日本には、古くから伝えられている四文字熟語があります。
これは中国から伝えられたものが多く物事を短い言葉で表したり比喩表現のように使用します。
そんな中でも、多くの方が知っている言葉の中で「美人薄命」と言われているものがあります。
これは、その言葉のままに美人の人は早く死ぬと言う意味があります。
昔は、今の時代に比べて短命でした。
その中で、病弱な方は色が白く痩せて見えたとも言われています。
美人と言われる事は嬉しい事ですが、それが短命と繋げられてしまうと褒められているんだか何だか分からなくなってしまいますね。
美人ではありたいものの、何事も健康第一です。
多少太っていたとしても元気な方が魅力的な人になる事が出来るでしょう。
現在は昔とは全く状況が違うので、病弱な人が美人と関連づけて考えられる事も少ないでしょう。
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美人薄命の語源は?
「美人薄命」の語源は諸説あります。
一番有力な物は、中国北宋の詩人であった蘇軾という人が、「薄命佳人」という歌を詠んだ事だと言われています。
これが最初と言われており、その後、多くの詩文に「佳人薄命」という言葉で「美人薄命」と同じ言葉が利用されていました。
現代の中国では「紅顔薄命」という良い方も残されています。
これは、赤い顔という意味ではなく、「美しい顔・整った顔」などという意味が含まれた言葉です。
現代での世界で生きる美人の方々は、昔の様に短命ではない場合が殆どです。
周囲からの注目もあり、自己管理をしっかり行っているため、むしろ健康的であり長生きの場合もあります。
現代では美人薄命の意味を「美人としてほめそやされる期間は短い」などと揶揄して使用されている場合もあります。
確かに、若い頃の輝きは、時と共に無くなってしまう事でしょう。
しかし、それを「薄明」と表現されてしまうのはいかがなものかとも思います。
それだけ、男性の方々の美人に対する希望が強いという結果としてもとらえる事が出来るでしょう。
因みに、「美人薄命」という言葉の語源として月下美人という花が関連しているという話もあります。
夜間に花を咲かせるその植物は、朝には花がしぼんでしまう為、花の命は短い=美人薄明と関連付けられた結果のようです。
しかし、原産国がメキシコである月下美人が日本に入ってきたのは江戸の頃です。
その為、より古い歴史をもつ中国の説と比べると、説得力は弱いでしょう。
元々は「佳人薄命」だった
今では、「美人薄命」という言葉が当たり前の様に使用されています。
しかし、実はこの言葉は後から出来た言葉であり先に使用されていた言葉は少し違う言葉なのです。
先に使用されていた言葉は、「佳人薄命」という言葉です。
佳人という言葉は「かじん」と読みます。
元々古代中国では「美人」と言う言葉は、「美丈夫」として男子に使用されていた言葉でした。
それに対して、佳人は今の「美人」と同じように美女を指す言葉として利用されていました。
また、それだけではなく、理性や知性と言った内面的な美しさや品格も備わっているような女性の事を指しています。
「佳人」おいう言葉が広く広まったのは、蘇軾と言う詩人が作った「薄命佳人詩」というものであり、美人薄命の語源としても知られています。
今の時代では、佳人という言葉の意味を知る人も少なくなってしまいました。
しかし、それらの意味をしっかり知る事によって更に言葉の面白さなどを感じる事が出来るでしょう。
語源や気になる言葉の意味は、セ局的に調べて自分のものにしていく様に心がけていきましょう。
美人薄命の人物たち
「美人薄命」と聞くと、そんなわけない。
今はそんな時代ではない。
と思う人も居る事でしょう。
しかし、実際若くして亡くなった美しい女性の方々が多く居ます。
人気絶頂の時期に亡くなってしまったからこそ、今でも伝説として語り継がれている方々も多く居ます。
今回は、そんな「美人薄命」の方々のごく一部をご紹介させて頂きます。
どの方も美しく、早くに亡くなってしまった方ばかりです。
彼らの死を悼むと共に、その功績を振り返ってみる事にしましょう。
日本の方の美人薄命
まずは、日本人の方々です。
