これは安定している精神が乱されることにつながります。
常に変わらない精神を持ち続けると言うことは、簡単のようでとても難しいことです。
ある程度予想していれば、耐性ができているので、実際にそのような状況に陥った時に予想していたことであればまだ受け止めようがあります。
ですが、全く予想していなかったようなことを不意に発言されたとすると動揺が隠せません。
だからこそ、中庸な精神を持っているという事は、自分の精神的な健康にもつながります。
そして身体的な健康にもつながるのです。
中庸なる批判はできなかった
この例文は「かたよらない批判はできない」という事を意味しています。
つまり、相手の意見に対して偏った批判を行ってしまったという事です。
批判自体が相手の意見に対して意義を唱える行為であり、相手が正しいと思っている事を違うという意見を言う事です。
その批判を偏った批判で行ってしまうという事は、相手の意見に対して真っ向から批判を行うという事です。
例えば、相手の意見のある一部分を批判することや、相手の意見を正しいと踏まえた上で、矛盾点をつくような批判は、相手の意見を取り入れた上での批判になります。
これは、中庸な批判が出来ていると考えられます。
ですが、相手の意見を真っ向からすべて批判して、間違いだと決めつけてしまう事は中庸な批判ではありません。
しかしながら、批判の言葉を相手に伝える状況で、相手の言っていることを理解しながら意見を言うのは難しい事です。
しかし、相手の意見を認めつつ意義を唱える事で、よりよい意見が生まれる事も事実です。
議論という形で考えると、より良い議論を行える方法のひとつだと考えられます。
このような中庸という言葉の使い方が出来ることを覚えておきましょう。
中庸を求めなければいけない
この例文は、「中立の立場を求める必要がある」と解釈することが出来ます。
例えば、何かについて議論などのディベートを行ったりする場合。
必ずその議題に対して正しいと言う意見を唱える人もいれば、間違っていると意見を唱える人もいます。
その中で、相手の意見を踏まえて議論を行うことは大切ですよね。
そして、議論を進めていく中で様々な意見が出てきて、新しい意見が生まれます。
それぞれの意見がより洗練されたものへと生まれ変わっていく過程を生み出すことが出来る良い方法です。
しかしながら、相手の意見を受け入れずに、真っ向からただ単純に否定するだけの議論であれば、成長するという意味では全く意味をなさない議論になってしまいます。
また議論を進めていく上で、司会進行を行っていく人間は、必ず中立の立場に立っていなければいけないということも大切なことです。
議論を進めていく上で、司会の人が片方に寄り添ってしまうと、寄り添ってしまった人の意見が有利になってしまうからです。
公正公平な議論を行っていくのであれば、司会進行の方は中立な立場、つまり中庸を求めなければいけないという事になります。
このようにして中庸という言葉を使うことが出来ます。
スポーツの試合なのでもそうであるように、審判などは中庸を求めなければいけません。
仕事の面でもスポーツの面でも、日常生活などで中庸という言葉は、比較的用いることが可能な言葉だという事です。
中庸を得る
中庸を得るとは、「物事の中和を取る」という事です。
中庸という言葉の意味の中には、「過不足がなく調和がとれているということ」という意味合いがあります。
これを意味していると解釈してください。
例えば、先ほどの議論やディベートの件で見てみると、対立する二つの意見がある中で、その二つの意見の真ん中の意見というものが存在するはずです。
真ん中の意見というものは、例えば片方の意見を一部分取り入れて、もう片方の意見をさらに一部分取り入れる。
2人のを取り入れることで、両方の意見をまとめた新しい意見を生み出すと言うことです。
それは『互いに極端に存在しあっている2つの物事の真ん中の部分を取る』ということを意味しています。