私達は日本人で日本語を普段用いています。

しかし、日本人でありながら、意味が分からない日本語というものは多く存在しています。

日常的に会話をする中で、多く用いられるような言葉であれば、意味を理解して話している事が多いです。

ですが、普段あまり日常生活で用いないような難しい言葉や、複雑な日本語は、なかなか耳にする機会もありません。

そのため、日本人でありながら理解できないような日本語があるのも不思議ではありません。

不思議なことかもしれませんが、現実としてあまり使うことがない言葉は、意味を理解する必要もないので分からないことは当然です。

難しい言葉を勉強する機会もなかなかないので、知らないことは当たり前なのです。

しかし、難しい言葉に関しても、ある程度理解しておかなければいけません。

もし会話中にわからない言葉を使われた時に、気まずい思いや恥ずかしい思いをしてしまうことにもつながります。

言葉の意味は理解しておいて損はありません。

そんな中でも難しい言葉の一つとして、『中庸』という言葉が存在しています。

中庸という言葉の意味を、あなたは知っていますか?

おそらく中庸という言葉の意味を知らない方も多いと思います。

このように難しい日本語はたくさんありますよね。

今回は、中庸という意味について具体的に使い方や、事例をご紹介していきます。

中庸(ちゅうよう)とは?

中庸という言葉を知らない方は、まずは中庸という言葉の意味から理解する必要があります。

中庸という言葉の意味を知る事で、初めてどういう状況で中庸という言葉を使えるようになるのか、ということも理解出来るようになります。

普段なかなか耳にしないような言葉であるからこそ、 あらかじめ勉強して知っておく事で、予備知識として生かせるようになります。

この機会に中庸という言葉の意味を正しく理解しましょう。

中庸の意味は?

そもそも、中庸という言葉は、儒教においての四書の一つであり、その中心的概念の1つとして定められてます。

意味がわからない方も多いと思いますが、儒教というものは、孔子を始祖とする思想や信仰の体系であることを意味しています。

そして、司書とは儒教の経書の中の『大学、中庸、論語、孟子』の4つの書物のことを総称している呼び名のことです。

いきなりこのようなこと言われても、全くもって意味が分からないと思います。

ここからは、1つずつ解説していきます。

偏らず、中正であること

まずは中庸の言葉の意味としては『かたよることがなく、常に変わらないこと』という意味合いを持っています。

『過不足がなく調和がとれていること、またはその様』を意味しているという言葉になります。

偏ることがなく、常に変わらないということの意味としては、「それが何かしらの基盤である」ということを考えることができます。

難しい言葉で言ってみれば、世の中の真理であったり世の中の仕組みという部分で、どんな状況になっても、それが一方に偏ったりすることや変化するようなことがなく、常にそのままの状態であり続けることというような解釈をすることができます。

