周りからの視線を恐れ、避けるように体を縮こまらせて怯えるように生きていくのは、とてもじゃありませんが、かっこいいとは言えません。
根拠の無い自信ほど、不確かで嘘くさいことはありませんが、根拠のある自信ほど、頼もしいものはありません。
自信を持って行動できるということは、自分自身の判断が正しいと胸を張って宣言できる理由があるということ。
同じ言葉、同じ決断でも、自信なさげに言われるのと、自信たっぷりに言われるのでは、心象が全く違います。
自分自身の可能性や選択を心から信じられる人でなければ、人の心を掴むことはできないということです。
自分自身を信じている人は、そう思えるだけの裏付けがあるはず。
努力や勉強、そして経験が人を強くし、自信を与えます。
心から納得いくまで物事を追求し、自分らしい生き方を見つけられた人はとても強いんです。
自信がある人と無い人は、考え方はもちろん、顔つきや立ち姿さえも大きく異なるもの。
自信は人に、威厳や風格といった類のインプレッシブな魅力をさずけます。
自信とは、間違った使い方をすれば周囲を威圧したり、蔑んだりするような悪意になりますが、正しく作用させれば、人々の心を掴むチャームとなるのです。
伊達男とは、満ち満ちる自信と、威風堂々とした姿で周りの人から「素晴らしい」と思われるような人物なんです。
非常に印象深いその人は、選択に迷いがなく、その先に待つ己の成功を信じられるだけの確信を持っているのでしょう。
自分はかっこいいと思っている
目立ちたがり屋の自信家、という点だけ見てしまうと、伊達男という存在はとても厄介な人物像になってしまうかもしれません。
こうした人物は、自然の流れで伊達男になったのではなく、自らをその立ち位置へと導いた人ばかり。
自分の才能や能力をきちんと把握し、目立つことさえも己の武器にしているような策略家です。
もちろん、自分自身が周りから一目置かれていることにも気づいていますし、己を“かっこいい”とさえ、思っています。
極論を言えば、伊達男のかっこよさとは、その人自身が思う“かっこいい男”を体現した結果ともいえるでしょう。
かっこよくあり続けることに誇りを持ち、男としての信念を貫き通す強い意志があってこそ、伊達男としての本領を発揮できるものです。
少しナルシスト気味です
自分自身をかっこいいと評価している男性は、所謂「ナルシスト」と呼ばれるようなタイプです。
加えて、目立ちたがり屋と自信家と要素をプラスすると、これまた厄介な人物像が完成してしまいますね。
しかし、一見、負の要素に思われがちなことさえも魅力にしてしまう伊達男というのは、周囲がその人の価値を認め、「この人ならば」と許容していることの証明でもあります。
自分を“かっこいい”と自覚しているナルシストでも、それが紛うことなき事実であり、周囲が「確かにそうだ」と頷くのなら、決してマイナス要素にはなりません。
しかし、自己評価と周囲からの評価にギャップがあると、その評価は一転して「身の程知らず」と呼ばれるようになるでしょう。
目立ちたがり屋と自信家という要素も同様。
その人の本質が、本当に素晴らしいものならば、これらの言葉も“いい意味で”効果をなすのです。
女性との交際経験が豊富
伊達男は、男女共に人を惹きつけるものですが、特に女性ウケがよくモテている人を象徴する褒め言葉でもあります。
伊達男がモテる理由はここまで紹介した特徴からも分かる通り、堂々として風格や自信に満ちた立ち姿に男らしさを感じるからでしょう。
女性は頼りがいや包容力があるような男らしさに魅力を見出します。
自分を引っ張っていってくれる逞しさや将来性を重視して男性を選ぶ女性からすると、伊達男は優良な条件です。
必然的に、伊達男の周りには女性が集まるので、恋愛相手に困ることはないでしょう。
そもそも、派手なことが好きなタイプなので、恋愛に関してもその特性が発揮されます。
交際経験も豊富で、噂がたえないような人も多いでしょう。
しかし、こうした恋愛経験も、本物の伊達男ならば、自分の箔として身にまとっていくのです。
伊達男でもなんでもない人が同じように豊富な恋愛経験を積んだところで、気が多い人だと思われるなど、軽薄な印象が先行してしまいます。
伊達男は、そう言われるだけの魅力があるからこそ、恋愛の場数さえも突然の勲章になるのです。
こうした背景から、恋愛経験が豊富で容姿や権力に恵まれている人を指す言葉としても伊達男が使われます。