「一蓮托生」という言葉ですが、恐らく今までどこかで聞いたりしたことはある言葉だとは思います。

しかし、正しい意味や使い方までは知らない方も多いかもしれません。

そこで「一蓮托生」について、その意味や正しい良い使い方や悪い使い方をご紹介して徹底的に解説していきたいと思います。

一蓮托生は知っておきたい四字熟語

「一蓮托生」という四字熟語。

知っておきたい熟語ですね。

いろいろな物語やドラマ、映画などに頻繁に登場する言葉だからです。

今回の記事を機会に是非とも「一蓮托生」の意味や使い方をマスターしておきたいところですね。

一蓮托生を知り尽くそう

「一蓮托生」という言葉を知り尽くしておけば、ドラマや映画などの見方がより理解できますし、日常会話においても使っていい場面とそうでない場面の違いをより鮮明に理解できるようになると思います。

それでは「一蓮托生」について説明してまいりましょう。

まずは読み方

まずは読み方からです。

「一蓮托生」という言葉は「いちれんたくしょう」と読みます。

特に難しい読み方ではありませんので、覚えておきましょう。

意味は?

「一蓮托生」の意味について紹介しておきます。

「よい行いをした者は極楽浄土に往生して、同じ蓮の花の上に身を託し生まれ変わること。

転じて、事の善悪にかかわらず仲間として行動や運命をともにすること。

▽もと仏教語。

「托」は、よりどころとする、身をよせる意。

「託」とも書く。」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B8%80%E8%93%AE%E6%89%98%E7%94%9F/より引用