世代が違ったとしても、伝絶として語り継がれているような人の事は多くの方が知っている場合もある事でしょう。
何十年も昔の写真でさえ、今もなお洗練された美しさを見る事が出来ます。
夏目雅子さん
夏目雅子さんは、1957年12月17日に誕生し、1985年9月11日に僅か27歳という若さでこの世を去ってしまった女優さんです。
現在では、「伝説」とは名ばかりの方々が多く登場していますが、彼女こそ本当の伝説です。
昭和の時代に生きた彼女ですが、今もなお多くの方々の記憶に残された女優の一人です。
芝居にかける熱い思いとしても有名な彼女でしたが、デビュー当時はお芝居の経験が無かった事もあり監督からダメだしされる事も珍しい事ではありませんでした。
その悔しさをバネに、日々努力をし続ける事で、昭和のトップ女優としての地位を確立して行きました。
あっと言う間に大スターの地位を確立した彼女ですが、人柄はとても気さくでホームシックにかかってしまった子役の子供たちと一緒にお風呂に入るなど当時の女優としては考えられないような行動を取った事でも知られています。
大変美しく、性格も良かった事でも知られている夏目雅子さんですが結婚のお相手はなんと略奪婚なんだとか。
7年もの長い不倫の末に再婚を果たしたそのお相手とは、わずか1年しか一緒に過ごす事が出来ませんでした。
しかし、その最後の時だけでも好きな人と一緒に過ごす事が出来たのは幸せだったのかもしれません。
夏目雅子さんの死因は、急性白血病です。
若くして発病してしまった事もあり、急速に進攻してしまったと言われています。
本田美奈子さん
本田美奈子さんは、1967年7月31日 に生まれ2005年11月6日、満38歳で亡くなりました。
1985に年東芝EMIより「殺意のバカンス」という曲でデビューした彼女は、瞬く間に新人賞を総なめにしました。
翌年には、ファーストコンサートを武道館で行うなど、一躍トップスターとなっていきました。
ソロ活動だけではなく、バンド活動を行うなど多くの活動をしてきた彼女は新たな挑戦として1992年の「ミス・サイゴン」のオーディションを受けます。
この時に、応募したのは主役のキム役です。
12000人が応募し、大変高い倍率だったこの役を彼女は見事自分の物とします。
その後、1年6ヶ月のロングランを終え、彼女のミュージカルスターとしての才能が開花して行きます。
「レ・ミゼラブル」や「屋根の上のバイオリン弾き」・渡辺謙さんが海外公演した事でも知られている「王様と私」など、様々な話題作に出演し高い実力を誇ってきました。
また、2000年にはシドニーのオペラハウスでのイベントに参加するなど世界的にも知られる存在となっていきました。
そんな何もかもが順調だった、2005年に彼女を突然病魔が襲います。
急性骨髄性白血病と診断され、仕事を全てキャンセルしすべての時間を治療にそそぎ治す為の努力を続けてきました。
しかし、その願いはかなわず、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
彼女が歌った、アメイジンググレイスと言う曲は、今でも使用される事が多くそれを聞くたびに彼女の歌声を思い出す人も多く居る事でしょう。
坂井泉水さん
坂井泉水さんは1967年2月6日に生まれました。
20代前半までは、その美しい美貌を生かして、モデルやレースクイーンと言った華やかな活動を行っていました。
しかし、当時から歌手になりたという希望を持っておりその夢がかない、1991年2月に「ZARD」のボーカルとして活動を始めます。
その後は、ミリオンヒットを多く記録し瞬く間に日本を代表するアーティストになっていきます。
レースクイーンをしていたとは思えない程、あまりメディアには出歌手活動に専念してきます。
そんな彼女は元々多くの持病があり、子宮筋腫、卵巣のう腫、子宮内膜症など、様々な病気と闘ってきました。
そして、ついに39歳の時にし子宮頸がんとなり全摘出を行います。
しかし、その覚悟もむなしく翌年には転移が見つかり入院していた病院の非常階段から転落して亡くなりました。
多くの方が楽しみにしていた復帰はかなわぬものとなってしまい、日本中が悲しみに包まれました。
彼女の死は、うつ病のせいと言われたり極度に痩せてしまった為に起こっためまいが原因など、様々な理由が言われておりましたが警察は、事故死と判断しました。
