明確に定義はされていませんが、精進が一切の甘えを禁じるのだとすれば、人間にとって甘く、安らかな状態を意味する言葉が精進の対義語になると考えられます。
すなわち、「一息」「休息」「怠惰」などの言葉が「精進」の対義語になると考えられます。
また、精進することが、一点に集中して前に突き進んでいる状態だとすれば、「妄想」「錯乱」「呆然」などの、少なくとも目の前のことや目的に集中出来ていないような状態を示す言葉もまた、精進の対義語であると言えるでしょう。
もっと簡単に表現すれば、「頑張っていない」「努力していない」「怠けている」「甘えている」「休んでいる」「寛いでいる」といった言葉も精進の対義語になるでしょう。
「精進」という言葉自体は、対義語とセットで生み出されたわけではありません。
そのためハッキリとした対義語は定義されていませんが、精進の同義語から対義語を探ることは出来ます。
「精進」の意味は色々!
先にもご紹介したように、精進にはさまざまな意味があります。
仏語としての意味や、一般的に用いられる意味までありますが、私たちが普段使う機会の多い意味は一般的な意味としての「精進」でしょう。
しかし、一般的な意味は仏語の意味から変化したものであるため、仏語としての意味も知っておいた上で一般的な意味を理解する方が良いでしょう。
「精進」だけでなく、世の中にたくさんある言葉の多くが、その言葉の中に複数の意味を持っています。
同じ言葉でも別の意味があると知っていれば、場面によって正しく言葉を活用することが出来ます。
「精進」もまたそれと同じように、複数の意味をきちんと理解しておくことで、どんな場面でどんな意味としてその言葉を用いているのかを自分で確実に把握することが出来るでしょう。
「精進」が持つさまざまな意味を具体的に以下にまとめましたので、ぜひ参考にしてみて下さい。
雑念を払い、仏教の修行に励む
仏語としての「精進」本来の意味は、「雑念を払い、仏教の修行に励む」ことです。
キリスト教であれ仏教であれ、その道を極めようと思ったら、大変な努力が必要とされます。
一切の甘えや妥協は許されず、限界まで己の心身を削り、磨くことによって神様へ近づくことが出来るのです。
剃髪や出家(現在では肉親と縁を切ることはありません)、早寝早起き、粗食、質素倹約、作務(清掃)はもちろんのこと、宗派によっては滝行や川行などの水行、山岳修行、瞑想やお百度参り、お遍路、断食、托鉢などの厳しい修行も行います。
仏教の修行は自らの肉体や精神を極限にまで鍛え上げることで、ようやく悟りの境地に至れるとされています。
煩悩が全てなくなり、ある意味人間らしさを失った状態になることで、御仏の元へ至れるというのです。
仏教では、毎日の何気ない生活が全て修行と考えられています。
どんな時でも、何をする時でも常に雑念や煩悩を振り払いながら生活していく必要があります。
そこには甘えや怠惰は一切不要とされ、それらの雑念を払うために一生懸命に修行に励むことが、本来の「精進」なのです。
一定の期間、身を清め、行いを慎む
仏教では日々の生活も全て修行と考えられています。
そのためどんな時でも雑念を振り払い、一心に集中して励むことが求められています。
しかしそれ以外にも、一定期間身を清めて、行いを慎む行動もまた、「精進」だとされています。
例えば神社で祭儀がある際には、祭儀を行う神主や巫女たちは禊(みそぎ)を行います。
現在では祭儀の前にのみ身を清める形が多いですが、ひと昔前までは、祭儀の時期が近くなると、祭儀を行う者たちは予め禊をするために周りからは隔離され、一人ひっそりと祭儀に向けて祝詞を唱えたり身を清めたりしていました。
そうして一定期間、穢れや煩悩から離れて行いを慎み、身を清めてから祭儀を行っていたのです。
神様とは神聖な存在ですので、神様をお祭りする際にはそれだけ神主や巫女たちも穢れを払い、清らかな状態で祭りを執り行う必要があったのです。
仏教の修行でも、時々修行僧が一人で山籠もりをして、一定期間行いを慎み、身を清め、ひたすらに修行に励むことがあります。
俗世間から離れて一人集中して瞑想を行うことで、神経をより研ぎ澄ませ、御仏の言葉を聞こうと懸命に耳を傾けるのです。
そうした修行を何度も繰り返している内に、次第に俗世間の煩悩からは離れていくことが出来るとされています。
このように、一定期間身を清め、行いを慎むこともまた、「精進」なのです。
肉食を断つ
「精進料理」という言葉を聞いたことがある人や、また実際に食べたことがある人もいるでしょう。
「精進」には「肉食を断つ」という意味もありますので、精進料理は「肉類の入っていない料理」のことを指します。
肉食とは生きとし生ける獣を殺し、その肉を食べることであるため、仏教で禁止されている殺生をしない教えに反する行為です。