「百聞は一見に如かず」という言葉についてみていきたいと思います。

おそらくいろいろな場面で何度か聞いたことのある言葉だと思います。

意味や使い方をしっかり学んでいきましょう。

「百聞は一見に如かず」の意味や使い方を学ぼう!

「百聞は一見に如かず」という言葉について勉強していきましょう。

正しい意味や使い方を紹介していきます。

ことわざの1つ「百聞は一見に如かず」

「百聞は一見に如かず」という言葉はことわざとして広く世間に認知されています。

かなり身近な印象をうける言葉だといえるでしょう。

「百聞は一見に如かず」の読み方は?

「ひゃくぶんはいっけんにしかず」と読みます。

読み方はこの通りのままです。

この通り覚えましょう。

「百聞は一見に如かず」の意味


それでは「百聞は一見に如かず」という言葉の意味についてみていきましょう。

百回も聞くより、一回でも見る方がよくわかる

「百聞は一見に如かず」という言葉の意味は「百回誰かに聞くよりも、一回でいいから見たらそのほうがよくわかる」ということになります。

人間、耳から聞く情報よりも実際にその目で見て確かめたほうがはるかに納得できる、ということになるからです。

何度も聞くより、一度実際に自分の目で見る方が確かである

つまり、何度聞いても分からないものはわかりません。

それならばいっそのこと自分の目で見て確かめたほうがよっぽど理解度は増す、ということを表しています。

皆さんも経験があるのではないですか?分からないことや仕事のことなどをいくら人に聞いてもさっぱり理解できなかったことが。

人間のコミュニケーションというものがいかに頼りないかの証明ですね。

特に人に何かを伝えるという能力は思った以上に難しいのです。

聞き取る能力の問題もありますがそれ以上に話して納得させるには相当な技能が求められる、ということになるからです。

「百聞は一見に如かず」の語源

それでは次は「百聞は一見に如かず」の語源についてみていきましょう。

かつて中国で生まれた言葉

「百聞は一見に如かず」という言葉は多くのことわざがそうであるように古代の中国において生まれています。

この言葉が生まれた時代背景

「百聞は一見に如かず」という言葉が生まれた背景は、中国が漢という時代に誕生しました。

背景的には国内の争いが絶えない現状に対して、国家の皇帝が将軍に対して行ったやり取りが最初と言われています。

皇帝が将軍に対して現状の戦況を報告せよ、と尋ねたところ将軍は「他の者の意見をいくつも聞いてもらちがあきません。自分の目で見てきて結果を報告します」というやりとりを行ったところからこの言葉が誕生したようです。

中国の書物「漢書」

「百聞は一見に如かず」という言葉は漢の時代に書かれた「趙充国伝」という書物に書かれたのが語源となっているようです。

「百聞は一見に如かず」の使い方

それではここからは「百聞は一見に如かず」という言葉の使い方についてみていきましょう。

自分が何かを教わる立場のとき

自分が人から何かを教わる立場の時に「百聞は一見に如かず」を使います。

つまり自ら積極的に見たり聞いたりしにいって完全に覚えるべき内容を把握してしまうことです。

人が何かを教わる時、受動的か能動的かで覚えるスピードは格段に下が付きます。

それはただ聞いているだけでは疑問点があってもそのままになっているからです。

何かを教わる時はタイミングを逃してはいけません。

教える側もいつまでも特定の人物には構えません。

ものを覚える姿勢は完全理解とスピード。

両者を両立させる姿勢が教わる側に求められるのです。

自分が何かを教える立場のとき

自分が第三者に何かを教えるときも「百聞は一見に如かず」のスタイルが求められます。

つまりこちらが一方的に話してばかりせず、適時タイミングをみて相手に発言させ理解が間違っていないかどうかを確認するのです。

そして「何か分からないところはありませんか?」という問いかけを必ず行うことです。

完全理解には相互のコミュニケーションのやり取りが非常に重要になるということなのです。

知らないことを実際に経験するとき

自分自身が知らないことがある場合に「百聞は一見に如かず」を使って完全理解を図らなければなりません。

分からないことがあるときは大抵、まず聞きます。

一度でわからなけば二度。

あるいは三度と回数を重ねて聞くでしょう。

ただ、聞いただけでは完全に理解できないのが人間の頭脳です。

聞いた内容を今度は自分で実行してみてはじめて完全なる理解ができるのです。

よって聞いた中身を忘れないうちに実行することです。

「鉄は熱いうちに打て」ということわざも併用しながら「百聞は一見に如かず」のスタイルを貫きましょう。

「百聞は一見に如かず」に続きがある?


