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天才と言われる人が歩む人生はどうい...(続き2)

天才型の人は努力に頼らないという一面があります。

秀才型の人間が何も優れた素質を持っていないというわけではありませんが、優れた能力を裏打ちする努力が必ず陰にあるのです。

秀才型の人を「天才」だと褒めることで、その人の努力を見逃してしまうかもしれません。

天才という言葉は軽々しく使われる言葉ではありますが、そう簡単に自分の目の前に現れる人のことではありません。

自分の目の前にいる人間が天才であるのか、それとも見えないところで努力を繰り返す秀才であるのか、それによってはその人にかけるべきほめ言葉の種類も異なってくるでしょう。

決して違いを見逃すことがないように、しっかりと見極めたいところですね。

天才と凡人の差は

天才と呼ばれる人がいる一方で、凡才と呼ばれてしまう人もいます。

凡才と呼ばれるのは、主に一般的な人々のことです。

凡才というとネガティブなイメージを持ってしまう方もいるかもしれませんが、凡才というのは字のごとく平凡な人であるという意味であり、そこにネガティブな意味は含まれていません。

秀才や天才、異才ではない人のこととも言えるでしょう。

普通に生きており、特に人に誇ることができるような才能を持っていない、また努力で秀才と呼ばれるようなところを持っていないという方は「凡才=平凡な一般人」に当たるのではないでしょうか。

この凡才と天才の違いは主にどのようなところに当たるのか、才能という面以外からも見てみることにしましょう。

自分の未来像が見えているかそうでないか

天才と凡人の違いは、自分の未来像がしっかり見えているかどうかというところにもあるようです。

天才はしっかりと自分の未来を見ることができます。

自分の才能を持っているがゆえに、自分の運命と言ったものに想いを馳せることも多いでしょう。

一方で、凡才の場合にはその日一日を生きることに必死になっており、そう遠い未来のことを具体的に思い浮かべることができないという特徴があります。

才能を持っている人が必ずしも賢いというわけではありませんが、自分が天賦の才を持っているという事実には気づいているケースが多いのが天才です。

その才能ゆえに未来像が見えてしまうということもあるのでしょう。

自分を持っているかそうでないか

天才の人間はしっかり自分のことを持っていることが多いようです。

特に、自分の才能に逆らわずに生きることを決めた人はそうでしょう。

人とは異なる優秀な才能を持っているからこそ、自分の生き方が限定されてしまうということもあるのかもしれません。

その意味では、凡才は”自分”というものを持っていなくても、それなりに生きていくことができます。

それには良い面も悪い面もありますが、確固たる自分を持たずに「自分探し」をする人が多いのは、凡才の特徴かもしれませんね。

独創的であるかそうでないか

天才には独創性が高いことが多いようです。

特に、クリエイティブな面での才能を持って生まれた天才には、この特徴が大きく表れるようですね。

しっかりとした発想力があるために、他の人では思いもよらないような独創的なアイデアを出すことができるのが天才なのです。

また、この独創的な面は努力で補うことができないところですから、秀才型の人間が追いつけない部分でもありますし、まして凡才にはまねできるものではありません。

天才と凡才を分ける境目には多くの特徴が見られますが、その中でも独創性を持っているかどうかというのは、大きく目立つ違いだと言えるのではないでしょうか。

【独創性がある人については、こちらの記事もチェック!】

天才と言われる人が歩む人生はどういうものなのか?

天才と言われるタイプの人がそう多くいるわけではないことはご説明しました。

それでは、天才タイプの人はいったいどのような人生を歩むのでしょうか。

天才と呼ばれ、人にはない素晴らしい能力を持っているからこそ、その生き方は一般的には理解できないものであるかもしれません。

天才と呼ばれるほどに素晴らしい能力を有しているからと言って、必ずしも素晴らしい人生を送れるというわけではないのです。