日本には様々な過去の歴史が存在しており、様々な歴史が今の日本を作り上げているということがいえます。

学校の勉強でも日本のこれまでの歴史であったり、世界の歴史、そして世界が日本に与えた影響であったり、逆に日本が世界に与えた影響なども学ぶ事になります。

歴史を学ぶという事は、過去を学ぶと言うことであり、自然と過去を学べば今私たちが生きている現代について学ぶという事にも繋がります。

それは過去に起きた出来事が、今の日本を作り上げていると言えるからであり、これからの日本は今を起点に物事が動いているからです。

様々な歴史がある中で、今回は踏み絵という用語をキーワードにして、ご紹介していきます。

踏み絵と聞いて、歴史があると思わない方もいるかもしれませんが、踏み絵を背景に様々な歴史が存在しています。

歴史を知るという事は視野を広げる事にもつながり、知識として様々な事を私たちに与えてくれます。

視野を広げる事で、様々な場面で役に立つ可能性もあります。

自分自身の視野を広げるためにも、歴史の知識として知っておきましょう。

踏み絵とは。

踏み絵という言葉を知らない方もいるかもしれませんので、まずは踏み絵という言葉の意味についてまずはご紹介します。

踏み絵とは、キリストやマリアの像を木、もしくは金属の板に刻んだ物を足で踏ませるという行為になります。

歴史の勉強をする中で聞いたことがある方がかなり多いと思いますが、
踏み絵の意味だけを知ってもなぜこのような事をするのかいまいちわからない方もいるかもしれませんね。