なかなか日常生活で、この中庸という言葉の意味を用いることはあまりないと思います。

理解できない方が多いのも当然です。

しかしながら、実際に中庸という言葉を現在の仕組みなどと照らし合わせて表現することもできます。

知っておいて損はありません。

過不足がなく、調和がとれていること

中庸の言葉のもう一つの意味としては、過不足がなく調和がとれていること』という意味を持っています。

これは、様々な場面で用いることができる言葉です。

例えば、過不足がなく調和がとれているような精神状態のことを、「中庸な精神」と表現することができます。

中庸な状態にあるという事は、何事も過不足がなく、安定している状況である、ということを意味しています。

今の状況などを簡単に説明するときに用いられる言葉として使うことが出来ます。

難しい言葉ですが、知っておくと便利な使い方が出来ます。

もし、中庸という言葉を用いて話をされても、ある程度理解が出来るようになるはずです。

アリストテレスの倫理学では徳の中心になる概念

中庸という言葉は、アリストテレスの倫理学においては、「徳の中心になる概念である」と表現することができます。

そもそもアリストテレスは、古代ギリシアの哲学者です。

紀元前384年前に生誕している人間であり、大昔の人間です。

私たちも社会の勉強で、アリストテレスについてはその名前を聞いたことがある方も多いと思います。

アリストテレスは、プラトンと言う人物の弟子でした。

そして、正義を最大の哲学者の一人という風にされており、自然研究の業績などから万学の祖とも呼ばれている人間です。

その研究の中でも、動物に関する体系的な研究が来ない世界では、東西に類を見ないほどの成果を上げていると有名になっています。

また通商アレクサンドロス大王の家庭教師を務めていたことでも知られています。

とても有能な人間だったと言うことが理解できるはずです。

アリストテレスはその人生を通して、50歳頃に自信が設立した学園で倫理学を含む総合的な学究に勤めています。

そして、アリストテレスの倫理学は、非常に有名な倫理学として現在を広く世の中に知られています。

そのアリストテレスが論じている倫理学の中で、『理性的に生きるためには中庸を守ることが重要である』と説明をしています。

「中庸にあたるものは恐怖と平然に関しては勇敢が必要であり、快楽と苦痛に関しては節制、財貨に関しては寛厚と豪華が必要であり、怒りに関しては温和、交際に関しては親愛と真実と機知が必要である」と説いています。

そして、それらを徳として表現しています。

なので、中庸という言葉はアリストテレスの倫理学の中でも、徳の中心になる概念であると表現することができます。

中庸という言葉はもともとは儒学からきている!?

中庸という言葉は、もともと儒学という学問から来ているという事は先ほど簡単にご紹介しました。

儒教の中でも四書と呼ばれるもののなかの一つであり、儒学において中庸という事は欠かせない存在です。

具体的にどういう事なのか、ここから簡単にご紹介します。

儒学の中心概念として尊重されてきた言葉

まず儒教というものは、人間の中の徳性を尊ぶことによって、様々な人間関係を円滑に維持するということを目的としている教えです。

ここでも徳という言葉が出てきます。

この徳性を意識する事によって、人間関係をより良い物にして自分の人生を円滑に進めるという事の必要性を教えてくれる学問です。

儒教の中でも人間の徳性に関してはいくつ存在しており、その特性は仁、義、礼、智、信という5つのものを五常という風に表現をしています。

つまり、これらを簡単にいうと、 仁とは人への思いやりであったり愛など、儒教の根本をなしている大切なものです。

次に義とは、損や得などにとらわれずに、人が本来すべきことを意味しています。

つまり、損得などを考えて状に流されやすいような考えをしないという事です。

そして、礼とは仁を行動で表すような事であり、具体的な慣習を意味しています。

智は学問に励む事、信は約束を守る事という意味合いをそれぞれ持っています。

これらを守り、意識する事が大切であるという事を教えてくれるのが儒教です。

その儒学を広めたのが孔子です。

孔子も中庸の徳たるや、それ至れるかな、という発言を行っており、それが文献にも残っています。

これは、中庸の考えが徳に通じる、という意味合いを持っているので、儒学の中心概念としても存在していると考えることが出来ます。

仏教でいう「中道」と同じ概念ではない!?

仏教用語の中には『中道』という言葉が存在しています。

中道の意味合いとしては。『2つのものの対立を離れていること』という意味合いを持っています。

中道の中いう言葉は、2つ存在してるものの習慣という意味合いではなくて、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味しています。

中道の道は、実践家方向を指し示す言葉になっています。

中道の後は、仏教において広く重んじられていることであり、その意味には様々な解釈が存在します。

ですが、各宗教がその通りの核心を中道の言葉で表す点としては、一致していると考えられます。

とても難しい言葉なので、なかなか理解することも大変かと思います。

中道とは、簡単に言うと『両極端の考え方や態度を避ける』という事です。

例えば、両極端なものの例としては、「苦しい」と「楽しい」です。

苦しいの極端を考えると、自分を苦しめるばかりの苦行の道と考えることができます。

楽しいの極端を考えると、欲望のままに物事に執着をしたり、それを貪る様な生活を考えることができます。

だとすると、中道は「普段自分が生活を行うのであれば、自分を苦しめるばかりの苦しい道や、楽しいことばかりを行うような道をどちらも避けるべきである」という考え方になります。

