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マイノリティとはどういう人?その1...(続き6)

日本でもかつては自分たちの地域以外の人間に対して、村八分を当たり前に行う習慣がありました。

その習慣が現代も残っているのなら差別の意味としてマイノリティの言葉を用いていたかもしれませんが、現代では数字の上でのみこの言葉を用いています。

在日外国人

現代社会では、当たり前に外国人が日本にやってきているため、外国人に対する差別の感情はない人が多いでしょう。

しかし、それはあくまでも観光客に対してのみであり、日本に住む在日外国人に対しては、未だにネガティブな意味としてマイノリティの事例になることがあります。

例えば在日外国人が何かトラブルを起こした時には、一人の人間としてではなく、「外国人だから」と色眼鏡で見る人も少なくはないでしょう。

日本で生まれ育った人でも、外見が外国人そのものだったら、何かあるたびに「やっぱり血の違いがあるから・・・」などと、差別的な眼で見られてしまうこともあります。

もちろんそれが悪いことであることは誰もが分かっていますが、何かあるとそうしたマイノリティは不利になってしまうこともあるのです。

路上生活者

日本は海外に比べると、路上生活者が少ないです。

とはいえ、日本国内だけで見た時には、やはり路上生活者はネガティブな意味でのマイノリティになってしまうことが多いです。

現在路上生活者をしている人がどのような人生を経て今に至っているのかは、当人しか知らぬところです。

しかし、どれだけの事情があるにせよ、そうした「家で生活をしていない」人たちはマイノリティの事例としては槍玉に挙げられてしまいやすいです。

難病を抱えている人

人間は、病気もなく五体満足で生まれてくること自体が奇跡に近いです。

しかし、そうした健全な状態で生まれてくる子どもが多いため、生まれつき体が不自由な人や、難病を抱えている人は、マイノリティな存在として扱われてしまいやすいです。

同じ人間であることには何ら変わりはないものの、難病を抱えるゆえのリスクや生活の不自由さなどから、普通とは違う大変さを周りに想像させるため、マイノリティな存在になってしまいやすいのです。

まとめ

マイノリティはその数の少なさゆえに、多数派から奇異な眼で見られたり、追いやられたりすることがあります。

しかし、少数派だからといって何も悪いというわけではありません。

ただ、やはり社会人になったのなら、ある程度集団生活に馴染む努力をしなければ、周りと上手くやっていくことは出来ませんし、余計に周囲からは悪目立ちして、冷遇されてしまう可能性があります。

マイノリティでも「これは譲れない」という部分は大切にしながらも、一人の社会人として良識ある行動を取れる人が、理想的と言えるでしょう。