踏み絵を行っているのは、ある目的があり過去にこのような事が行われていました。

具体的な理由につきましては後ほどご紹介します。

踏み絵と絵踏みの違い。


踏み絵という言葉を知った上で絵踏みと言う言葉との違いについてご説明します。

子供の頃などに絵踏みをして遊んだ経験がある方もいると思います。

遊んだ時期としては、主にお正月などの恒例行事ということで絵踏みを行って遊んでいたと思います。

とても似ている言葉ですが、厳密には意味が違います。

ご説明すると、キリストやマリアの絵が書かれている木の板、もしくは金属の板を踏ませる行為を絵踏みと言います。

その時に踏ませる絵の描かれた木の板、もしくは金属板を踏み絵と表します。

なので、踏ませるという行為を指し示すのか、踏ませる道具を指しているのかという違いが存在しており、似ている表現になりますが全く意味が異なります。

混同しやすいので、混乱する方もいるかもしれませんが、あくまで踏みという行為と、使い道具という事を区別して考えると分かりやすいと思います。

キリシタン狩りに使われた。

踏み絵を行う理由について理解することで歴史の背景や、その他のことについての関連性を理解することができます。

一般的に物事を掘り下げて考えることで、より理解が深まり、関連したたくさんの事を記憶に刷り込むことができますので広い視野を持つことにつながります。

踏み絵の意味を理解したところで、なぜ行っているのかという意味についても理解してください。

踏み絵が行われた理由として、キリシタン狩りに使われたという歴史的背景が存在しています。

キリシタンという言葉は、キリスト教を信じている信者の事を指し示す言葉です。

あなたもこれまでの人生でキリスト教を信じている人が身近にいた事はありませんか?
キリストの信者はキリストを神の子と信じ、日々教えを大切に守り生活をしています。

だからこそ、キリシタンという存在を刈る為に踏み絵のような事が行われるようになったといえます。

キリスト教の信徒を探す1つの方法。


あなたがもしキリシタンかどうかを判断するために行動をするとしたらどの様な方法を考えますか。

先ほどご紹介した絵踏みと同時に、この方法を想像すると理解は難しくないと思います。

キリシタンはキリストをと神の子と信じ、常に教えを守っているので、神同然に考えています。

だからこそ踏み絵をさせることによって、自分が信じている神を足蹴にするという事に繋がるので、当然踏む事をためらう者はキリシタンという風に考えることができます。

厳格に教えを守っている熱狂的なキリスト教信者こそ、 絵踏みのような方法で信者だとわかってしまいます。

人間は他の動物と違い心を持っています。

その人間の心を利用した判別方法であると言えます、ある意味賢い、ある意味非人道的な方法であると言えます。

キリストやマリアが描かれている。

踏み絵にはイエスキリスト聖母マリアが描かれています。

キリストは文字通りキリスト教における神の子と称されている神同然の存在です。

聖母マリアはキリストを産んだ母であるマリアとして存在していますがどちらもキリスト教信じる者にとっては非常に強く崇めている存在なります。

神同然の存在を足で踏むという行為は当然ながら教えを守っている方にとっては行ってはいけない行為であり、これまで生きてきた中でたくさんの教えを守ってきている方にこそできない行為です。

自分自身を否定される事にも繋がり、厳格な教えを守ってきた人にとっては屈辱的な行為です。

だからこそ、判別方法として採用され、自らが一番崇めている存在を模して描かれているという事に繋がります。

紙製から木製や金属製に。

元々踏み絵に関しては文字通り紙に書かれた絵を使われて絵踏みをさせていました。

ただ先ほどお伝えしたようにキリシタンを探す為におこなっているので、紙に書いた絵を踏ませるとなると、すぐに絵自体が損傷をしてしまい何枚も何枚も書かなければいけなくなってしまいました。

そうなると当然効率が悪くなってしまいますよね。

なので、ある時から紙に絵を描くのを廃止し、その代わりに木の板や金属にキリスト、もしくはマリアを描くようになりました。

木の板や、金属に材料を変更することで、踏まれても損傷をさせることなく何度も利用することができると考えたためです。

実際に木の板や金属金属に変えることで同じものを何度も使用できるようになったので、大きく手間は激減したと言えます。

絵踏みが廃止されてからは木の板や金属などは再利用をされてしまっため、今現在の世の中で残っているものはとても少なくなっています。

今残っているものに関しても表面がすり減ってしまった形で残っているものが多いとされています。

絵踏みはお正月の行事⁉︎

絵踏みがお正月に行われていることを知っている方も多いと思います。

事実、絵踏みはお正月に行事として行われており、たくさんの方が遊びとして楽しんだ経験があります。

お正月に行われるということで、絵踏み春の季語とされています。

なので俳句などの季語として文章に使われる場合も多いといえます。

キリスト教徒の信者からたまったものではないと感じるかもしれませんね。

お祭りのようになっていった。

最終的に踏み絵はお祭りの様に扱われていくこととなります。

その経緯としては、昔はキリスト教信者を見分けるための方法として活用されていたものですが、継続されることによって、年月が経ち、元々行われていた意味を忘れてしまい、気づけばお祭りの行事として取り入れられるようになりました。

キリスト教の信者からすれば気を悪くしてしまうお祭りになるかもしれませんが、当の当事者等についてはそこまで深い考えで行なっているという事の意識は低いと言えます。

絵踏みがされるようになった経緯。

絵踏みが行われるようになった経緯についてご説明します。

元々絵踏みが行われる理由となったのは、キリシタンを判別するためだという事は先ほどお伝えしました。

では、なぜキリシタンを判別しなければいけなくなったのかという事を知らなければ、意味が分かりませんよね。

まずはキリシタンが判別しないといけなくなった理由を掘り下げて考えていきましょう。

掘り下げて考える事で、より深い理解が得られるようになります。

この機会に絵踏みという言葉の背景にある歴史を知りましょう。

キリシタン禁令とは。

キリシタンを判別しなければいけなくなった理由を説明する前にまずは禁教令について知っていただく必要があると言えます。

禁教令とはある宗教を信仰したり消したりすることを禁じる命令になります。

例えばキリシタン禁令ということを考えると日本においてキリスト教を禁じるという命令になります。

なので、当然ながら日本にいるキリシタンを判別する必要があるということにつながります。

キリシタンを禁止しているのにキリシタンとして存在しているものは、処罰する必要があるので、先ほどお伝えした踏み絵を用いて判別するということが判別が行われた経緯となります。