『極端な道を歩むな』という言葉の意味として解釈できますね。

ここでもう一度中庸という言葉の意味を考えていただきたいと思います。

中庸の言葉の意味は、『かたよることがなく常に変わらないこと、過不足がなく調和がとれていること、またはその様』という意味合いになります。

仏教の中道と、儒教の中庸はとても似ていると考えることが出来ますが、厳密には違います。

解釈が難しいかと思いますが、中道は『視点を変える』というような意味合いを含んでいます。

例えば、犬が好きな人がいて、猫が好きな人がいます。

極端な存在だからこそ、どっちが可愛いがでもめてしまいます。

しかし、視点を変えると、どちらも同じ生き物です。

視点を変えて、より高い視点から物事を判断しなさい、という時に、中道という言葉の意味が活かされます。

中庸は、同じく生きているものを愛するなら、どちらも動物なので愛しなさい、という解釈になります。

中庸の視点は、物事に対しては同じ世界で同じ抽象度で物事を解決しようとするので、厳密には言葉の解釈が違うという事です。

中庸であることは難しい!?

ここまで中庸という言葉について簡単にご紹介してきました。

ある程度中庸という言葉がどういうものなのかを理解してきたと思います。

なんとなく言葉の意味としては、偏ることがなく、常に変わらないことというようなもの、というのは簡単にイメージすることができるかもしれません。

でも、実際に中庸であり続けるということを考えた時に、それがとても難しいことであると言うことが理解いただけると思います。

なぜならば世の中は変わり続けています。

何も全く変わらずに、ずっとそのままあり続けることは、とても難しいことであり、なかなか存在しないものなのです。

実際にあなた自身の内面や外見で考えてみると、これまで何十年と生きてきた中で、何も変わらずにあり続けているものはありますか?

