あいにく吹雪に襲われてしまい、仕方なく番小屋で一夜を過ごすことになりました。
夜中にあまりの寒さに目覚めた若いきこりは、美しく若い女(雪女)が年老いた男の上にかがみ込み冷たい息を吹きかけているとことを見てしまったのです。
雪女は今夜見たことは誰にも話さないように、もし話せば命はないといい残出て行きました。
年老いた男はすでに死んでいました。
凍死です。
男はいわれたとおり、その夜のことは誰にも話さず過ごしました。
そして翌年、お雪という美しい女性と出会い結婚をすることになりました。
2人の間には10人もの子どもが授かり幸せに暮らしていたのですが、ある日のこと、針仕事に精を出すお雪の横顔を見ているときにふと昨年の夜のことが脳裏に蘇ってきたのです。
「あんなに美しい女を見たことがないが、あれは雪女だったのだ」と、お雪に話してしまったのです。
するとお雪の形相が鬼のように変わり、「子どもたちのためにお前の命は奪わないが、もし子どもたちが不自由な思いをするようなことがあれば許さないといい残し白い霧となってしまったのです。
「まんが日本昔ばなし」に出て来る雪女のおはなしは、これに似ています。
老人と青年が住む家を訪ねてきた雪女は、最初老人を殺してしまうのですが、青年と結婚をします。
老人が死んだときのことは誰にも言わぬようにと口止めをしたのですが、青年はこともあろうに雪女自身にこの話をしてしまい、姿を消してしまいました。
「誰にも」の中には雪女も存在していたのですね。
「まんが日本昔ばなし」に登場する雪女の逸話と関東地方に伝わる雪女の逸話とが似ているのはおはなしを編集するのが現在は東京で行われるということに関係しているのかもしれませんね。
全国各地でさまざまに伝わる物語ですから中心をとらざるを得なかったというところでしょうか。
茨城県の雪女は子どもを騙すともいわれています。
「子どもを騙す」ことの象徴はどういったものがあるのか考えてみました。
大人になっても消えることのない純粋で無邪気な心にフタをしたり騙すことの現れでしょうか?
近年になって、逸話の方向性も多義にわたってくるようになりました。
雪女の白くて美しい容姿は崩すことなく、その容姿を生かし、妖怪と人間の青年との恋愛話と相いれない存在間の相互理解の象徴として描かれることが多いようです。
言葉として表現できない人の心の中を物語や逸話は示してくれています。
雪女が見えない怪物に扮して出てくるという逸話
雪女が目に見えない怪物に扮して出てくる逸話があります。
目に見えない逸話とはなんでしょうか?
人間が持っているダークサイドな面を表現しているのではないでしょうか?
いわゆる擬人法です。
人間のダークサイドは、冷酷、恨み、意地悪、性悪、怒り、恐怖、悲しみなど言いだすときりがありません。
日本には鶴の恩返しや浦島太郎、羽衣伝説など、異種婚説話が多く見受けられます
異種婚に象徴されるのは、人種や性別のほか、相容れない思想や考え、そういったものを持っている者同士の結びつきや理解し合う大変さのようです。
鶴の恩返しは鶴と人間、浦島太郎は乙姫と人間、羽衣伝説は人間と天女の結婚が描かれていますがいずれもハッピーエンドではなく悲しい結末を迎えていますね。
海外の物語の白雪姫やシンデレラ姫など最後はめでたしめでたしで終わっているのとは大違いです。
各地に伝わる雪女の逸話にも、寂しい男の元を訪れた雪女と結ばれる話や子どもを授かる話などが多く見受けられます。
雪女はいやいや風呂に入れられ解けて姿を消すなど最後にはいなくなるのです。
日本の逸話と欧米の物語の結末には大きな差があるというところにとても興味があります。
今では日本でも欧米化が進んでいますよね。
一昔前までは欧米化が進んだ、食が欧米化して、などというフレーズをよく聞いたものですが、近頃ではそんなフレーズはあまり聞かなくなりました。
もはや欧米化ではなく、これがあたりまえだと思って私たちは生きているのです。
でも物語を見ると私たちのルーツは、これなんだなと思わされます。
ルーツなんて関係ない、変わったのだからという声も聞こえてきそうですが、たかだか100年ちょっとですよ、変わってから。