徳川秀忠が発令。

禁教令を行った人物は徳川秀忠といわれています。

徳川秀忠は安土桃山時代から江戸時代にかけての武将になり江戸幕府の第二代征夷大将軍として活躍しています。

徳川家康の三男として誕生しており当時からとてつもない力を持っている国人でありました。

征夷大将軍として活躍している徳川秀忠がなぜキリスト教を禁止したのかその背景についても知っていただく必要があると言えます。

キリスト教禁令。

キリスト教禁令とは1612年に第2代将軍徳川秀忠が幕府の直轄地と直属の家臣に対して命令した禁止令です。

キリスト教の信仰を禁じる内容の命令で、次の年には日本全国にまで命令を及ぼしています。

なぜキリスト教を信じることを廃止させようとしたのかというと、最初は幕府はキリスト教を信じているという事を黙認していました。

誰がどんな宗教を信じようと個人の自由だという風に黙認をしていましたが、ある時から、宗教を信じる事を禁じるように考えを改めました。

なぜ考えを改めるようになったのかと言いますと、キリスト教徒がどんどん増加してきたということが理由の一つだと言えます。

キリスト教徒の数がどんどん増加するということは当然ながら危機感を感じる事となります。

キリスト教を信じるがゆえにキリスト教の言いなりになってしまい、もしかすると江戸幕府の支配の妨げになってしまうのではないかという懸念をしたからです。

もし自分が幕府の立場の人間と考えた時に、自分たちの支配が及ばない集団ができてしまうとやはり不安な気持ちに駆られると思います。

だからこそ早い段階でキリスト教の支配を止めることを先決しなければならない、と判断した結果キリスト教を禁止する命令を出すということに至った理由です。

またもうひとつの理由として西の国の大名が貿易をすることによって利益を得ることを抑えようとしようと考えていたということだけの一つとして挙げられています。

キリスト教は海外の宗教なので、海外からやってくる人からもたらされているので、貿易などもその影響で盛んに行われていたので、貿易に関する利益を出さないようにするには、海外の接触を防ぐ事が第一と考えた為です。

二港制限令。

徳永秀忠が発令した命令には二港制限令も含まれています。

この命令は、 徳永家康の死後徳永秀忠が鎖国をするために出した命令になります。

鎖国についてはある程度の方々が歴史で勉強していらっしゃるかと思いますが、他の国との関わりを断つと言う目的をもって行われた政策が鎖国と言われています。

1616年にキリスト禁教令とヨーロッパ船の来航を長崎と平戸の二つの港に制限するという目的で二港制限令を制限が出されています。

外国からの必要な物資は供給しつつ、必要最低限の事以外は接触を禁じるという目的をもっていたとされます。

キリスト教禁教令と今お伝えした二港制限令を発してから、徳永秀忠はキリスト教徒の弾圧政策を次々に実行していくようになります。

最終的には、翌年の1617年に長崎住民に対しての命令として、キリスト宣教師を宿泊させることを禁止にしたり、各地に潜んでいる宣教師などの関係者を摘発するようになっていくのです。

実際に1619年には将軍秀忠が伏見を訪れた時に頭の中にいたキリシタンと、そのキリシタンと関わりなった信者たちを全て処刑するように命令したという事もわかっています。