恐らくなかなか見つからないはずです。

考え方もしかり、見た目もしかり、多少なり様々な影響を受けて、変化を続けているからです。

なので、中庸であり続けるという事はとても大切な事であり、とても難しい事です。

「過不足なく偏りのない」徳を修得するものは少なく高度な概念

過不足なく偏りがないものを習得するという事は、言葉にするととても簡単です。

しかし、実際はとても難しい事であり、概念とし考えても、かなり高度なスキルが必要な事です。

人間はその時々で考え方や行動などは様々な影響を受けるはずです。

身の回りにいる人の発言や、行動などからも、少なからず影響を受けることがあります。

毎日生活している中で、様々な情報や発見に満ち溢れています。

その情報や新しい発見によっては、自分のこれまでの概念が覆ってしまうこともあります。

新しい閃きも生まれたり、それがきっかけで新しい行動をとる様になったり…。

そうやって、偏った考え方を持つようになるということも十分に考えられるからです。

簡単に言えばたくさんの影響を受けるからこそ、考え方は変わるのです。

その自分の考え方をずっと変わらずに保ち続けるということは難しいと言うことです。

あなたも変な話、毎日続けている生活の中で、きびきび朝から晩まで頑張って動いた日もありますよね。

逆に、一日中だらけて、何の生産性もない時間を過ごしたようなこともあると思います。

先ほど例に出した『苦しい道』と『楽しい道』という事を照らし合わせると、これらも考えによっては両極端な一日となるはずです。

中庸な考え方でいえば、 頑張りすぎる事も良くないです。

そして、休みの日だからといってダラダラと何もしないことも良くないと考えることができます。

つまりは適度に、毎日規則正しい生活をします。

そして、なおかつ頑張りすぎて無理をしない生活を続けていくことが、中庸な考え方と捉えることができます。

そう考えた時に、誰しもが休みの日はゆっくりお昼まで寝たいと考えます。

全てを中庸にするという事は、なかなか難しい考えであると言うことが理解いただけると思います。

その時々で、物事を偏りなく、判断しなければならない

中庸な考え方を身に付けたいと考えた時には、その時々で今自分が置かれている状況を偏りがなく、冷静に判断しなければいけないということが考えられます。

先ほどお伝えしたように、生きていると様々な出来事があったり、たくさんの影響を受けたりします。

その時々で、物事を冷静な判断で見るということは、なかなか難しいことですよね。

例えば、相手の行動でイライラさせられて、冷静な精神状態でいられない時に、仕事などで冷静な判断を下さなければいけないという状況があったとします。

やはり、イライラしてしまうと冷静な判断は下せないですよね。

それに、偏った考え方で物事を判断してしまいがちになってしまいます。

常に自分自身が置かれている状況を冷静に振り返って、あらゆる物事を偏りがなく判断しなければ中庸な考え方は出来ません。

中庸な考え方や判断を行うには、ある程度訓練された考え方や、精神がなければ簡単には行えないのです。

それが人生でとても大事な事である、ということをアリストテレスや孔子は証言しているのです。

かなり大昔でも、このように核心をついた人生において大事な事を理解しているという事は、とてもすごいことです。

言ってみれば、この考えが大昔から現在にいたるまで信じられて、大事なされているということです。

もしかしたらそのこと自体が、中庸であるという事を意味しているのかもしれません。

今でも変わらずにぶれずに、大事な事としてあり続けているのはまさしく、中庸自体がそうであると判断せざるを得ないからです。

中庸の使い方や事例を紹介します

中庸という言葉について理解いただいたところで、具体的に中庸の使い方や事例についてご紹介をしていきます。

例文を交えて使い方などを理解する事で、実際の日常の会話などでも使用いただけます。

中庸という言葉が出た時に、文章の内容を把握できるようになります。

より中庸という言葉について掘り下げて理解することが出来ます。

最初は難しいかもしれませんが、だんだん慣れていくと簡単に用いることが出来ます。

この機会に中庸という言葉の正しい使い方まで理解してください。

中庸な精神の発揮は健康にいい

まずご紹介する中庸の言葉の使い方は『中庸な精神の発揮は健康にいい』という例文です。

まず、中庸な精神という言葉は、『常に変わらない精神を持つ』という意味合いになります。

日常生活を送っていくなかで、たくさんの出来事や人との関わりが生じます。

その影響によって、自分の考え方や精神は少なからず影響を及ぼされることが考えられます。

例えば、今まで自分が信じていた事を、それが正しくないということを誰かの発言によって考えさせられたとします。

自分が今まで信じていたことが間違いであったという事実に気付いた時に、少なからず人間は動揺します。

そして、それが本当に信じて良いことなのかを考えるようになります。

安定している精神が乱されることにつながります。

常に変わらない精神を持ち続けると言うことは、簡単のようでとても難しいことです。

