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忝いとはどういう意味?使い方や例文...(続き4)

かぶとを脱ぐ

「かぶとを脱ぐ」とは、「能力などで、とても叶わないことを認める」や「敵に降伏・降参する」という意味です。

例えば戦国時代、武士にとってかぶととは、戦場で己の身を守るために重要なものでした。

また、かぶとを被っていることで、自身の闘争心や意志の強さ、自尊心なども表していました。

そのかぶとを脱ぐということは、武士が相手に対して叶わないと認め、全面的に降伏するという意味を持っています。

もし、自分が相手に降参していない内から無理矢理にかぶとを脱がされたとなれば、武士にとっては死にも勝る屈辱だったことでしょう。

基本的にかぶとは一度付けたら、自分の意志で、自分の手で脱ぐものです。

自らかぶとを脱ぐという行為そのものが、相手に対して降伏するという意味ですので、そこから相手の能力に叶わないことを認めたり、降伏したりするということわざが生まれました。

「忝い」という言葉には、相手に対する恐れ多い気持ちが含まれています。

その恐れ多い気持ちから、かぶとを脱ぐという言葉が連想されるのでしょう。

全面降伏

歴史ものや戦争ものの映画や小説などの中で、「全面降伏」という言葉が使われることがあります。

この全面降伏とは、「すべてにおいて敵に服従すること」という意味です。

例えば戦争をして、負けた国が勝った国に全面降伏した場合、戦勝国は敗戦国に対して、どれだけでも理不尽な条約を結ぶことが出来ます。

日本も第二次世界大戦で敗戦国となった時に、アメリカに散々不平等な条約を結ばされましたが、全面降伏をした側は、例えどんなに理不尽な仕打ちを受けても、勝った相手に大人しく従わなければなりません。

自ら全面降伏をした国や個人は、これから相手からどんなに理不尽な仕打ちを受けようと、それを受ける覚悟をしなければならないでしょう。

全面降伏は、先の「かぶとを脱ぐ」という言葉とも意味が似ていますので、同じく自分よりも優れていたり、上にいたりする相手に従うというところから、「忝い」から連想される言葉だと考えられます。

感服

「感服」とは、「深く感じて敬服、または服従すること」です。

例えば同じ作業をしても、相手が自分よりも優れた結果を残した場合、その能力や優秀さに感動して、その相手を認め敬服することがありますが、このような時に「感服しました」と使うことがあります。

スポーツ大会で自分よりも好成績を残した人や、優れた学力を有する人、スキルが優れていたり、「自分ではとても出来ない」と思えるようなことを成し遂げたりした人物に対して、尊敬や敬意の意志を示す際に感服の言葉を使います。

よくテレビなどでも、プロの腕前を目にした人が、「感服致しました」と言っていることがありますので、一般的にも使われる頻度は多いでしょう。

自分には出来ないことをやってのける人に対して、「すごいなぁ」と思う気持ちは「忝い」から連想される言葉でもあります。

仰ぐ

「仰ぐ」とは、「上を向き高いところを見上げる」「人を尊敬する」「教示や援助を求める」「恩恵を受ける」などの意味があります。

この内の、「人を尊敬する」や「恩恵を受ける」といった意味が、「忝い」の言葉から連想されます。

「仰ぐ」は、「師と仰ぐ」「教えを仰いでいる」などと使うことが多く、自分が仰いでいる人に対して、尊敬や敬意を持っているという気持ちの表れでもあります。

「仰ぐ」にはさまざまな意味がありますが、人に対して使う場合には、このように尊敬や恩恵、敬意などの意味合いとして使われるのが一般的です。

心服

「心服」とは、「心の底から尊敬し、服従すること」です。

「感服」と似ていますが、相手を尊敬しているという部分を特に強調したい場合には、心服を用いることがあります。

自分が本当に心から尊敬出来る人に対して、その気持ちを言葉にして示したいと思う時には、「心服しています」と使うことが多いです。

とはいえ、心服はそこまで普段使いをすることはないでしょう。

「しんぷく」という言葉には、「心腹」や「振幅」など、たくさんの漢字がありますので、口にした時にはどういう意味か分からないということもあります。

口にして直ぐに「心服」の言葉が浮かんでこないということは、そこまで世間に浸透している言葉というわけではありませんので、文字にした方が相手には伝わりやすいです。

心服もまた、「忝い」から連想される言葉でしょう。

畏敬の念

雑誌や小説などで、時々「畏敬の念」という言葉が使われることがあります。

この畏敬の念とは、「恐れて敬う心情」のことです。

「畏敬」の「畏」とは、「つつしみを持って相対する心情」のことであり、基本的には神仏などに対して用いられることの多い言葉です。