そのほかにも、幼い子供も含めた50人以上の信者を火あぶりに処すなど、秀忠の断固としたキリシタンに対する弾圧の姿勢がわかるエピソードも存在しています。

踏み絵を発案したのは誰⁉︎

ここまで弾圧される事となったキリシタンですが、キリシタンを判別するための踏み絵を発案した方が誰なのか気になる所ですよね。

踏み絵を開発した人物は、オランダ人と言われる説もありますが、沢野忠庵が作ったと言われる説などがあります。

しかしながら、この説に関しては証拠がなく、いまだ判明されていないので、誰が作ったかについては謎になっていると判断するしかできません。

隠れキリシタンの増加。

キリシタンを見つけるために踏み絵という残酷な手法を取ってきた江戸幕府ですが、キリシタンも黙って処刑される事を是としない人も当然存在します。

人間ですので、自分自身の命がかかった状況になると、これまで信じてきた神の存在も、命の方が上回ってしまう事があります。

いわゆる、隠れキリシタンという存在と言われています。

隠れキリシタンは、踏み絵を求められたときに、キリストやマリアの書かれた絵を踏んでいたそうですが、実際は隠れて祈りを捧げていたり、絵を踏んでしまった事を祈りによって許しをこうなどの行動を取っていました。

次第に、自分自身の心の中での考え方が大事だという事に繋がった結果となります。

心の中で信仰をすれば、表面上は何をしても問題ないという考え方にたどり着くのです。

なので、次第にキリシタン刈りの行為は意味のない物となり果てる結果となります。

キリシタン狩りを行うがゆえに、結果として隠れキリシタンが生まれる所以となります。

信者が踏み絵を踏むことができなかったら。

もしも踏み絵を行う事が出来なかった場合、どのような事が起きるかご紹介します。

キリシタンを判別するための踏み絵を拒んだり、行わなかった場合には尋問され、最終的には投獄され、そのまま処刑されるかキリスト教を捨てるかどうかを判断する事を迫られます。

キリスト教を捨てる決意をしたものは釈放され、放免される事に繋がるといえます。

しかし、キリスト教を捨てなかったものは処刑され、殺されてしまいます。

残酷な手段ですが、それが国を守る為だと誰もが確信して行動していたといえます。

キリシタンは九州に多かった⁉︎

キリシタンはその性質上九州に存在することが多かったと言われます。

なぜかと言いますと、キリスト教は宣教師によって影響されることでその存在を広めてきました。

だからこそ布教する宣教師は海外から来た人物であり、海外から日本に来る場合には九州が玄関口となります。

当然ながら布教する割合は九州が多いと判断でき、九州から広まっていっている事が予想されます。

なので当然、キリシタンは九州に多く存在すると言えます。

実際に多くキリシタンが九州には存在し、踏み絵が最初に制度化されたのは九州だけです。

布教する確率、そして潜んでいる割合が多いと判断されたからこそ制度化されており、実際に多くの方が九州で摘発された事実もあります。

しかし、九州から広がっているので、九州以外にもキリシタンは存在しています。

九州以外の地で取り締まられる事も多くあったのは事実です。

のちに全国で取り締まられた。

九州から始まり、全国的にキリシタン狩りが取り締められるようになると、全国的にキリシタンが摘発され、たくさんの方が処刑され、キリスト教をやめなければいけない理由となりました。