ある程度予想していれば、耐性ができているので、実際にそのような状況に陥った時に予想していたことであればまだ受け止めようがあります。

ですが、全く予想していなかったようなことを不意に発言されたとすると動揺が隠せません。

だからこそ、中庸な精神を持っているという事は、自分の精神的な健康にもつながります。

身体的な健康にもつながるのです。

精神が安定していないと、精神面でも身体的な面でも影をが及ぼすのは、現世における病気などでも証明されています。

難しい言葉ですが、中庸な精神という言葉は、比較的言い表しやすい言葉です。

この機会に会得して使用する機会があれば用いてください。

中庸なる批判はできなかった

次にご紹介する中庸の言葉を使った例文は、『中庸なる批判はできなかった』という例文です。

この例文の意味合いとしては、かたよらない批判はできない、という事を意味しています。

つまり、具体的には 相手の意見に対して偏った批判を行ってしまったという事です。

批判自体が相手の意見に対して意義を唱える行為であり、相手が正しいと思っている事を違うという意見を言う事です。

その批判を偏った批判で行ってしまうという事は、相手の意見に対して真っ向から批判を行うという事です。

例えば、相手の意見のある一部分を批判することや、相手の意見を正しいと踏まえた上で、矛盾点をつくような批判は、相手の意見を取り入れた上での批判になります。

これは、中庸な批判が出来ていると考えられます。

ですが、相手の意見を真っ向からすべて批判して、間違いだと決めつけてしまう事は中庸な批判ではありません。

難しい言葉かもしれませんが、中庸という言葉の正しい意味合いを理解しておけば、正しく言葉として使用する事ができるはずです。

しかしながら、なかなか批判の言葉を相手に伝える状況で、相手の言っていることを理解しながら意見を言うのは難しい事です。

しかし、相手の意見を認めつつ意義を唱える事で、よりよい意見が生まれる事も事実です。

議論という形で考えると、よりよい議論を行える方法のひとつだと考えられます。

このような中庸という言葉の使い方が出来ることを覚えておいてください。

中庸を求めなければいけない

次にご紹介する中庸という言葉を用いた例文は、『中庸を求めなければいけない』という例文です。

この例文は、中庸であるという事を求めるという意味合いになります。

具体的には、中立の立場を求める必要がある、と解釈することが出来ます。

例えば、何かについて議論などのディベートを行ったりする場合。

必ずその議題に対して正しいと言う意見を唱える人もいれば、間違っていると意見を唱える人もいます。

その中で、相手の意見を踏まえて議論を行うこと大切ですよね。

そして、議論を進めていく中で様々な意見が出てきて、新しい意見が生まれます。

そして、それぞれの意見がより洗練されたものへと生まれ変わっていく過程を生み出すことが出来る良い方法です。

しかしながら、相手の意見を受け入れずに、真っ向からただ単純に否定するだけの議論であれば、成長するという意味では全く意味をなさない議論になってしまいます。

また議論を進めていく上で、司会進行を行っていく人間は、必ず中立の立場に立っていなければいけないということも大切なことです。

議論を進めていく上で、司会の人が片方に寄り添ってしまうと、寄り添ってしまった人の意見が有利になってしまうからです。

公正公平な議論を行っていくのであれば、司会進行の方は中立な立場、つまり中庸を求めなければいけないという事になります。

このようにして中庸という言葉を使うことが出来ます。

スポーツの試合なのでもそうであるように、審判などは中庸を求めなければいけません。

仕事の面でもスポーツの面でも、日常生活などで中庸という言葉は、比較的用いることが可能な言葉だという事を理解してください。

中庸を得る

次にご紹介する中庸という言葉を用いた例文は、『中庸を得る』という例文です。

中庸を得るという言葉は意味合いとしては、物事の中和を取るという事です。

これがどういうことかと言いますと、中庸という言葉の意味の中には、『過不足がなく調和がとれているということ』という意味合いがあります。

これを意味していると解釈してください。

例えば、先ほどの議論やディベートの件で見てみると、対立する二つの意見がある中で、その二つの意見の真ん中の意見というものが存在するはずです。

真ん中の意見というものは、例えば片方の意見を一部分取り入れて、もう片方の意見をさらに一部分取り入れる。

2人のを取り入れることで、両方の意見をまとめた新しい意見を生み出すと言うことです。

それは『互いに極端に存在しあっている2つの物事の真ん中の部分を取る』ということを意味しています。

つまり、その意見は中庸を得るという事で表すことが出来ます。

別の言い方で中庸を得た意見というような表現の仕方なども可能になります。

日常生活においても、 例えば、あなたが付き合っている異性の相手と喧嘩をするようなことも多いと思います。

相手と喧嘩をするのは、自分が正しいと思ってることを否定されたり、自分が間違っていると思っていることを、相手は正しいと思っていることがあります。

