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世界三大美女は誰?その美女と言われ...(続き2)

彼女の美女としての魅力は、外見の美しさだけでは決して語れるものではないのでしょう。

楊貴妃

楊貴妃は本名を「玉環」といい、楊貴妃という名前は後宮に上がってからの呼称です。

「貴妃」というのは位を示すため固有名詞ではなく、後宮では2番目に偉いという意味を持ちます。

彼女の性は「楊」ですので、「2番目に後宮で偉い楊さん」という意味の名前が楊貴妃です。

楊貴妃は唐(当時の中国)の皇帝・玄宗に嫁いだと言われていますが、元々は玄宗の息子の元へ嫁ぐことが決まっていました。

しかしその美しさに玄宗皇帝が一目惚れしてしまい、息子から嫁を奪って自分の妻としたのです。

そのため当時楊貴妃は21歳、玄宗は55歳と随分な歳の差での結婚となります。

楊貴妃自身は慎ましい性格をしていたと言われており、派手な暮らしぶりを望んだり、豪華な装飾品を欲しがったりすることはなかったようです。

唯一ライチだけは好んで毎日のように食べていたようですが、その程度の贅沢であれば可愛いものと言えるでしょう。

一方で、玄宗はとにかく楊貴妃にベタ惚れしていたため、彼女を喜ばせるためにとにかくあらゆる贅沢なものを彼女に与えました。

その内の一つとして、彼女の身内を高い官職に就けましたが、これに家臣たちは当然不満を抱きます。

加えて楊貴妃の一族である楊国忠が、安禄山という地方の役人について玄宗にあることない事を吹き込んだため、それに怒った安禄山が武器を持って立ち上がり、楊国忠を討つことで玄宗皇帝の目を覚まさせようとしたのです。

この安禄山たちにより起こったクーデターが有名な「安史の乱」です。

安史の乱で敗れた玄宗は楊貴妃と楊国忠、そして自分の部下たちを連れて逃げますが、その途中で玄宗の部下たちが、乱が起こった原因となった楊国忠を殺してしまいます。

そして、こんなことになってしまったすべての原因は楊貴妃にあるとして、玄宗に楊貴妃の処分を求めます。

自分の部下たちに懇願された玄宗は、泣く泣く楊貴妃の首を絞め、死を与えました。

この時楊貴妃は、一切抵抗することなく死を賜ったとされています。

楊貴妃亡き後、国に帰った玄宗はこっそりと楊貴妃の絵を描かせたり、改葬させたりと楊貴妃への未練を思わせる行動を取っています。

1人の女性の存在が、国を傾けるまでに大きな争いとなってしまったため、楊貴妃は正しく「傾国の美女」の名に相応しいと言えるでしょう。

とはいえ、彼女自身は多くを望まず、ごく普通に後宮での生活を望む一人の女性でした。

しかし本人は普通にしているつもりでも、彼女の持つ美しさや知性、そして男性を惑わせる香りが、彼女の周囲だけでなく、人生そのものを狂わせてしまったのかもしれません。

小野小町

小野小町は、日本ではとても有名な女流歌人です。

紀貫之によって、「六歌仙」の1人にも選ばれているほどの優れた歌の才能を持っていましたが、その出自はとにかく謎に包まれています。

平安時代前期に遡るとはいえ、実際に存在したはずなのに、小野小町の生まれや出身地、生年月日や享年など、すべてが不明とされています。

まるで物語の中の人物のように、残された歌以外のほとんどが分かっていないのです。

そんな小野小町は、男性にとてもモテたと言われています。

というのも、当時の女性の魅力は、外見の美しさもさることながら、それ以上に教養や振る舞い、品などが重要視されていました。

恋愛の仕方も特徴的で、まず男性が気になる女性に歌を送り、何通か歌のやり取りを交わした後で、男性の夜這いを許すという形が一般的でした。

そうなると当然女性も男性も歌が上手くなければ、その時点で縁は切れてしまうことでしょう。

小野小町は六歌仙の1人に数えられるくらいですので、歌を詠むことには本当に優れていました。

そのため、歌のやり取りの時点で数多くの男性を虜にしたとされています。

また外見に関しても、美人だったとする説が残されています。

とはいえ、平安時代と現代とでは美の基準が異なりますので、小野小町をイメージした絵を見ても私たちにはピンとこないかもしれません。

しかし、当時の美の定義としてはピタリと当てはまる美しさを持っていたとされています。

小野小町は女性でありながら優れた知性や教養を兼ね備えていましたので、その大きな魅力は外見以上に内面の美しさと言えるかもしれません。

世界三大美女の特徴


世界三大美女の生涯についてざっくりとご紹介しました。

それぞれに生きた時代も違えば、国も違っています。