ではつづいて「理系」についてみていきましょう。
理系は科学と書きましたが、実際に「科学できている理系はごく一部の人だと思います」ので、若干当てはまらない人も多くいるでしょう。
理系と言っても名ばかりの方って、私を筆頭に多く要るとも思うので。
理論的思考ができる
文系が経験則に当てはめ「直観性」を重んじるならば、理系は「理論」で攻めます。
物事には「理屈・理論」があって成り立っています。
現代の科学で説明しきれないものはまだまだ多いにしろ、人間が「科学以外」の他の方法で物事を説明したい時には、データもなく経験則もなく、その場の「感情論」とか「根性論」とか「不確かなものになりがち」です。
ですからその点、理論で攻める方式は「実験結果という言い訳できないデータ」を用いて説明していくため、「考えたり、結果を出すまでに時間はかかるが、反論ができにくい」という特徴があります。
理論的思考は客観性があるということが最大の武器でしょう。
物事を要領よく考えることができる
さらに思考回路が「理論的」であると、物ごとを深く理解することで、「物事の捉え方がきちんと交通整理できる」という利点もあります。
ひとつひとつの知識や考えがそれこそ「理にかなっている」からこそ、理系の思考回路は計算ドリルを順番に解くように無駄な部分を省き、「要領よく考えう事ができる」のです。
まぁたまにそのことが「理屈っぽい」と言われることにもなるんですが。
確かに全部が全部「理論、理論」、「客観性は?リソースは?」と言われると、社会的な真面目な話ならまだしも、普段の日常生活にこれを引っ張り出されると、会話はする気が無くなりますよね。
気をつけたいです。
こだわりが強い
つづいて理系人は人一倍強い「こだわり」を持っています。
これはなぜそうなるんでしょうか?
これは自然科学の研究には「膨大な時間が掛ること」が多く、その「自然科学を紐解いていく」には膨大な量の事象の検証という途方もない作業が待っています。
ここでタダのひとつでも何かのやり方、評価を間違えれば、今までやってきた検証が全て水の泡になりかねないからです。
そういったことからも、「膨大な作業量を誇る」、自然を科学するという行為、どこかのCMみたいになってしまいましたが、この途方もない作業を行う上で、「こだわり」言いかえれば「潔癖感」というものは非常に重要な価値観となるのです。
この物事に対する「潔癖感」が欠如していると、世の中で、「線路を猛スピードで走り抜ける新幹線のような精密機器を多く積んだ、しかも人の命が懸かったミスの許されないもの」を考えれば、そこにエンジニアとしての専門家としての、はたまた学者としての「強いこだわり」がなければ安定的な科学は成り立たないのです。
ですから「理系はこだわりが強い」というよりも、本物の理系人になるためには「生半可な覚悟やこだわり持ってしてなれない」ということから、中途半端な人間は「淘汰」されてしまうのではないでしょうか?
「これだ!」と思ったものは曲げない
であるからして、理系は一度「見つけた糸口は絶対に掴んで離さない」という信念があります。
そもそも「科学」とはまだ誰も成しえなかった、長い人類の営みや探求の中で分からなかった、気付かなかった事に関して立ち向かっていく行為なのです。
ですから、何か決まり決まったルールが具体的にある訳でもありません。
そのルールも先人たちの知恵を使ったり、また発想を転換して一から自分で開拓していかなければならないのです。
ここでのストレスは多大な物です。
先ほども言いましたが、「タダでさえ時間のかかる科学」ですから失敗したら人生の多大な時間が無駄に成ります。
自然科学を専門としている研究者の方々は「皆の為に…」と頭の片隅で思いながらも、失敗したら自分の人生の時間は無駄になるというリスクを常に持っているんです。
その失敗が有効活用されるなんて保障はどこにもありません。
そういった物ごとを探求する難しさから、「一度見つけたものは逃さない」ある種の「追尾力・探求力」は理系の人の方が強いのではないかと思います。
ひとつのことに集中することが得意
上でも示しましたが、理系の脳は「探究心」が人一倍強いです。
これは自然科学というものを探求する事がそうだからです。
逆に「好奇心旺盛」、「探究心が強い」、「こだわりを持っている」という条件がそろっていないような人はきっと最後の最後まで「自然を科学する事は出来ない」ことからなるべくしてなっているのだと思います。
ですから「何かが始まり、その事に対し向き合い、考え、何かの答えを導き出す為に一途に集中すること」は理系にはとても重要な事なのです。
失敗しても我慢強く続けることができる
自然科学に失敗はつきものです。