2011年7月、東北の大震災被災地を視察した松本龍復興大臣は、各県の知事に対し、「お客さんが来るときは、自分が入ってから呼べ。」「知恵を出したところは助け、知恵を出さないところは助けない。」と発言しました。
マスコミに対しては「今のはオフレコだから。書いたらその社は終わりだから。」と脅しつけました。
最近では最も傲慢な政治家の発言としてよく覚えています。
松本氏は初代の復興大臣ですが、その後もパンツ大臣と言われた人や、おんぶ視察で批判を浴びた副大臣と続きます。
極めつけは前任の今村大臣で「震災が東北で良かった。」と発言し即刻クビになりました。
松本氏の傲慢発言以来、復興庁はほとんどバカの巣窟のようになってしまいました。
このような傲慢で人の心に寄り添えない人たちが、重職についているというのは、本当はあってはならないことです。
本来の仕事が一向に進まないという、弊害が大きすぎるからです。
そういうことを念頭におきつつ、これから、傲慢な人の特徴について考察していくことにしましょう。
️あまり印象の良くない傲慢な人
傲慢かつ印象の良い人というのは、あまり見かけたことはありません。
あの人は傲慢だ、というとき、それは好き嫌いを超えて、また付き合いの長さにも関わりなく、全員の意見が一致しやすいところでしょう。
とにかく傲慢な人には悪い印象がついて回ります。
誰もが認める常識といってもよさそうです。
傲慢といわれている当人たちは、どこまでこうした包囲網に気付いているのでしょうか。
こうした感受性の働きが大きな問題です。
️傲慢の意味は?
一般の辞書で傲慢引いてみると、おごり高ぶって人を見下すこと、またはそのさま、とあります。
もう一つ、ブリタニカ国際百科事典というのを参照してみましょう。
それにはこうあります。
傲慢とは、他者に対して優越を覚えるほどの自己満足の状態を意味します。
フランスの思想家・パスカルは特に、自分のみじめさという人間本来の状態に無知であることとしてこれを重視しました。
パスカルにおける唯一の救いの道は、キリスト者としての道で、無信仰者がいかに無為、怠惰を克服しても傲慢に陥るといいます。
また理性が、真理の最高なるものは別の次元に存することを知らずに、機械的な推論による真理の所有で満足しても、傲慢に陥るそうです。
訳文調かつキリスト教的でとても難しい表現になっています。
しかし、キリスト教徒ではない無信仰者には救いがない、というのが先に立っているような気がしてなりません。
ここには逆にキリスト教徒たちの選民思想と傲慢が出ているのではないでしょうか。
何だか傲慢に陥らないように生きるのは、日本でも西欧でも、とても大変なことのように思えてきます。
驕り高ぶる
傲慢の一般的な解釈は、驕り高ぶることです。
それでは一体何に対して驕っているというのでしょうか。
パスカル風に言えば、他者に対して優越を覚えるほどの自己満足の状態に酔っている、ということになるのでしょう。
それではなぜそのような態度をとって、平然としていられるのでしょうか。
この心理状態が大きな問題です。
この解明こそ、傲慢な人を考えていく上で、最大の焦点となりそうです。
他人を侮る
傲慢な人が他人を侮る理由は、やはりパスカル風に言えば、自分のみじめさという人間本来の状態に無知であることから来ているのでしょう。