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美人薄命は本当にあった。キレイなの...(続き6)

「美人」と呼ばれている人々の基準は、時代や国によっても大きく変わってきます。

その為、歴史上の中で絶世の美女と呼ばれているような方が本当に美人なのかどうかは誰にも確かめる事が出来ません。

確かめる事は出来ませんが、想像する事は出来ます。

それぞれ、思い思いのイメージを作り上げて絶世の美女を再現してみてはいかがでしょうか。

あなたの思う美人と、過去の人とは似ても似つかない事もあるでしょう。

しかし、そんなところもまた歴史の楽しみ方の一つです。

樋口一葉

樋口一葉は5000円札のモデルとして知られています。

1872年に生まれました。

彼女の家は、元々は農家の家系でしたが、父の努力により士族の身分を与えられていました。

金銭的に余裕もあった事から、小学校などの学校に通っており、高い学力を誇って居ました。

その後、母のせいで学校に通う事が出来なくなってしまいますがそれを嘆く娘の姿を不憫に思った父が一葉に和歌の通信教育が出来る場所を提供しました。

歌塾「萩の舎はぎのや」は、家族夫人などの上流階級の人が通っていた事でも知られており、多くの人と出会い文学を学んでいくのでした。

しかし、父が事業に失敗。

多額の借金を残したまま死んでしまうと、その生活は一気に困窮しました。

お金目当てで行われていた婚約も破棄となり、傷心の一葉はそれでも家族の為に働きます。

その後、小説を書けばお金になると思った彼女は、半井桃水という新聞記者を紹介して貰い、小説の才能を磨いていきました。

半井桃水に憧れを抱いていた彼女ですが当時二人の関係が噂されてしまい、絶好をしたとも言われています。

彼女が残した作品はわずか14か月の間に残されたものです。

貧しい為、生活を優先するあまり書きたいものがなかなか書けない悲しみと葛藤しながら、わずか25歳という若さでこの世を去りました。

彼女が美人という記録は特に残されておりませんが、写真の姿が現在の「美人」に当てはまる為、そういわれているのかもしれません。

楊貴妃

楊貴妃は、世界3大美女として知られる人物の一人です。

絶世の美女でありながら自由奔放だったとされている彼女ですが実際はどうだったのでしょうか。

彼女は、四川省の下級官吏の四女として生まれます。

両親が早くに亡くなった事もあり、叔父の家で育てられていました。

その後、その美しさもあり、宮女として後宮に入る事になります。

この時、3000人ものライバルの中から勝ち抜き、17才になると当時一番力のあった玄宗皇帝息子の李瑁の妃として迎えられました。

しかし、父である玄宗皇帝は息子の嫁である楊貴妃をとても気に入ってしまい結局自分の妻としてしまうのです。

そこからは、どこに行くにも一緒。

様々な美女に出会う力があるにも関わらず、楊貴妃にのめりこんでいくのです。

彼女の為に、装飾品を作る人を数百人用意したり様々な贅沢品をつぎこみました。

しかし、これは楊貴妃が望んだ事ではなく、玄宗皇帝の暴走だったようです。

娘程も年が離れた彼女に夢中になってしまったのですね。

玄宗皇帝の暴走は止まらず、楊貴妃の家族を次々に重要な役職に就けたりもしました。

これにより、政治は混乱を起こし内乱のきっかけになってしまいました。

国を逃げ出した玄宗皇帝ですが、結局見方からも内乱の原因となった楊貴妃を処分する様にと言われてしまい、そのまま実行に移ります。

その後楊貴妃は自殺したとも他殺だったとも言われており、真相は分かりません。

玄宗皇帝が勝手に暴走しただけに過ぎないのに、全ての罪をかぶされた楊貴妃は可愛そうと言えなくもないでしょう。

クレオパトラ