となっています。

今風に訳してみると「運命を共にして例え人生の逆境に陥ろうとも信じた相手のことを信じ切ってどこまでも一緒に生きてゆく」ということになるでしょう。

あまり日常会話では使わない


「一蓮托生」という言葉の内容はかなりハードです。

自分の一生を信用した相手に委ねるのですから、相当な決心・覚悟がなければ使えない言葉です。

よってあまり日常会話の中では使いにくい言葉といえるでしょう。

ドラマや映画といった作品の中ならば使いたくなる言葉ともいえるでしょう。

元々は仏教用語

「一蓮托生」という言葉は元々は仏教用語として認識されていました。

なので世間的には使用する機会が少なかったのでしょう。

それでは仏教用語として使われていた背景などを説明していきましょう。

死後にも再会できるように約束すること

「一蓮托生」の仏教用語的解釈は「死後に極楽浄土において同じ蓮華(蓮)の上に生まれよう」というものです。

すなわち死んだあとでも極楽浄土において再会することができるから約束しよう、という意味があったのです。

善い行いをした人は死後も極楽浄土で生まれ変わる

この「死んだあとも浄土で会える」という思想は、当時の浄土宗の信仰からから生まれたものです。

生前に善い行いをしていれば死んだあとでも極楽浄土において生まれ変わることも可能、という説法です。

死したあとに同じ蓮台に坐すというところから「一蓮托生」という言葉が広まっていったのでしょう。

仲間や恋人、夫婦間でよく使われた


「一蓮托生」という言葉はやがて親しい仲間や恋人、夫婦間においてよく使われるようになっていきました。

もともとが有難い仏教用語として使われていましたし、言葉の意味も生前に良い事を行っていれば浄土において再び一緒になれるということが人々の心に刺さったのです。

仲のよい同志や心を通じ合わせた者同志がお互いの意志を確認し合うのにはうってつけの言葉となったのです。

善い行いをした者同士という意味合いだった

善い行いをした者同士が浄土において再び結ばれる。

世の中を一生懸命、生きてゆけばあの世に行ってからも報われるという考えは多くの人に共感を呼び起こしたでしょう。

「一蓮托生」という言葉が対象とする人物はこのように「善行」を対象にしていると信じられてきました。

悪い行いをすれば地獄のような場所に落ち、善い行いならば浄土に行ける。

当時の人々の心の拠り所になるには十分すぎる教えだったのです。

現在は善悪を問わない仲間でも使われる

「一蓮托生」の考え方は現在においてはもっとくだけた意味合いに変化してきます。

生前に善い事を積んでいなくても信じ合う同志についてゆくならそれは「一蓮托生だ」というものです。

時代の経過とともに言葉の意味は大きく変化してゆく典型例といえるでしょう。

悪い結末が待っていることも

よって現代における「一蓮托生」は全てがいい結果になるとは言い切れなくなってしまいました。

つまり自分自身の考えと周囲の見方に格差があったとしても本人が「善」と考えていたらそれでいい、という発想です。

例えば大企業において法律に背くような行為を行っていたとしても、大局的にみたら会社の将来を思ってのことだから本人は「善」と思って行動するというものです。

「一蓮托生」は命を賭して信じた相手に身も心も尽くしてついて行く。

それが例え世の中からは「善」の行いと見られなかったとしても。

という考えに落ち着いてきた感がありますね。

類義語

それではここからは「一蓮托生」の類義語をご紹介していきましょう。

運命共同体

「運命共同体」とは繁栄するときも衰退するときもその組織、同志と行動を共にし運命を同じくする、という意味合いになります。

まさしく「一蓮托生」とほぼ同じ意味として扱われます。

自身が働いている会社の部署とはこれから会社を辞めるまで運命共同体として身も心も捧げる、という感じでしょう。

その組織が繁栄することは勿論、もし破滅するようなことがあっても逃げたりせずに最後まで運命を共にする、という気持ちの表れなのです。

この言葉も相手にする対象が会社やチームなどの組織と恋人や夫婦といった人がそれに該当するのが通常の発想となります。

一心同体

「一心同体」は複数の人間が心を一つにして固く結びついている状態を指していいます。

「一心同体」も「一蓮托生」とほぼ同じ意味合いで捉えていいでしょう。

仲の良い友人同士や恋人・夫婦などによく使われる言葉です。

お互いの思いや考えが全く同じで相手の考えも手に取るように分かる。

お互いの目を見れば相手の思っている事が分かる。

このような状態を指して表現する言葉、といえば理解しやすいでしょう。

「一心同体」は文字通り、一つの心に同じ体です。

ただ「一蓮托生」ほど運命を最後までもっていくことに反対はしない、といった強い意識は少々、薄れるかも分かりません。

今の自分を表現した言葉と解釈してもいいでしょう。

旅は道連れ

「旅は道連れ」の意味は「旅行をするときは一人で行くよりも複数名で行った方が何かと心強くていい」ということになります。

つまり長期間の関係性の強制はないですが、一緒に行動してお互いの不安や心細さを解消しよう、という関係性を指しています。