全国的に行われたキリシタン狩りは、1660年代になると全領民を対象として次第に制度化されていく事になります。

しかし、全国的に広がると、次第にキリシタンであるなしに実行されるようになり、年中の行事という感覚で行われるようになります。

結果的に、元々はキリシタンを確認する行為が行事になり、お祭りのようになり、最終的には遊女などが晴れ着を競うなどの場に変貌したともいわれています。

転びキリシタンも出てきた。

全国でキリシタンが取り締められるようになると、踏み絵から逃れるために転びキリシタンという存在も生まれるようになりました。

転びキリシタンとは、江戸時代に拷問や迫害によって棄教したキリシタンのことです。

キリシタンは摘発されると先ほどお伝えした様にキリスト教をやめるか処刑されるかどうかどちらかを選択しなければいけないとお伝えしました。

当然ながらキリスト教を信じたい気持ちもあれば自分自身の命が大事だと思うことも人間です。

キリシタンの中にはキリスト教を捨てることを選ぶ方も多く存在しました。

当時、転ぶということを棄教するということの意味合いとして用いられていたので、転びキリシタンという言葉が生まれました。

勘違いされやすいのが、踏み絵を逃れるためにわざと転んでけがをするような事を連想しますが、全く違います。

なぜ転ぶという言葉を用いられていたのかといいますと、当時は拷問として俵攻めという方法が存在しました。

俵攻めは俵の中に身体を押し込めさせて、首だけを露出させ、転がしたり、山積みにして鞭を打ったりするなどの方法で拷問していました。

この時攻められることから逃れたいと感じた傍から転がりでキリスト教を捨てる決断をしたので転がり出てと言う言葉から転びキリシタンと呼ばれるようになっています。

この時代に起こった事件。

踏み絵が行われた理由、そして踏み絵の具体的な内容についてご説明していきました。

踏み絵が行われた背景などもある程度想像つくようになったかと思いますが、並行して踏み絵が行われていた時代で起こっていた事件についてもご紹介していきます。

併行して行われていた事などについても把握しておく事で、より当時の時代についての知識が得られますし、視野も広くなると思います。

平山常陳事件。

踏み絵が行われた時代と並行して、平山常陳事件が起きています。

1620年に平山常陳という人物が船長をつとめる朱印船が数名のキリスト教宣教師を連れてマニラから日本に向かっていた時に、台湾近海でイギリスそしてオランダの戦隊によって高された事件です。

これが理由で徳川幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけたと言えます。

当時の徳川幕府は将軍の名前による朱印状を発給することで朱印船に対して保護を与えていました。

なので多くの朱印船が東アジアの海上を活発に往来していました。

その一方で同じ海域でスペインやポルトガルが覇権争いをしており、さらには勢いづいているイギリスやオランダと言った国々が戦艦を投入して互いにしのぎあっていました。

なので、その覇権争いの真っただ中にあったのでイギリス、オランダの戦艦に拿捕されてしまったのです。

日本人だけではなく、宣教師が乗っていたので、日本に入る事が許されない宣教師を乗船させていた事を理由に本来朱印船の積み荷を奪おうのは禁止されていましたが、正当性を主張され、幕府はこれを海賊行為だと認識し、イギリス、オランダ両陣営と日本が主権争いをするきっかけになりました。

最終的にはかかわったとされる船長や宣教師などが火あぶりや斬首の処刑などをされてしまったという事件内容になります。

長崎の大絢教。

次にご紹介する事件は長崎の大絢教です。

長崎の大絢教は江戸時代初期の元和8年8月5日に起きた事件です。

元和の時代に起きたので、元和の大絢教とも呼ばれている事件なのですが、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が処刑された事件であり、日本のキリシタンを迫害する事件の中でも最大級の事件です。

この事件の後から幕府による弾圧はさらに強まる結果となります。

徳川幕府が豊臣秀吉が行っていた禁教令を引き継ぎ、キリスト教を禁止して、キリスト教に関係する人を処罰していましたが、 牢に入れていた人達をまとめて処罰した事が、この事件の内容となります。

