しかし、その結婚生活はすぐに別居となりフランスにもどってきます。
浪費や散財を重ねていく彼女のもtからは、次第に多くの人が去っていきました。
加えて、肺結核に侵されてアヘンなどの薬物にも手を出したことで1847年2月3日に僅か23歳という若さでこの世を去ったと言われています。
最後の時は、夫やかつての恋人が傍に居てくれたとの記述も残されておりその儚い人生からより「椿姫」としてのイメージが強く印象付けられています。
ベアトリーチェ・チェンチ
ベアトリーチェ・チェンチは、1577年2月6日に生まれました。
この一家は、名門貴族家としても知られておりその中の一家の一員として育てられていきました。
一家は、彼女の他に兄と二番目の母・その母の子として幼い弟がおりました。
チェンチ家の当主である、彼女の父親は非道極まりない人でした。
当時、貴族は刑に処される事は殆どなかったので捕まってもすぐに無罪となって居ましたが、処刑されてもおかしくない程の人だったようです。
彼は、妻や息子たちに暴力を加えており彼女に対しては強姦も行っていたようです。
彼女がそれを拒否すると全身が血だらけになるまで鞭で叩かれたという記録も残されています。
彼が、他の罪で捕まった際、警察当局に被害を訴えるも相手にしてはもらえませんでした。
そので、家族はもう当主を殺すしかないと犯行に至るのです。
使用人2人の協力も得て、殺害は成功しますがその計画はすぐにばれてしまいます。
そして死刑が確定するのです。
犯行の動機を知った市民が、厳罰を求めましたが刑は執行されてしまいました。
これは、当時のローマ教皇クレメンス8世が家族の財産を狙い、相続人を亡き者にする為に刑を執行したとも言われています。
無念を残して亡くなった彼女の亡霊が、自分の首を持って城に続く橋に戻ってくると言う逸話も残されています。
美人薄命な人は生き方も美しい
「美人薄命」と聞くと、どうしても顔が美しい人を想像してしまいます。
しかし、美人とは外見だけでは無く内面からにじみ出るものです。
その為、理性的で人に優しく・品格を持って生きている人は「美人」と表現する事が出来るでしょう。
早くに亡くなってしまった方々は、人気絶頂の時代に姿を消してしまった場合が殆どです。
その為、その後の老いて行く姿や人気が無くなり陰ってしまう姿を知りません。
その為、いつまでも若く美しい姿で人々の記憶に残り続ける事が出来ます。
だからこそ、その功績や美貌は更に人気を得て長きにわたって伝えられていくのでしょう。
美しい姿で人々の記憶に残り続ける事は、女性としては羨ましい部分があるかもしれません。
しかし、「美人薄命」と言われる方々は、きっとやり残した事があり決してこの結果を望んだわけではありません。
今を生きる私たちは、彼女たちのその美貌だけではなく全力で生き、儚く散ってしまったその姿から日々の努力を学んでいかねばなりません。
多くの人が自分の人生を全うできるように、毎日健康的な生活を目指し過ごしていきましょう。