いずれにしても旅の期間中は同じ目的に立って一緒に行動を共にするので、狭義の意味では「一蓮托生」に近い意味合いとなるでしょう。

因縁

「因縁」も仏教用語の一つです。

何かの物事が起こる直接的な原因を成す「因」とそれを助ける間接的な条件となる「縁」。

この二つを合わせて「因縁」と呼びました。

また前世から定まった宿命や運命といった意味もあります。

すなわち両者はいずれ何かのきっかけによって引き寄せられ数奇な運命背負いながらも、協力しあって生きてゆく、ということになります。

両者の因縁性が強ければ強いほど「一蓮托生」と同じ意味合いをもってくる言葉といえるでしょう。

一蓮托生の良い使い方

それではここからは「一蓮托生」の良い使い方をみていきましょう。

この仕事を一蓮托生でやり遂げよう

「この仕事を一蓮托生でやりとげよう」という意味には共に力を合わせて苦しいことを乗り越えてやり遂げよう、という強い意気込みを感じさせます。

一人では難しそうな困難な仕事でも二人、三人となって一緒に協力しあえば成し遂げられる、という前向きな気持ちを感じさせますね。

私達は一蓮托生なので、どんな困難も乗り越えられる

この文章からも強い絆と決意を感じられます。

どんな困難でも二人が力を合わせて協力し合えば乗り越えられないものはない、という前向きな気持ちと強い希望を抱かせる文章です。

一蓮托生の悪い使い方

今度は「一蓮托生」を悪い意味で使った文章を紹介いたしましょう。

こうなったら進むも戻るも一蓮托生だ

もう破れかぶれ、一か八か、の心境に立っています。

前に進んでも、後ろに後退しても結果は運任せ。

成功の確率が極めて低い状況を伺わせます。

こういった状況で「一蓮托生」という言葉を使われても、言われた方はあまりいい気持ちがしないことでしょう。

彼と一蓮托生の道を歩むのは破滅そのものだ

彼とつきあっていくのは最初からうまくいかないし、恐らく人生を終わらせるくらいの「破滅」が待っているだろう、という状況ですね。

このような悲劇的な末路が想像できる状態において「一蓮托生」を使うというのは明らかに言葉の意味として間違っています。

「一蓮托生」は善い事を前提にして使用する言葉ですから。

一蓮托生の仲になる人達の特徴

それでは次にまいります。

「一蓮托生」の仲になれるような人達の特徴・関係性について紹介してまいります。

精神的な結びつきが強い

一蓮托生な関係になるためには「精神的な結びつき」が強くないとできません。

死んだあともあの世において一緒になりたいほどなのです。

そのためには生前における精神面が強くなければとても善い行いは続かないでしょう。

精神的な結びつきは片方の人だけが強い精神力を持っていても成り立たないのです。

愛情や絆を大切にする

愛情・絆が強くないことにはとても「一蓮托生」な関係にはなれないでしょう。

現世のみならずあの世に行っても一緒になろうというのですから、一時の愛情やその時だけの感情ではとても添い遂げられません。

元々が仏教用語だった「一蓮托生」という言葉。

蓮座の上で再会するためには嘘の愛情では成し得ないのです。

意志が強い

意志が強くなければ一蓮托生な関係になるのは難しいでしょう。

ちょっとしたことで短気になったり、相手への信用や信頼を失っていたらとても無理です。

いかなる理由や感情を害する気分になったとしても、強い意志を持ってそれらを振り払うことができなければ「一蓮托生」の関係を持つための資格は得られないでしょう。

裏切りは絶対に許さない

人を裏切る人には「一蓮托生」な関係はまず育まれないでしょう。

生前において善行を重ねて浄土の蓮座の上で再び生まれ変わって会えるようにするためには嘘や裏切り行為はご法度です。

それほど「一蓮托生」な関係というのは深く、重いのです。

現代のように安易に使うべき言葉の内容ではない事を重々、理解していくことが重要です。

愛する人を平気で裏切るような行為を行う人に対して神や仏さまはあの世において、その二人を再会させるような行為を行わないことは容易に想像がつくことでしょう。

まとめ

今回は「一蓮托生」という言葉について説明してまいりました。

文中でも触れました通り、「一蓮托生」という言葉は元々、仏教用語でありおいそれと日常会話において使うことなどなかったものと思われます。

それが時代の変遷につれて私たちにとって都合のいいように解釈されて今日に至ったというのが現状の姿でしょう。

ただ、人が抱く「使命感」や「達成意欲」「義務感」といったものを挫折せずに最後までやり通そうと思ったら、あまり軽い印象のする言葉で置き換えるには決意表明としても真剣味が不足してしまうのも確かでしょう。

例えば「旅は道連れ、世は情け」といって決意表明してしまっては、いかにも軽く安易な表明、という印象を受けてしまいます。

やはりここは「一蓮托生」な気持ちで、と言った方が相手に対して説得力が湧きますよね。

「一蓮托生」には強い拘束力と決意の表れが込められた言葉なのです。

だからこそ、この言葉の濫用は避けたいものです。

安易に使えば使うほど「一蓮托生」の本来の言葉の意味を抹消しかねなくなりますからね。