真相は闇の中です。
大原麗子さん
大原麗子さんは、1946年11月13日に和菓子屋の娘として誕生しました。
当時、お父さんは男の子が欲しかった事もあり大原さんに手を挙げる事もあったそうです。
そんな事もあり、大原さんは実の父を恨んでおり実家とは確執があったと言われています。
昭和を代表する作品として知られている「男はつらいよ」シリーズなどに出演し、女優として人気を誇っていきました。
その後、渡瀬恒彦さんと結婚するものの、わずか5年という短い期間で別れる事となってしまいました。
その後も売れっ子女優として活躍していた彼女ですが40代に入ると仕事が激減してしまいます。
突発的に行った整形手術で失敗し、仕事は更に無くなってしまいました。
晩年は、持病であった難病のキランバレー症候群が再発したと言われていたが、さだかではない。
死後2週間たってようやく発見されるなど、孤独な生活を送っていました。
岡田有希子さん
岡田有希子さんは、1980年代に活躍したアイドルです。
『ユッコ』の愛称で多くの方に愛されていた彼女が、わずか18歳という若さでこの世を去ってしまいます。
自殺という形で幕が降ろされた彼女の人生は、多くの方に衝撃を与え、彼女の後を追って自殺する若者まで居たほどでした。
現在もトップアイドルとして知られている、松田聖子さんと同年代であり、人気を2分していたとも言われている彼女。
今も生きていたらどんな姿になって居たのかと思うと、悔やまれてなりません。
彼女の死の原因は一冊のノートが残されていたことにより判明しています。
そこには、俳優の峰岸徹に振られたとの記録があったそうです。
彼とは、【禁じられたマリコ】で共演しており、その際に好意を持ったと言われています。
ただし、不倫関係などではなく一方的な恋だったようです。
最初は、ガス自殺を図った物の発見され一命をとりとめます。
しかし、病院に居る間に、スタッフの目を盗んで屋上から飛び降りてしまうのでした。
元々生真面目だったと言われている彼女は、忙しすぎる生活や上手く行かなかった恋に疲れてしまったのでしょうか。
堀江しのぶさん
堀江しのぶさんは、1983年頃から活動していました。
女優やタレントなど活動の幅は広く、まさにこれからといった存在でした。
ふくよかな体系もあり、人柄柄も良かった彼女は事務所や仲間からも大きな期待をさえており、まさにこれからという存在でした。
しかし、まだまだこれからという時期に彼女は癌に侵されてしまいます。
しかも、その癌はスキルス性の物であり進行が大変早い事でも知られています。
その為、発見された時にはもう手の施しようがなくそのまま帰らぬ人となってしまったのです。
当時の野田社長は、彼女の死を悲しみ会社を畳もうと思ったとの話も残されています。
まさにこれからの存在だったと思うと、残念でなりません。
香月弘美さん
香月弘美さんは1936年8月21日に神奈川県藤沢市出身です。
今で言うところの、中学校である中学部の同級生だった松島三那子さんが卒業後すぐに宝塚に入団した事をきっかけに、彼女自身も高校を中退し宝塚に入団しました。
その後、宝塚の舞台で活動をしていた彼女でしたが、欠席した友人の代理であがった舞台で事故に巻き込まれてしまいます。
なんと、彼女がステージから地下へ下がる為に乗っていたセリにベルトが挟まれてしまい、胴体が切断されてしまったのです。
その場で彼女は即死しました。
当時、来ていた衣装が大きかった事。
セリを扱っていた人が、専門のスタッフではなく、不慣れだった事などが原因とされています。
当時相手役だったのは、なんと中学からの同級生であった松島さんです。
彼女は、半狂乱になり「自分が死ねば良かった」と泣き叫んだと言われています。
川田亜子さん
川田亜子さんは、1979年1月17日に生まれ白百合女子大学文学部を卒業後、元TBSアナウンサーとして活躍してきました。
6年間の活動の後、フリーに転身。
様々な仕事をこなし、人気アナウンサーとして活動していました。
しかし、フリー転身後わずか1年後に練炭自殺をし帰らぬ人となってしまうのでした。
人気アナウンサーの死は、世間に大きな衝撃を与えました。
