回の除夜の鐘を聞きながら新年の幸せを祈るのです。

これに合わせて、焼香、年越し麺、百名のお坊さんによる延寿普仏式などの一連の行事を行うのです。

この儀式は、明朝時代から上海の八大風景と呼ばれて続いている大晦日の行事なのです。

煩悩の数だけ撞く

一年の締めくくりの大晦日は、誰もがこの一年を総括して、来年がさらに良い年であるように願うものです。

耳を澄ませていると、どこからか除夜の鐘の音が聞こえて来るかもしrません。

お寺の鐘の音というものは、どこまで届くかという実験をした結果があります。

日本有数の梵鐘の音色として知られている三井寺(大津市)の鐘ですが、「日本三大名鐘」のひとつとしても知られています。

6月のある日に、午前7時半~8時の間に1分間隔で鐘をついてどこまで聞こえたかを調査したものです。

京都工芸繊維大学と地元の小学校の生徒たち約100人で検証しました。

この結果では、最長1.4キロ先まで届いたことが分かりました。

冬場の大晦日なら、もっと遠くまで届くはずです。

日本人にとっては、除夜の鐘の音は心を清めて穏やかにしてくれるものです。

煩悩の数だけついた鐘の音は、一般の人の一年間の心の汚れや乱れを浄化してくれるものです。

日本人にとっては、宗教の壁を越えた大事な存在かも知れないのです。

煩悩の数は108

除夜の鐘をつくのは108回と一応の決まりはあります。

この108回という数字については、これまでにも紹介してきました。

大晦日の深夜に107回ついて、新年になる時に108回目の鐘をつくようです。

除夜の鐘で一年の煩悩を全て消し去って、欲を持たない清らかな心で新年を迎えるのです。

そもそも、除夜の鐘をつく歴史は古く、鎌倉時代に中国の宋から仏教が伝わった時に、除夜の鐘の文化も伝わったと言われています。

煩悩を消し去る目的以外にも、鬼門を封じるために鳴らしたとも言われています。

つまり、鬼門とは鬼が出入りする方角のことで、丑と虎の間の方角(北東)を意味します。

暦では丑は12月で虎が1月で、その間の大晦日に鬼が出入りするのを防ぐために除夜の鐘を鳴らしたとも言われているのです。

これに、人間の煩悩も重なって108回も突くようになったのです。

煩悩の数である108回だけをつくのがしきたりです。

たくさんという意味で200回以上撞くお寺も

除夜の鐘をついて、その年の煩悩を消しておきたいという人も多いようです。

人気のあるお寺では、一般の人に整理券を配布したリ混乱を避けるお寺があります。

そんな中には、人数無制限で除夜の鐘をつけるところもあるようです。

200回はもちろんのこと、300回以上に渡るところもあるようです。

正しく使おう(まとめ)

わたしたちを悩ませ苦しませている心の働きを「煩悩」と言いますが、この煩悩というのは非常にやっかいなものです。

「煩悩の犬は追えども去らず」と言われるように、人間の心のスキマに住みついて離れないようです。

消えたと思ったらまた湧いて出て来る、本当に油断がならないものです。

人が持っているものを見ると、自分もあれが欲しい、これも欲しいと欲望だけが空回りします。

そして、何か思い通りにいかない時にはすぐに怒ってしまうし、相手を妬んだり愚痴をこぼしたりと、愚痴のオンパレードになってしまうのです。

欲・怒り・愚痴が108個ある煩悩のなかのほとんどを占めます。

このように、煩悩が多い人は「煩悩の塊」と揶揄されてしまうのです。

しかし、煩悩があるから人間は生きているのだとも言えます。

修行僧が辛い修行を経て煩悩を消し去って悟りを開いてしまうと、どうなるのでしょうか?

悟りを開くと、物事に動じない、流されない心を持つ人間になるようです。

何か難しい真理のようなものを理解したりすることではなく、難しいのですが「悪」をしなくなるとか、心に「悪」を思い浮かべることすらしなくなるようです。

自分のことよりも、他人のことに心を寄せるようになるのです。

聖職者の領域になるのです。

わたしたちは、そこまでいかなくても、できるだけ欲を持たないように心がけることで、煩悩を作らないようにするべきです。

煩悩を持つのは生きている証拠ですが、余分な煩悩を持たないことです。