さて、「百聞は一見に如かず」のことわざには続きがあります。

それをここでご紹介しておきましょう。

いくつかある「百聞は一見に如かず」の続き

「百聞は一見に如かず」にはいくつかの続きが存在しています。

まずはそれらをいくつか紹介していきましょう。

「百聞は一見に如かず」の続きの例

「百見は一考にしかず」
「百考は一行にしかず」
「百行は一果にしかず」
「百果は一幸にしかず」
「百幸は一皇にしかず」

です。

意味は上から順に「たくさん見るより1回考えた方がよい」「たくさん考えるより1回行動した方がよい」「たくさん行動するより1回成果をだした方がよい」「たくさん成果をあげるより1回幸福を得た方がよい」「たくさん幸福を得るより1回周囲のみんなの幸せを考えたほうがよい」

という事になっています。

「百聞は一見に如かず」の続き。

ずいぶんたくさんあるのですね。

いくつかの続きが存在する理由とは

さてそれではどうしてこんなに「百聞は一見に如かず」の続きが存在しているのでしょうか?それはこの言葉がある教訓を教えようとして存在しているからです。

その教訓とは「幸せの伝播」です。

つまり自分だけが幸せになるのではなく周りにいる人たちにもその幸せを送ってお互いが幸福になりましょう、ということを言っているのです。

「百聞は一見に如かず」にこういったいわれがあったとは。

まさに奥の深い言葉といえますね。

「百聞は一見に如かず」の例文

それではここからは「百聞は一見に如かず」の例文をみていくことにしましょう。

百聞は一見に如かずだから話題のベストセラー本を読んでみよう

ベストセラーの本の評判を方々で聞くに及び、やはり人から聞いた評判だけでは本当にその本がベストセラーになるほど面白い本かどうかの判断ができないものです。

ここは一つ、お金を出して本を買ってみて自分の目で実際に読んでそれから判断するしかない、ということを言っています。

本の良し悪しは人によって様々です。

周囲の人がいいと言っても自分にとったらつまらない本の可能性もあります。

本というものは自分で読書することによって初めてその価値が分かる代物なのですよね。

百聞は一見に如かずと言うように自分で経験する方が良い

何かの物事を人の話や本で読んだ知識で理解するのもいいが、それでは物事の本質まではつかめないでしょう。

よって実際に自分自身の行動によって手を動かし体を使って行う方がはるかに納得いく結果が得られる、ということになるのです。

何事も経験は大切です。

人に聞いた情報だけでは世の中を渡ってゆくのは難しいでしょう。

美しい絵画があると聞き、百聞は一見に如かずと思いすぐ見に行った

絵画の鑑賞も人から聞いた意見によって判断するのではなく、自分の目で見てから判断するべきものでしょう。

絵画というものは芸術の領域です。

当然ながらその作品に対する論評や意見は百人百様になるはずです。

いくら自分の友人がいいと言って褒めていたとしてもどういった部分を褒めていたのか、何がそんなに素晴らしかったのか、といったポイントは当然ながら人によって違うからです。

