皆さん、「畏怖(いふ)」を感じることってありますか?
著者は基本的に家にこもりがちな傾向にあるので、そういえばそんなことを思うことはないなと思っています。
災害があったときは人間のちっぽけさを感じてしまいますが、でも日常生活においてはついつい人間の力だけでどうにでもできてしまう錯覚に陥ってしまいます。
エアコンで空調の温度も管理できますし、家電の発達で家事も容易ですし、ネットで買い物までできてしまうし…。
そんな著者ですが、今回は「畏怖」についてみていきたいと思います。
畏怖の念を分析しよう
よく「畏怖の念」なんて言われますよね。
そういえばそのようなワードで検索をすることもなかったなと思いました。
今回、記事の内容を調べるにあたって調べてみると畏怖の念についていろいろな解説がありました。
では、この畏怖の念はどのようなものなのでしょうか?
畏怖の念とは?
では、この畏怖の念がどのような意味なのかを調べてみると「恐れ慄くこと」「かしこまること」のようです。
そのような意味合いはあるもののただひたすら怖いという意味ではないのが畏怖の念の深いところです。
では、この畏怖の念がどのようなものなのかを多角的に分析していきましょう。
1. 恐れる気持ちだけではない
先ほども触れたように基本的にただひたすら恐れるという意味ではありません。
恐れ多くて近寄りがたいという意味合いもあります。
2. 尊敬する気持ちも
恐ろしいだけではないとなるとどのような意味合いがあるのかというと尊敬する気持ちもふくまれています。
例えば雄大な自然を見たときにそのような気持ちになることもあるようです。
また、先ほども少し触れたように災害に遭ったときに人間の小ささを思い知り、自然に対して恐怖の念を抱くこともあります。
著者自身も局地的ではありますが、災害に遭った地域に住んでいます。
最近は医療技術も進歩していて治療すれば問題ない病気も増えてきましたし、そんなに簡単に死なないと思っていましたが、ほんの数分のことであっさりと人命が奪われてしまう瞬間を目の当たりにして、自然の偉大さと人類のちっぽけさに気づきました。
もしかしたら、これこそが畏怖の念なのかもしれません。
【尊敬については、こちらの記事もチェック!】
3. 不安な気持ちもある
敬う、恐れ多く感じるというように聞くと良いイメージがありますが、畏怖の念には不安な気持ちも含まれています。
普段意識しなくても、ニュースなどで大規模な災害を目にすると不安な気持ちになりますね。
自分にはまるでかなわずどうすることもできないという虚無感などもあるのかもしれません。
恐れ多く感じるという部分がある一方で不安で恐怖心を抱くようなネガティブなイメージも兼ね備えています。
4. 心の底からひれ伏してしまう感じ
畏怖の念は敬う、恐れ多く感じるという意味合いもありますし、心の底からひれ伏してしまうような状態を指します。
例えば登山が好きな方は富士山にも興味をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
あの日本一標高の高い山ですので、登山者には興味深い存在でしょうし、著者のように登山には疎いタイプの人間でも知っているくらいに大変メジャーな山です。
でも、富士山もかつては畏怖の念をもって見られていたようですよ。
それはなぜなのかというと、今こそ噴火なんてありませんが江戸時代など昔は火山活動がまだまだ活発だった山なのです。
あの噴火に「怒る神」を思い浮かべ、富士山に対し畏怖の念を抱いていたようです。
科学が発達した今では、「怒る神」の存在というよりは噴火に対し科学的な見解を知ることができるようになりましたので、畏怖の念は薄くなったかもしれませんが、登山している人に事故が起こってニュースになると、やはり自然(山)への畏怖の念を感じますね。
5. 自分にはまったくかなわない
今までは、自然や災害について触れてきましたが、もちろん畏怖の念の対象は何も自然だけではありません。
人に対して使われることもあります。
人に対しての時でも自然の時でも自分には全くかなわないという気持ちで、ひれ伏し恐れおののきながらも敬うような感じを言います。
日々生活をしていても「この人にはかなわないな」と思う場面は多々あります。
中には人間離れをしているのでは?と思うほどにバイタリティーがある人や神々しい雰囲気を感じ取ってしまう人にも畏怖の念を抱くことはあるのかもしれませんね。
畏怖の念の類義語は?