また、彼女のが最後の場所に選んだ場所が彼女所有の車では無かった事や遺書が事務所社長あてに残されていた事もあり、多くの憶測が広まりました。
彼女の死の真相は明らかになっておりません。
海外の方の美人薄命
「美人薄命」として表現される方は、日本以外にも多く居ます。
海外の方の中には、世界的に人気のあった方々が多く亡くなってから数十年たった今でも、色褪せる事無くその人気は保たれています。
日本の方々とはまた違い、昔の海外のスターなどは写真や映像を見る機械が多くあります。
ポスターなどに使用されている場合も多く、全く世代が違う方々も意外と知っていると言う人も居る事でしょう。
是非世界的に称賛されているその美しさを堪能してみてはいかがでしょうか。
マリリン・モンロー
マリリン・モンローは1926年6月1日に誕生し、1962年8月5日に僅か35歳という若さでこの世を去っています。
無くなってからもう長い月日が経っていますが、今でも彼女の姿は様々な物で見る事が出来、知っている方も多いことでしょう。
彼女は、ハリウッド映画で活躍していた女優です。
その魅力的な姿で、数々の男を虜にしたと言われております。
その代表的な人物が大統領であったジョン・F・ケネディです。
彼との関係は不倫ですが、その真相は分かっていません。
とゆうのも、彼は彼女の死が他殺かもしれないと言う根拠となっている為です。
元々、ケネディ家はマフィアとの繋がりがあったと言われており、二人を紹介したのもその人物だと言われています。
FBIはその関係を掴んでおり、モンローとの不倫は勿論、マフィアとの関係も清算する様に大統領に忠告していたという噂もあり、その観点からマリリンの死は自殺として処理されたとの噂もあります。
彼女は、2回ほど結婚経験があります。
2番目の夫のジョー・ディマジオは本当に彼女を愛しており、離婚後も献身的に尽くしていたそうです。
その為、彼女に関する取材などには殆ど答えず、彼女の死後も独身を貫き、死後の世界で彼女に会える事を楽しみにしていたと言われえ居ます。
そんなに愛してくれる男性を捨て、恋に生きる彼女はさすがと言えるでしょう。
ダイアナ妃
ウェールズ公妃ダイアナは1961年7月1日に誕生し、1997年8月31日に事故で無くなりました。
この事故は、当時様々な噂がささやかれており、記憶に残っている方も多く居るのではないでしょうか。
彼女は、元々名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢でありイギリスの第1位王位継承権者であるウェールズ公チャールズと結婚しました。
その美しさから、王妃になるにふさわしい人物と言われ、国中の国民から愛される存在となりました。
しかし、実際はチャールズ皇太子は、のちの2番目の妻となる女性をずっと思っており、二人の関係は急速に冷めていきました。
結婚前から浮気をしていた事が露呈された事もあり、チャールズ皇太子はその後人気を大きく落としてしまいます。
結局のチャールズ皇太子と離婚し、王宮を出ることになります。
離婚後のダイアナ氏は世界中の恵まれない子供たちの支援や地雷除去などの国際的慈善活動に積極的に取り組むようになります。
その姿は美しく、更に国中の人々を魅了していました。
離婚後も、様々な形で追い回されていたダイアナは、当時の恋人と一緒に居る所を写真に収めようと追いかけてきたパパラッチからにげようとした結果事故にあい亡くなってしまいます。
この事故が王室の陰謀なのではないかなど、様々な憶測をよんでいます。
ダイアナ氏は、生きかえって欲しい偉人NO1に選ばれるなど、高い人気を誇って居ます。
彼女の息子である、ウィリアム王子は彼女の生き方を尊敬しておりその姿勢が国民かた指示されています。
その後に愛人を妻とした父との確執は、もはや修正不可能でしょう。
グレース・ケリー
グレース・ケリーといえば、あの有名な「ケリーバック」を使用して名前の元となった女性です彼女の人生は、まさにおとぎ話のようであったとも言われています。
ま彼女は、女優に憧れハリウッドデビューを果たします。
その後、あのアルフレッド・ヒッチコック監督から絶大な寵愛を受け、数々の作品に登場します。
1955年には彼女の代表作となる『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞します。
