「五月蠅い」の意味には「音が大きくてそれが邪魔になる」という意味もあります。
例えば、お気に入りのテレビ番組を見ている時に、横から電車の通過音や車のクラクション、あるいは家族の喧嘩の声などが入ってきたらどうでしょう?
ほとんどの人が大きな音に対して嫌な思いをするでしょう。
それは自分が今、行っていることを邪魔されるからです。
自分の興味あることを大きな音で邪魔されたら、誰もが「五月蠅い」という心境になるのです。
細かいことにまで文句を言う
細かいことにまで文句を言われたりすると、人は思わず「五月蠅い」と言ってしまうでしょう。
これは文句というものが心地よくないものであるからです。
その文句をさらに細かく切り刻んで言われたら誰だって怒りを我慢できなくなるでしょう。
細かい文句を言う行為。
これも明らかに「五月蠅い」対象となるのです。
面倒臭くて嫌になること
人は仕事や作業などを行う際、それに対してやる気が起こらず面倒臭いという気持ちになってしまう時があります。
そのような時に、「五月蠅いなあ」という気持ちになってしまうのです。
つまり「嫌だ」という気持ちのことになります。
「嫌」イコール「五月蠅い」という事なのです。
あるいは「五月蠅い」が「うざい」という思いにもなるでしょう。
「五月蠅い」には、面倒臭くて嫌になるという思いが備わっているのです。
嫌になる程優れている様子
ある機能を持つ機械や装置などが、性能が良すぎてそれがかえってあだとなって「五月蠅い」という思いに変わってしまう場合もあります。
例えば、自動車に装備されることがある速度超過警報機。
一定の速度を超えれば自動的にアラーム音が鳴ってドライバーに知らせてくれる装備です。
この装備が車についていれば、速度違反になる可能性は極めて低くなるでしょう。
ところが性能が良すぎてあらゆる場所でアラームがピーピー鳴りだすものもあります。
こうなってくるとありがたさを通り越して「五月蠅い」存在となってしまうでしょう。
度を超えて優れた性能は、かえって人間にとって「五月蠅い」対象となってしまうということです。
細かいところまで気にする様子
人は自分が行っている仕事や作業などに対して細かすぎるくらいの注意や指示などを出されると、嫌になってしまって思わず「五月蠅い」という心境になってしまいます。
これは恐らく集中力が途切れてしまうから余計なことまでは言わないでいて欲しい、という発想でしょう。
ところがそういった配慮に気付かずに細かいことを言い過ぎたりするケースは世の中にごまんとあります。
細かいところまで気にしだすと、確かに「五月蠅い」という心境になるのが人間の質のようですね。
わざとらしくて嫌味な様子
わざとらしくて嫌味な様子も「五月蠅い」を表す意味となります。
一般的に、私たちは自分自身の行動規範というものを持っています。
朝、起きたらトイレに行って歯を磨いて朝食を摂って、出かける。
このような一定的で同じ事の繰り返し(ルーティンワーク)ながら本人にとったら気持ちが落ち着いて安心できる行動パターンになるのです。
それを他者から妨害されたりわざとらしい行為で自らの行動範囲内に入ってこられると、人は相手のことを五月蠅い存在として認知しはじめます。
つまり自分の中に入ってきてほしくない距離というものがあるのです。
それを邪魔してくる存在は、例え相手がそのつもりがなくても「わざとらしくて嫌な行為」と取るわけです。
「五月蠅い」という概念は、自分が主体に立った判断、ということになるでしょう。