畏怖の念についていろいろとみてきましたが、この言葉の類義語には何があるのでしょうか?一つ一つ見ていきましょう。
1. 敬虔な気持ち
「けいけん」と読み、主に神や仏に対しての気持ちを表します。
畏怖と少し違うところは、確かに敬う気持ちはありますが、そこに「慈しむ」気持ちがあることです。
使い方としては「敬虔な祈り」という風に使われます。
つい最近、著者自身も身内に不幸があり、通夜や葬儀に出席しました。
仏教的な葬儀でしたので、式典の会場に棺があり、そこに仏様が眠っているわけですが、やはり普通の人間が眠っているという気持ちにはなれず、70年以上精一杯生きてこられた方が仏様になったという事で、 敬虔な気持ちに近い気持ちになりました。
やはりこのような葬儀に出席すると、こうして生きていることは当たり前ではなく奇跡の積み重ねだと思い知らされます。
2. 厳粛な気持ち
厳粛もまた畏怖に近いですが、少々意味合いが違います。
意味としては厳かで心が引き締まる様子、厳しくまじめという意味合いがあります。
よく「厳粛な儀式」などという使われ方をされますね。
その一方で動かしがたい事実を指すことがあります。
具体例を挙げると人の死がそうですね。
「絶対はない」ことも多いですが、人が亡くなることは避けられないことです。
このようなときに「厳粛な事実」という言い方もします。
畏怖と比べると厳しいさまなどは同じですが、恐怖の念を感じるとか、不安な気持ちを指す要素は感じられませんね。
3. 神聖な気持ち
神聖という言葉はよく聞きなれていますよね。
純粋で穢れがないこと、尊くて手に触れることができないというような意味合いがあります。
使用例としては「神聖な山」というような使われ方をします。
少々話がそれますが、具体的に神聖な山というとどのような山だと思いますか?
富士山・白山・立山・大峰山・釈迦ヶ岳・伯耆大山・石鎚山の日本七霊山は神聖な山として有名です。
さらには大峰山は山上ヶ岳では未だに女人禁制のところがあることから、今でも昔ながらの信仰の対象になっているようです。
でも、「女人禁制って男女平等の時代に!?」と思うかもしれませんが、昭和34年に稲村ヶ岳(女人大峯)が解放されていますので、女性の方はそちらで修業ができるようですよ。
最近はネットの画像で見ることもできます。
「神聖」のイメージはつかめましたか?
4. 畏敬の念
畏怖の念の類義語を見ていきましたが、似てはいるけれど違う部分も多かったですね。
ですが、畏敬の念のほうは畏怖の念に大変近いものがあります。
読み方は「いけいのねん」と読みます。
この言葉も主に神や仏に対して使われるようですね。
そのような使い方から「敬虔な気持ち」と似ているところがありますが、敬虔な気持ちのほうは慈しむ気持ちがありますが、畏敬の念は畏怖の念と同じく恐れつつも敬うような感じの意味合いです。
一番近い類義語はこの畏敬の念かもしれませんね。
どういうものに対して感じる感情?
普段なかなか恐れおののきつつも尊敬するという事は現代社会においては大分減ってきました。
先ほども触れたように富士山の噴火は昔は「神の怒り」と恐れられてきました。
ですが、今は科学的に噴火のメカニズムもわかってきています。
ですので、日本でもまだ噴火している山はありますが、「神の怒り」と恐れつつ敬うことは減りました。
病気に関しても昔は「祟り」と言われてきましたが、医学的にいろいろなことが証明されるようになってからは、もうそこは神の領域ではなくなりました。
現代社会においてなかなか感じる機会がない「畏怖の念」ですが、どのようなときに感じるものかを掘り下げてみていきましょう。
1. 神や仏
普段私たちが生活しているところで神や仏を意識することは減りましたよね。
何か窮地に陥ったときに少し「神様!仏様!」と心の中で祈るくらいでしょうか?
先ほども触れたように昔は科学的に発達していなかったために「神の怒り」とか「祟り」などでただひたすら恐れられていたところがあります。
ですので、昔の人こそが常に畏怖の念を感じることは多かったのではないでしょうか?
確かにこのように仏事や神事に熱心ではなくなってきましたが、人が亡くなった時の葬儀時に神や仏に対する畏怖の念を少し感じることがあるくらいです。
2. 不思議な現象
確かに現代では基本的にいろいろな現象が科学的に証明されています。
でも、こんなに発達した科学をもとにしても未だに解明されていないことがあります。
不思議な現象って?と思いますが、例えばプラシーボ効果について皆さんはご存知ですか?
著者も聞いたことがありますが、パニック障害を患っている方に精神科医の先生が「お薬だよ。」とビタミン剤の錠剤を渡すと(パニック障害をお持ちの多くの方が苦手な)電車に乗ることも発作を起こすことなくすんなりとできるのだそうです。
もちろん、ビタミン剤にパニック障害の発作を止める効果は全くありません。
なんと、手術に関しても同じことが言えるようですよ。
手術不可能で閉じる形になったとしてもお医者さんから「手術できたよ!」と言われると本当に手術したような効果が出ることもあるとか!