絵画に興味があるのなら、そしていい絵があると聞いたなら真っ先に自分の目で見てみましょう。

「百聞は一見に如かず」とはそういった意味合いを成す言葉なのです。

「百聞は一見に如かず」の類語

それではここからは「百聞は一見に如かず」の類語を紹介していきましょう。

類語の意味を理解しながら「百聞は一見に如かず」の意味をますます深く理解していきましょう。

論より証拠

「論より証拠」とは、「あれこれと論じるよりもたった1つの証拠を示した方が早い」という意味合いになります。

例えばちょっと嫌な例ですが交通事故。

今ではお互いの言い分を一方的に言い合うのがほとんどでしたが、ドライブレコーダーの登場により決定的な証拠となる画像や動画が提示されました。

お互いの言い分よりもたった1枚の写真が動かぬ証拠となる典型的な事例といえるでしょう。

つまるところ、「百聞は一見に如かず」とかなり中身を同じにする類語といえるわけです。

思い立ったが吉日

思い立ったが吉日(おもいたったが吉日)の意味は、何かを始めようと思うのなら、その日が吉日だと思ってすぐにやりなさい、という意味になります。

つまり行動を早くやってしまいなさい、という意味合いですね。

うじうじしていないでパッと行動して全てを解決してしまう、という意味合いにおいて「百聞は一見に如かず」と同じ意味になるのです。

よって両者は類語の関係といえるのです。

打たぬ鐘は鳴らぬ

「打たぬ鐘は鳴らぬ」とは、打たなければ鐘も鳴らないように、何事も行動を起こしてかからなければ成果は得られない、という意味になります。

行動を起こさなければ真の成果は得られないという意味において「百聞は一見に如かず」と同じ意味の類語となります。

人間というものは結局、楽をするとどんどん後においていかれるという事です。

何かの成果を得ようと思ったなら、行動あるのみなのです。

人から聞いた受け売りや知識だけで目の前の状況を脱しようとしても良い結果は得られないでしょう。

何かを得ようと思ったなら額から汗を出して働きなさい、ということを言っているのですね。

鯛も鮃も食うたものが知る

「鯛(たい)も鮃(ひらめ)も食うたものが知る」とは、いくら人から聞いたり本を読んで知識を得たからといっても実際に経験しないことには物事の本質は見えてこないという意味を表します。

まさしく「百聞は一見に如かず」とほぼ同じ意味を成す類語になります。

確かに魚の鯛も鮃も実際に食べてみないことにはその美味しさについては分かりません。

いくら他の食べたことがある人から「美味しいよ」と聞かされていてもいったいどれくらい美味しいものなのか、といった疑問は解消されないでしょう。

人は生きているうちにどれくらい経験を積むか。

その量の大きさによって人生をより大きく有意義なものにできるのです。

聞いた百より見た五十

「聞いた百より見た五十」とは、人から聞いた百の事より今知っている五十の事の方がより役に立つ、という意味です。

つまりあてにならない情報を鵜呑みにするより自分が知っている確実な方法を例え成果が小さいと分かっていてもコツコツとやっていた方が後の実入りが大きい、ということを表しています。

人はとかく目の前に大きな儲け話をちらつかされると前後の確実性を見失って飛びついたりします。

しかし、そんな不確かな話こそ大きなリスクを伴うものなのです。

詐欺まがいの話が見事にそれに当てはまるでしょう。

人間は欲に振り回されるのではなく、着実に一歩づつ前進していくことを勧めた言葉といえるでしょう。

いずれにしても小さなことを体験しながらやってみる、ということにおいては「百聞は一見に如かず」と同類の言葉と捉えられるのです。

聞いた千遍より見た一遍

「聞いた千遍より見た一遍」とは、千回聞いたところでたった一回見た経験の方がはるかに自分にとって役に立つ情報となる、という意味です。

まさに「百聞は一見に如かず」と同じ意味となります。

人はいくら第三者の人からいろいろなことを聞かされてもその本質までは自分のものになりません。

やはり自分で経験してみないことにはどうしようもないのです。

特に何かの仕事や作業を覚えようとするときは人から聞いた情報を確認する上でも自分でやってみないといけないという事がよく分かるはずです。

「百聞は一見に如かず」を正しく使いこなそう!

今回は「百聞は一見に如かず」という言葉についてみてまいりました。

この言葉は様々な分野で頻繁に登場する言葉です。

言葉の意味を正しく理解し、正しい使い方ができるよう学習しましょう。