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畏怖の念を抱くとはどういうこと?具...(続き2)

あの噴火に「怒る神」を思い浮かべ、富士山に対し畏怖の念を抱いていたようです。

科学が発達した今では、「怒る神」の存在というよりは噴火に対し科学的な見解を知ることができるようになりましたので、畏怖の念は薄くなったかもしれませんが、登山している人に事故が起こってニュースになると、やはり自然(山)への畏怖の念を感じますね。

5. 自分にはまったくかなわない

今までは、自然や災害について触れてきましたが、もちろん畏怖の念の対象は何も自然だけではありません。

人に対して使われることもあります。

人に対しての時でも自然の時でも自分には全くかなわないという気持ちで、ひれ伏し恐れおののきながらも敬うような感じを言います。

日々生活をしていても「この人にはかなわないな」と思う場面は多々あります。

中には人間離れをしているのでは?と思うほどにバイタリティーがある人や神々しい雰囲気を感じ取ってしまう人にも畏怖の念を抱くことはあるのかもしれませんね。

畏怖の念の類義語は?

畏怖の念についていろいろとみてきましたが、この言葉の類義語には何があるのでしょうか?一つ一つ見ていきましょう。

1. 敬虔な気持ち

「けいけん」と読み、主に神や仏に対しての気持ちを表します。

畏怖と少し違うところは、確かに敬う気持ちはありますが、そこに「慈しむ」気持ちがあることです。

使い方としては「敬虔な祈り」という風に使われます。

つい最近、著者自身も身内に不幸があり、通夜や葬儀に出席しました。

仏教的な葬儀でしたので、式典の会場に棺があり、そこに仏様が眠っているわけですが、やはり普通の人間が眠っているという気持ちにはなれず、70年以上精一杯生きてこられた方が仏様になったという事で、 敬虔な気持ちに近い気持ちになりました。

やはりこのような葬儀に出席すると、こうして生きていることは当たり前ではなく奇跡の積み重ねだと思い知らされます。

2. 厳粛な気持ち

厳粛もまた畏怖に近いですが、少々意味合いが違います。

意味としては厳かで心が引き締まる様子、厳しくまじめという意味合いがあります。

よく「厳粛な儀式」などという使われ方をされますね。

その一方で動かしがたい事実を指すことがあります。

具体例を挙げると人の死がそうですね。

「絶対はない」ことも多いですが、人が亡くなることは避けられないことです。

このようなときに「厳粛な事実」という言い方もします。

畏怖と比べると厳しいさまなどは同じですが、恐怖の念を感じるとか、不安な気持ちを指す要素は感じられませんね。

3. 神聖な気持ち

神聖という言葉はよく聞きなれていますよね。

純粋で穢れがないこと、尊くて手に触れることができないというような意味合いがあります。

使用例としては「神聖な山」というような使われ方をします。

少々話がそれますが、具体的に神聖な山というとどのような山だと思いますか?

富士山・白山・立山・大峰山・釈迦ヶ岳・伯耆大山・石鎚山の日本七霊山は神聖な山として有名です。

さらには大峰山は山上ヶ岳では未だに女人禁制のところがあることから、今でも昔ながらの信仰の対象になっているようです。

でも、「女人禁制って男女平等の時代に!?」と思うかもしれませんが、昭和34年に稲村ヶ岳(女人大峯)が解放されていますので、女性の方はそちらで修業ができるようですよ。

最近はネットの画像で見ることもできます。