また、地球に当然のようにある水ですが、この水がなぜできたのかの科学的証明はまだまだ時間がかかるようです。
昨今地球に似た惑星を発見すると水があるかどうかの確認はなされますね。
でも、なかなか水がある惑星の発見に至らないところからすると、地球は奇跡の惑星なのかもしれませんね。
3. 素晴らしい人に対して
中には人間的に恐ろしいまでに素晴らしい人はいます。
伝記でもそのような偉人の方は多くいますね。
後にも詳しく紹介させていただきますが、マザーテレサの偉大さは非常に有名です。
もちろん偉人はたくさんいますし、後の歴史に大きく影響を与えるような発見をした人も多くいます。
ですが、どちらかというと直接人々に関わり影響を与えた人のほうに畏怖の念を抱かれがちなところがあるのかもしれませんね。
4. 超能力的なもの
確かに仕掛けはあるのかもしれませんが、超能力的なものに関しても人間の力が及ばないような感じがして畏怖の念を感じてしまうことはありますね。
やはり「人間の力が及ばない」ところがそう感じさせるのでしょうか?
5. 心霊現象
心霊現象もまた、人間の力ではない力が働くことで恐ろしく感じられるものですね。
ですが、心霊現象も案外人の心が関係するところもあるようですよ。
例えばですが「祟られて不幸続き」と錯覚してしまうこともあるけれど、悪いことばかりに注目するからそのようにみえることもあるとか。
6. 野生動物
野生動物は私たちよりも俄然厳しい環境で生きています。
適応能力がなければ即刻死を意味します。
そのような厳しい環境で生きている野生動物も私たち人間は到底かなわず畏怖の念を抱いてしまうのかもしれません。
7. 科学技術
今までは人間の力が及ばないところという視点から見てきましたが、もちろんその技術を発展させているのは人間だけれど「自分の」力が及ばないという点では科学技術も畏怖の念をもって見るものかもしれませんね。
科学者の特集を見ることもありますが、やはり私にはかなわないと思ってしまいます。
8. 権力者
やはり人間はみな平等!と言いたいところですが、権力を持っている人などのパワーバランスはどうしてもあります。
例えばですが、政治家に関しても自分たちが選んでいる人にも関わらずかしこまってしまいますね。
下の子のベビーカーを引いているときに有名な市議会議員の方の演説に出くわしたことがありますが、握手の時は緊張しました。
9. 自然の猛威
最近は本当に便利な生活を手にしすぎて忘れがちですが、自然の猛威を感じるとやっぱり人間は無力だなと感じます。
原発事故の時にそう感じましたね。
どんなに科学的に発達しても人間は結局は自然の恐怖から離れられないんだと実感しました。
10. 人体の不思議
普通に生活しているときは何とも思わないけれど、機械で再現しようと思ってもどうしてもできない機能は人体にはあるようです。
例えばですが、涙を流すとき気持ちによって味が分かることは聞いたことはありますか?
同じ涙でもそれぞれ違うことに驚きますね。
具体的な使い方の例文
では、畏怖の念の具体的な使い方を見ていきましょう。
1. 大震災で海に畏怖の念を抱いた
津波を伴う大震災を日本も体験をしました。
著者は西日本在住者でテレビでその様子を見ることが多かったですが、それでもやはり自然に対し畏怖の念の感じました。
やはり人間の力ではどうすることもできないことってありますよね。
2. マザーテレサには畏怖の念を感じる
看護師と言えばというくらいに大変有名なマザーテレサ。
貧しい人であっても、というより貧しく困っているからこそ優しく手を差し伸べることはだれもができることではありません。
ですので、彼女に畏怖の念を感じる人も多いでしょう。
3. 野生動物の生命力に畏怖の念を感じる
厳しい世界を生きる野生動物の生命力はたくましいです。
人間はかなうことがないところから畏怖の念を感じますね。
4. ペットの死の瞬間に畏怖の念を抱いた
どんなに人間が科学的な点で発展を遂げたとしても永遠にかなうことはないであろうこと、それは不老不死です。
ペットは人間に比べて寿命が短い傾向にあることから畏怖の念を感じることも多くあるのでしょう。
5. 壮大な自然の景色は子供たちの畏怖の念を育てる
壮大な自然を感じるほうが畏怖の念を感じやすいですね。
便利なところを求めがちですが、もしかしたら自然豊かなところのほうが人間らしく過ごせるのかもしれません。
6. 彼の素晴らしさには私などでは到底及ばず、畏怖の念を感じる
畏怖の念は自然のみならず人にも使われます。
到底かなわないと思うような人にも畏怖の念は感じることがあります。
まとめ
畏怖の念についていかがでしたでしょうか?
なかなか使う言葉ではなく、日々の便利な生活をしていると忘れがちな畏怖の念ですが、こうして振り返ると自然に生かされているだけの存在と気づかされます。