自分と相手の意見が対立する場合がほとんどですよね。

その時には解決策として、中庸を得ることが大事だと考えられます。

このようにして、中庸という言葉を使う事もできます。

物事の解決にも繋がる考え方のひとつとしても存在しています。

中庸の徳が説かれる

次にご紹介する中庸の言葉を取り入れた例文は、『中庸の徳が説かれる』という例文です。

中庸の徳が解かれると言う言葉は、一見すると全く何を言っているか意味がわからないかもしれません。

冒頭の部分でご説明した通り、中庸という言葉は、アリストテレスの倫理学のなかの徳の部分にあたるということをご紹介したと思います。

また、孔子の儒教の中の大切な考え方でもあるという事をお伝えしました。

それを踏まえれば、中庸の徳が説かれるという言葉は、倫理学の主要な概念の一つであるという言葉の意味として考えることができます。

倫理学はアリストテレスが導き出したひとつの答えです。

その概念の中でも、比較的大部分の大事な意味合いとしてとらえられています。

そのままの意味として用いることが出来ます。

しかし、なかなか日常生活なのでアリストテレスの倫理学の話や、孔子の儒教の話などは出てこないと思います。

用いる機会としては少ない例文になると思います。

ですが、中庸と言う言葉の意味を正しく理解している方であれば、そこまで難しくはありません。

この意味を知っておくと、アリストテレスの話が出た時に、十分に理解をすることができます。

損になることはないと思います。

中庸を維持する

次にご紹介する中庸の言葉を取り入れた例文は、『中庸を維持する』という例文です。

中庸を維持する、という言葉はそのままの意味ですね。

『過不足のない調和の取れた状態を維持する』という意味合いです。

または『常に変わらない事を維持する』という意味合いとしてとらえることが出来ます。

どういう風に解釈するかで若干意味合いが変わる言葉です。

しかしながら、そこまで大きく意味が変わる事はありません。

例えば、先ほどご紹介したように、何らかの影響によって、自分が考えていることは信じていることに揺さぶりをかけられるようなこともあると思います。

もしくは、スポーツなどの場面で、相手が自分よりも優れたパフォーマンスをします。

そして、それに動揺して、自分に自信をなくしてしまう精神状態へ移行する場合もあります。

しかしながら、そんな時に相手の影響を受けないために、中庸を維持するという言葉を用いることができます。

例えば、中庸な精神を維持する、という言葉であれば、周りの影響を受けない精神を維持する、という意味合いでも通じます。

過不足のない調和のとれた精神状態を維持する、という意味としても解釈できます。

いずれにしても、自分がやってきた事を信じて、周りの影響を受けずに自分を信じて貫くという言葉としても捉えることが出来ます。

難しい言葉ですが、正しく意味を理解して用いるとかっこよい言葉として使用できます。

中庸主義者である

次にご紹介する中庸の言葉を取り入れた例文は、『中庸主義者である』という例文です。

中庸主義者であるという例文は、正しい中間の立場を好むという意味合いとして捉えることができます。

まず中庸主義という言葉は、中間の立場であるということです。

主義者という言葉は、その思想を持っている、好んでいる人だと証明する言葉なので、中庸主義者はこのように解釈できます。

似ている言葉の一つとしては、「平和主義者」という言葉が若干ですが、似ている言葉になるかもしれません。

正しく中間の立場を好むということは、2つの対立する意見の間の意見の中間の意見を採用する、導き出す、という事にも繋がります。

両者の間を常に取るという事になります。

対立する意見の仲裁役だともいえます。

争うよりも、両者の良い部分を取り入れようという考え方ですね。

争いを防いで同じ目的に向かって、より良い意見を導き出すことが出来る優れた考え方のひとつです。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

今回は、中庸という言葉の意味や、中庸がどのような考え方で、どういう風に大切にされてきたのか。

そして、中庸という言葉の使い方などをご紹介しました。

普段なかなか使わないような言葉なので、日本語の中でもよく意味がわからないとされている言葉ではあります。

しかし、とても深い意味を持っている言葉だと理解いただけたと思います。

中庸という言葉が示す状況は、日常生活においても当てはめられることがたくさんあり、比喩できる言葉でもあります。

難しい言葉であるからこそ、そのような表現で物事を言い表すことがでいれば、博識で実力がある印象を与える事も出来ます。

知識として備え付けておけば、いざという時に正しい解釈ができるようにもなります。

使わない可能性もありますが、身に着けておいて損はありません。

知識なんていうものはそんなものです。

身に着けておいて損になる知識はひとつもありません。

この機会に正しく中庸という言葉を理解し、正しく使用する方法を身に着けてみてください。