処刑された人達の中には、神父や修道士だけではなく、女性や幼い子供なども存在しており、老若男女問わず処刑していたとされています。

宣教師をかくまったとされる人はみんな処罰され、処罰されたうちの25名は火刑されたとされています。

非常に残酷な事件ですが、それほどまでのカトリックのキリスト教を危険視していたと考えることが出来ます。

絵踏みが描かれている文学。

絵踏みについてご紹介しましたが、絵踏みが描かれている文学なども多数存在しています。

絵踏みに関しての歴史を学ぶ上で、絵踏みが描かれている文学を知る事は良い手がかりにもなります。

知名度の高い文学作品に関してご紹介していきますので、絵踏みが様々な視点からどのように描かれているのかという事に着目し、ご紹介しましょう。

沈黙

沈黙とは遠藤周作が17世紀の日本における市立歴史文書に基づいて作ったと言われる歴史小説で1966年に遠藤周作が書き下ろし新潮社から出版された文学作品となります。

江戸時代初期のキリシタンを弾圧する渦中に置かれたポルトガル人の司祭を通じて描かれている作品であり、神と信仰の意義に描かれている内容になります。

あらすじは、イエズス会の司祭であるクリストヴァン、フェレイラが布教に来た日本で、過酷な弾圧に対して屈してしまったという知らせがローマにもたらされました。

クリストヴァンの弟子である2名の弟子は日本に潜入すべくマカオに立ち寄りそこである日本人と出会います。

その日本人の案内で五島列島に潜入した女子は隠れキリシタンたちに歓迎されるのですが、最終的に追われる身となってしまいます。

弟子たちはひたすら神の奇蹟と勝利を祈るのですが神様は沈黙を通すことの日であったといわれています。

最終的には出会った日本人の裏切りよって密告されてしまい捕らえられてしまいます。

捉えられた弟子は自分自身の信仰を守るべきなのか、それとも命を守るために棄教すべきなのか迫られるようになります。

最終的に弟子は踏み絵を受け入れ、目に見えない痛みと戦うという内容となります。

考えられる作品であり、信仰宗教を持っている方々が、どれほどの熱心な気持ちで宗教に対して信仰しているのかという事が理解できる作品となっています。

ガリヴァー旅行記

ガリバー旅行記は認知度の高い作品であるかと思います。

アイルランドの作家ジョナサン・スウィフトにより執筆された風刺小説です。

内容が大衆の怒りを買うことを恐れた出版社により大きな改変を加えられた物が1726年に出版され最終的には1735年に完全なるものが出版されたと言われています。

出産後間もなく非常な人気を博してそれ以来今に至るまで版を重ね続けている作品になります。

ガリバー旅行記はいくつかの編に分かれており第4編まで存在しています。

様々な体験内容が記されていますが今回は簡潔に踏み絵に関するところをご紹介していきます。

ガリバー旅行記のなかで主人公ガリバーが訪れる国の家唯一実在する国がありそれが日本だと言われています。

他については全て架空の国である中で日本だけ実在する国として取り入れられています。

理由としては定かではないかもしれませんが日本は当時鎖国の状態にあり、その中でも銀や銅などの輸出国としており陶器や着物などの工芸品が輸出されていたので、物から日本の文化などをヨーロッパ人は知っており、その文化は憧れとなっており日本はジパングと呼ばれて憧れの下であったとされることが、理由の一つだと言われています。

当時日本はオランダとだけ年に1、2回だけ船で交易をしていた状態になのですが、オランダの独身的な日本とのコンタクトが英国にとっても非常に強い関心事で、なぜここまで強く関心をいただいていたかというと、当時の東アジアでの交易で英国が締め出されていたからだという事が理由になります。

そのような状況をつくっているオランダに対して反撃の機会を考えていた英国は、日本で行われている踏み絵を利用して、オランダに反撃しようと日本へ潜入するような内容が描かれているのです。

当時、ヨーロッパでは日本の踏み絵がかなり有名だったこともあり、取り入れられているという説もありますが、遠く離れた文学作品で日本の出来事が鮮明に書かれているという事は興味深い事だと言えますよね。

まとめ

今回は踏み絵について詳しくご紹介しました。

たった一つの何気ない出来事でも、様々な関連のある出来事があり、歴史的背景があります。

掘り下げえて物事を考えるだけでこのように様々な知識を得ることが出来ます。

ひとつひとつの事に興味を持ち、たくさんの知識を身に着ける事で、視野を広げてたくさんの素晴らしい事に気が付くようになります。

何事にも関心をもって普段から自分自身の視野を広げるチャンスを大事にしてくださいね。