喜怒哀楽を表現するのが得意である
文系人は人と多く話す機会があるので、その分「自分の感情を出すような機会が多い」、つまりは「感情表現が上手い」という事になると思います。
通常、「喜怒哀楽」は表に出すには大変勇気のいる事です。
あまりにおおっぴらに感情をむき出しにしてしまう事で、相手からの非難を受けたり、仲間が自分の周りから離れていってしまうこともあるかも知れません。
しかし「感情を押し殺していればいい」訳でもなく、それは疲れるし、永く続けばストレスが溜まり平静を保てなくなります。
そうなれば「あいつはキレると何するか分らない…」、「あいついつも何考えているか全然わからん…」となれば、物事も結末は同じ事です。
ですから人と話す時は「一定の感情表現は必要」なのです。
しかしその「小出しにして調整する事」が難しいんです。
例えば花壇の花に水をやる時に、あまりに水が少なすぎると時間が掛り、蛇口を開け過ぎると水が出過ぎ、花や花壇をダメにしてしまいます。
ちょうど良い「頃合い」の水量が重要なんです。
この水量つまりは「感情の調整」は一度や二度の訓練ではなかなか上手くできません。
何度も何度も繰り返し「反復練習」が必要になるんです。
そういった意味で言えば文系の方は「人と話す機会が比較的多い事」もあり、その分普段から感情のコントロールを強いられる機会も必然的に多くなるので、理系人よりも「感情表現が上手い」という事になると思います。
コミュニケーション能力が高い
更に言えば、必然的に「コミュニケーション能力」も文系人は高くなります。
人と話す事はこの「コミュニケーションと同意義」です。
人と話す機会が多ければそれだけ「会話の難しさ」にも気付き、日々鍛錬されるように嫌でもなります。
また上記の「感情表現の上手さ」も他人とコミュニケーションを図る際は重要なものになります。
というのも普通に話していて「急にキレるような人」とは普通に考えて「話したくない…」と思うのが当然でしょう。
感情の起伏もなく上手く、冷静に話す事が出来て初めて正常な、良好な「コミュニケーション」が取れるんでしょう。
広く浅い良好な交友関係を築くことができる
そういった事を考えると、コミュニケーションの上級者はそこに付け加えて「広く浅い、社交辞令的関係を保てること」もできるでしょう。
「この人は自分をどう思っているか?」、人と多く話す機会がある人はこのことに上手く気付ける人が多いでしょう。
その人の表情や、話し方、ふと見える仕草等々から推察して、「この人と仲良くやっていけるかどうか?」とか、「この人は自分の事をどう見てくれているか?」なども含めて、「これからの関係性の見極め」もコミュニケーション上級者の文系人なら出来るのです。
また、相手が単なるビジネスの「可もなく不可もない仲」なら、それからの「無駄な交友関係の広がり」も懸念して、「広く浅く、この人とは可もなく不可もなく付き合っておこう」ということもある程度は狙って人間関係を形成する事が出来るのだと思います。
そんな人間関係のコントロールもコミュニケーションの上級者である文系人なら出来るのではないでしょうか?
物事を複雑に考えることができる
文系人最後の思考回路としては、「物ごとを複雑に考える事が出来る」です。
先ほども書きましたが、文系人は思考に「直観性」を重要視するのと同じく、「経験や記憶」を大切にすることを言いました。
これは逆に言えば、文系人は「凄まじい知識と経験」で理論展開できるということです。
さまざまな知識を「丸暗記」し、理論を並べたてられたら言い返す事は困難でしょう。
一つの知識を「樹形図的に」さまざまな知識を取り入れ分解して掘り下げていき、物ごとをより複雑に多角的に見る事ができ、より深い核心に迫る事が出来るのです。
様々な方向から見ることができる
物ごとを多角的に見ることは大変難しいことです。
一つの知識しかない状態で物ごとを見れば、一方方向の乏しい見解になってしまいます。
しかし物の見方を変える「他の知識や経験」があればそれだけ物ごとを複雑に見る事ができ、そこから見出せる内容もより深いものになるのです。
例えると、ここに「一個の玉」があったとします。
それを何か「一つだけの知識や見解」しかなかった場合には、例えば「色」にしか精通してなければ、目の前の玉を色でしか語れません。
しかし、物の見方を変えてその「大きさ」や、「形」、「材質」、「何に用いるものか?」、「製造方法」、「産地」、「価格」、「中身」、「匂い」、「経済的意味」、「宗教的意味」、「歴史」などさまざまな見方があればそれだけその人からすれば「単なる玉」をより複雑に捉え、他人にはできない「より核心をついた言及をすること」ができるのです。