老いた馬である「親父馬」
元々の由来は老いた馬を表す「親父馬」というところからきています。
「おやじ」の「やじ」の部分が「野次馬」と呼ばれるようになっていったことが有力な説として残っているようです。
使えない馬の親父馬と暴れ馬
「野次馬」の意味の由来は、使えない馬が元々の意味の起源です。
「親父馬」という言い方は「老いた馬」という意味になります。
馬も老いてしまうとさすがに人間の仕事の役には立たなくなってしまいます。
また「暴れ馬」も同様に人間の手には負えません。
このように人間の暮らしに役立つ活躍が出来なくなった馬を総称して「野次馬」と呼ぶようになった、ということになりますね。
何の役にも立たないから派生
そして「野次馬」という言葉はいつしか何の役にも立たない人間に対しても使われるようになっていきます。
役に立つ人は、人前で偉そうにしたり自身を誇示したり飾り立てたりはしません。
実直に仕事をこなす人間が尊ばれる中にあって、「野次馬」と呼称されるような人物は自分に無関係な出来事全般に対して必要以上に誇大宣伝したり人だかりに交じって高みの見物にはまったり、という行動を示します。
このような人物、世の中からみたら周囲にいるだけで有難迷惑。
ろくに仕事もできないくせに要求だけは一人前にしてくる。
まさに老いた馬のごとく「野次馬」並み、という評価を下されていたようです。
「野次馬」という言葉の由来は、何の役にも立たない、という部分がいつしか人に当てはめられてきたのが有力そうですね。
「やんちゃ」由来の説もあり
「野次馬」の由来には「やんちゃ馬」からきている、という説もあるようです。
ただ「やんちゃ」という行為は幼児や子供が主に行うもので大人が行うさまではありません。
能力があるのにわざと「やんちゃ」ぶるのは本来の「野次馬」の意味合いとは一線を画するというように判断されたのでしょう。
野次馬をしてしまう8個の心理
それではここからは「野次馬」をやってしまう真理を8個、ご紹介していきましょう。
1.心配な気持ちから
「野次馬」をしてしまう真理の1つ目は「心配」です。
例えば目の前で交通事故が起こってしまった。
ケガをした人はいないか。
高給処置が必要ではないのか。
自分にできることがあるのなら手助けしたい。
こういった「心配」な気持ちがあるからつい野次馬的にその現場を見に行ってしまうケースです。
人の痛みを自身に置き換えているからこそ、起こしてしまう行動パターンといえるでしょう。
そういった意味ではごく一般的な「野次馬根性」のものとは一線を画しているでしょうね。
2.興味でなんとなく
「野次馬」をしてしまう心理には「興味」というものを避けては通れません。
人間は様々なものに興味や関心を示します。
それは人間が持ち合わせている知的な欲求を達成させるために備わっているものであって特別、避難されたりするものではありません。
ただ、人の興味や関心というものは同一種のものにはあまり振り向かなくもなります。
例えばテレビの番組にしても毎回、同じテーマで同じような結末を迎える番組だと興味・関心の対象として区別されるということです。
ところが野次馬的行動に走る人たちは、この「興味」という欲求が旺盛なようです。
どんな些細な事柄にも首を突っ込みたくなるのです。