次第に、自分自身の心の中での考え方が大事だという事に繋がった結果となります。
心の中で信仰をすれば、表面上は何をしても問題ないという考え方にたどり着くのです。
なので、次第にキリシタン刈りの行為は意味のない物となり果てる結果となります。
キリシタン狩りを行うがゆえに、結果として隠れキリシタンが生まれる所以となります。
信者が踏み絵を踏むことができなかったら。
もしも踏み絵を行う事が出来なかった場合、どのような事が起きるかご紹介します。
キリシタンを判別するための踏み絵を拒んだり、行わなかった場合には尋問され、最終的には投獄され、そのまま処刑されるかキリスト教を捨てるかどうかを判断する事を迫られます。
キリスト教を捨てる決意をしたものは釈放され、放免される事に繋がるといえます。
しかし、キリスト教を捨てなかったものは処刑され、殺されてしまいます。
残酷な手段ですが、それが国を守る為だと誰もが確信して行動していたといえます。
キリシタンは九州に多かった⁉︎
キリシタンはその性質上九州に存在することが多かったと言われます。
なぜかと言いますと、キリスト教は宣教師によって影響されることでその存在を広めてきました。
だからこそ布教する宣教師は海外から来た人物であり、海外から日本に来る場合には九州が玄関口となります。
当然ながら布教する割合は九州が多いと判断でき、九州から広まっていっている事が予想されます。
なので当然、キリシタンは九州に多く存在すると言えます。
実際に多くキリシタンが九州には存在し、踏み絵が最初に制度化されたのは九州だけです。
布教する確率、そして潜んでいる割合が多いと判断されたからこそ制度化されており、実際に多くの方が九州で摘発された事実もあります。
しかし、九州から広がっているので、九州以外にもキリシタンは存在しています。
九州以外の地で取り締まられる事も多くあったのは事実です。
のちに全国で取り締まられた。
九州から始まり、全国的にキリシタン狩りが取り締められるようになると、全国的にキリシタンが摘発され、たくさんの方が処刑され、キリスト教をやめなければいけない理由となりました。
全国的に行われたキリシタン狩りは、1660年代になると全領民を対象として次第に制度化されていく事になります。
しかし、全国的に広がると、次第にキリシタンであるなしに実行されるようになり、年中の行事という感覚で行われるようになります。
結果的に、元々はキリシタンを確認する行為が行事になり、お祭りのようになり、最終的には遊女などが晴れ着を競うなどの場に変貌したともいわれています。
転びキリシタンも出てきた。
全国でキリシタンが取り締められるようになると、踏み絵から逃れるために転びキリシタンという存在も生まれるようになりました。
転びキリシタンとは、江戸時代に拷問や迫害によって棄教したキリシタンのことです。
キリシタンは摘発されると先ほどお伝えした様にキリスト教をやめるか処刑されるかどうかどちらかを選択しなければいけないとお伝えしました。
当然ながらキリスト教を信じたい気持ちもあれば自分自身の命が大事だと思うことも人間です。
キリシタンの中にはキリスト教を捨てることを選ぶ方も多く存在しました。
当時、転ぶということを棄教するということの意味合いとして用いられていたので、転びキリシタンという言葉が生まれました。
勘違いされやすいのが、踏み絵を逃れるためにわざと転んでけがをするような事を連想しますが、全く違います。
なぜ転ぶという言葉を用いられていたのかといいますと、当時は拷問として俵攻めという方法が存在しました。
俵攻めは俵の中に身体を押し込めさせて、首だけを露出させ、転がしたり、山積みにして鞭を打ったりするなどの方法で拷問していました。
この時攻められることから逃れたいと感じた傍から転がりでキリスト教を捨てる決断をしたので転がり出てと言う言葉から転びキリシタンと呼ばれるようになっています。
この時代に起こった事件
踏み絵が行われた理由、そして踏み絵の具体的な内容についてご説明していきました。
踏み絵が行われた背景などもある程度想像つくようになったかと思いますが、並行して踏み絵が行われていた時代で起こっていた事件についてもご紹介していきます。
併行して行われていた事などについても把握しておく事で、より当時の時代についての知識が得られますし、視野も広くなると思います。