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中庸とはどういう意味?使い方や例文...(続き2)

智は学問に励む事、信は約束を守る事という意味合いをそれぞれ持っています。

これらを守り、意識する事が大切であるという事を教えてくれるのが儒教です。

その儒学を広めたのが孔子です。

孔子も中庸の徳たるや、それ至れるかな、という発言を行っており、それが文献にも残っています。

これは、中庸の考えが徳に通じる、という意味合いを持っているので、儒学の中心概念としても存在していると考えることが出来ます。

仏教でいう「中道」と同じ概念ではない?

仏教用語の中には「中道」という言葉が存在しています。

中道とは、簡単に言うと「両極端の考え方や態度を避ける」という事です。

例えば、両極端なものの例としては、「苦しい」と「楽しい」です。

苦しいの極端を考えると、自分を苦しめるばかりの苦行の道と考えることができます。

楽しいの極端を考えると、欲望のままに物事に執着をしたり、それを貪るような生活と考えることができます。

だとすると、中道は「普段自分が生活を行うのであれば、自分を苦しめるばかりの苦しい道や、楽しいことばかりを行うような道をどちらも避けるべきである」という考え方になるのです。

『極端な道を歩むな』という言葉の意味として解釈できますね。

ここでもう一度中庸という言葉の意味を考えていただきたいと思います。

中庸の言葉の意味は、「かたよることがなく常に変わらないこと、過不足がなく調和がとれていること、またはその様」です。

仏教の中道と、儒教の中庸はとても似ていますが、厳密には違います。

中道は『視点を変える』というような意味合いを含んでいます。

例えば、犬が好きな人がいて、猫が好きな人がいます。

極端な存在だからこそ、どっちが可愛いかで揉めてしまいます。

しかし、視点を変えると、どちらも同じ生き物です。

視点を変えて、より高い視点から物事を判断しなさい、という時に、中道という言葉の意味が活かされます。

中庸は、同じく生きているものを愛するなら、どちらも動物なので愛しなさい、という解釈になります。

中庸の視点は、物事に対しては同じ世界で同じ抽象度で物事を解決しようとするので、厳密には言葉の解釈が違うという事です。

中庸であることは難しい?

実際に中庸であり続けるということを考えた時に、それがとても難しいことであると言うことが理解いただけると思います。

なぜならば世の中は変わり続けています。

何も全く変わらずに、ずっとそのままあり続けることは、とても難しいことであり、なかなか存在しないものなのです。

実際にあなた自身の内面や外見で考えてみると、これまで何十年と生きてきた中で、何も変わらずにあり続けているものはありますか?

恐らくなかなか見つからないはずです。

考え方もしかり、見た目もしかり、多少なり様々な影響を受けて、変化を続けているからです。

なので、中庸であり続けるという事はとても大切な事であり、とても難しい事です。

「過不足なく偏りのない」徳を修得するものは少なく高度な概念

過不足なく偏りがないものを習得するという事は、言葉にするととても簡単です。

しかし、実際はとても難しい事であり、概念とし考えても、かなり高度なスキルが必要な事です。

人間はその時々で考え方や行動などは様々な影響を受けるはずです。

身の回りにいる人の発言や、行動などからも、少なからず影響を受けることがあります。

毎日生活している中で、様々な情報や発見に満ち溢れています。

その情報や新しい発見によっては、自分のこれまでの概念が覆ってしまうこともあります。

新しい閃きも生まれたり、それがきっかけで新しい行動をとる様になったり…。