表面上では仲の良い関係を築いているように見えても、内心ではお互いに憎みあっていたり、打算的な考えだけで付き合っていたりすることもあります。
その一方で、一見相手に対して冷たい態度を取っているように思えても、実際にはそれが相手を思い遣る気持ちからの行動だったということもあります。
自分が相手に対して思い遣りの気持ちを持って接していても、相手にはその気持ちが伝わらないことはよくありますし、その反対も然りです。
けれどだからこそ、相手に優しくしてもらったり、気遣ってもらったりした時には、いちいち相手の行動の裏まで深読みするような真似はせずに、純粋に相手の行動を思い遣りの気持ちとして受け取るようにしましょう。
すると相手の思い遣りの気持ちを感じた分だけ、それを大切にすることができます。
音楽は目には見えないが心の風景を見せてくれる
音楽は耳で聴くものであって、目で見るものではありません。
しかし不思議なことに、音楽を耳にした時には、頭に心の風景が自然と浮かんでくることがあるでしょう。
例えば子どもの頃、夕方になると住んでいた地域でいつも流れていた音楽があった人は、大人になってからその音楽を耳にした時には、自分が子どもの頃の思い出がふと頭に蘇ってくることがあるでしょう。
また、当時付き合っていた人といつも一緒に聞いていた曲がある人は、何年も経ってからその曲を耳にする機会があった時には、当時の恋人との記憶が頭に浮かんでくることもあります。
音楽はそれを耳にした時の環境や状態などを、曲と一緒に頭で記憶することが多いため、曲を聞くことでその曲を聴いていた頃の記憶が自然と呼び覚まされます。
そのため、決して目には見えない音楽でも、自分の心に大切なことを訴えかけてくれる瞬間は誰にでもあるでしょう。
言葉には魂がある
昔から、言葉には魂が宿るとされています。
それは「言霊(ことだま)」と言って、自らが口にした言葉に意志や魂が宿ることで、その言葉そのものに力が生まれるとする考え方です。
私たちが言葉を発する時、そのほとんどには何らかの感情が込められています。
決められた内容を暗記して淡々と読み上げる場合には別ですが、例えば恋人に対して「好きだよ」と想いを告げる時には、その言葉には相手への愛情が込められているでしょう。
一方で、心底嫌いな相手に対して「もう二度と顔も見たくない」と言えば、その言葉に自分の憎しみや敵意の感情が込められるため、相手に対して呪詛のように攻撃的な力を持つこともあります。
この言霊を日頃から意識している人は、一時の感情に任せて、特に負の感情の込められた言葉を口にするのは避けようとするでしょう。
負の感情の宿った言葉を相手に投げかけることによって、相手を攻撃したり、傷つけたりすることがあるからです。
しかし大抵の人たちは、自分の言葉に魂が宿っているとは考えもせずに言葉を発しています。
気軽に人を傷つける言葉を発したり、相手を勘違いさせたりする言葉を発していることも少なくはないでしょう。
けれども実際に、目には見えなくても感情の込められた言葉によって相手は喜んだり悲しんだりしていますので、言葉を発する時には自分の言葉に魂が宿っているのだと意識した方が良いでしょう。
発せられた言葉は生きて影響力を持つ
言葉は口から出た単語の一つでしかないと考える人もいるかもしれません。
しかし言葉には魂が宿りますし、魂が宿っている以上、口から発せられた言葉は生きており相手への影響力もあります。
だからこそ、「お前なんて嫌いだ」と言われれば、そう言った相手に対して怒りの感情が込み上げたり、またはショックを受けて悲しくなったりします。
また、「好きだよ」と言われれば、嬉しくなったり困ってしまったりもするでしょう。
相手の言葉によって自分の心が動かされることがあるのなら、相手の言葉はやはり生きていると考えてもおかしくはないでしょう。
言葉にはそれだけの影響力があるため、やはり軽んじて使うことなく、一言一言を意識した上で使うようにしましょう。
言葉をぞんざいに使うのは良くない
言葉には魂が宿るため、ぞんざいに使うとそれだけ周りに対しても自分に対しても悪影響を及ぼしてしまう可能性があります。
誰かに話しかけられた時に、「なに」や「はぁ?」などと、感じの悪い返し方をすると、当然相手はその不愛想な返答にムッとしたり、近づきがたさを感じてしまったりするでしょう。
人間関係が上手くいかないと感じた時に、その原因が相手にある場合もありますが、自分にある場合もあります。
自分では無自覚の内に言葉をぞんざいに使っていることで、相手がこちらに悪印象を抱いてしまって、人間関係が上手くいかなくなってしまうこともあるでしょう。
無自覚で発する言葉には、自分でも意図しない感情が乗ってしまうことがありますので、あまりぞんざいに言葉を使わない方が賢明でしょう。
努力を積み重ねること
努力の成果は結果として出せることはあっても、今まさに努力を積み重ねているという状態の時には、それが目に見えることはあまりないでしょう。
誰かが一生懸命に努力をしていれば、確かに「努力しているんだな」というのは見て分かりますが、実際にどの程度の力で頑張っているのかまでは、やはり目に見えることは難しいでしょう。
また、例えば勉強で努力をしている人は、努力の成果がノートやメモで見て取れることもありますが、それも人目に触れることがなければ、その人がどれだけ努力したのかは一見しただけでは分からないでしょう。