この受賞があり、グレース・ケリーは、カンヌ国際映画祭に出席。
その時に出会ったのが、 モナコ公国のレニエ公です。
彼は、すぐに彼女に夢中になり短い交際期間のままゴールインしてしまうのでした。
1956年4月18日に行われた、結婚式は「世紀の結婚式」とも言われ世界中を沸かせる程の熱狂ぶりでした。
しかし、この結婚委は裏話があり当時さほど有名ではなかったモナコという国を女優と結婚する事で有名に使用と画策されたものであったと言われています。
マリリンモンローも妃の候補になって居たとも言われており、ドラマティックな見解とはかけ離れたものがあるようです。
また、持参金として7億円以上ものお金を彼女が用意したとも言われえおり意外と夢物語は無かったのかもしれません。
更に、彼女は女優としての活動復帰を希望していましたが、その願いが叶えられる事はありませんでした。
はたから見れば幸せな彼女の生活も、実際は違ったものがあるのかもしれません。
歴史上の人物の美人薄命
次に紹介させて頂くのは、歴史上の人物です。
「美人」と呼ばれている人々の基準は、時代や国によっても大きく変わってきます。
その為、歴史上の中で絶世の美女と呼ばれているような方が本当に美人なのかどうかは誰にも確かめる事が出来ません。
確かめる事は出来ませんが、想像する事は出来ます。
それぞれ、思い思いのイメージを作り上げて絶世の美女を再現してみてはいかがでしょうか。
あなたの思う美人と、過去の人とは似ても似つかない事もあるでしょう。
しかし、そんなところもまた歴史の楽しみ方の一つです。
樋口一葉
樋口一葉は5000円札のモデルとして知られています。
1872年に生まれました。
彼女の家は、元々は農家の家系でしたが、父の努力により士族の身分を与えられていました。
金銭的に余裕もあった事から、小学校などの学校に通っており、高い学力を誇って居ました。
その後、母のせいで学校に通う事が出来なくなってしまいますがそれを嘆く娘の姿を不憫に思った父が一葉に和歌の通信教育が出来る場所を提供しました。
歌塾「萩の舎はぎのや」は、家族夫人などの上流階級の人が通っていた事でも知られており、多くの人と出会い文学を学んでいくのでした。
しかし、父が事業に失敗。
多額の借金を残したまま死んでしまうと、その生活は一気に困窮しました。
お金目当てで行われていた婚約も破棄となり、傷心の一葉はそれでも家族の為に働きます。
その後、小説を書けばお金になると思った彼女は、半井桃水という新聞記者を紹介して貰い、小説の才能を磨いていきました。
半井桃水に憧れを抱いていた彼女ですが当時二人の関係が噂されてしまい、絶好をしたとも言われています。
彼女が残した作品はわずか14か月の間に残されたものです。
貧しい為、生活を優先するあまり書きたいものがなかなか書けない悲しみと葛藤しながら、わずか25歳という若さでこの世を去りました。
彼女が美人という記録は特に残されておりませんが、写真の姿が現在の「美人」に当てはまる為、そういわれているのかもしれません。
楊貴妃
楊貴妃は、世界3大美女として知られる人物の一人です。
絶世の美女でありながら自由奔放だったとされている彼女ですが実際はどうだったのでしょうか。
彼女は、四川省の下級官吏の四女として生まれます。
両親が早くに亡くなった事もあり、叔父の家で育てられていました。
その後、その美しさもあり、宮女として後宮に入る事になります。
この時、3000人ものライバルの中から勝ち抜き、17才になると当時一番力のあった玄宗皇帝息子の李瑁の妃として迎えられました。
しかし、父である玄宗皇帝は息子の嫁である楊貴妃をとても気に入ってしまい結局自分の妻としてしまうのです。
そこからは、どこに行くにも一緒。
様々な美女に出会う力があるにも関わらず、楊貴妃にのめりこんでいくのです。
彼女の為に、装飾品を作る人を数百人用意したり様々な贅沢品をつぎこみました。
しかし、これは楊貴妃が望んだ事ではなく、玄宗皇帝の暴走だったようです。
娘程も年が離れた彼女に夢中になってしまったのですね。
玄宗皇帝の暴走は止まらず、楊貴妃の家族を次々に重要な役職に就けたりもしました。
これにより、政治は混乱を起こし内乱のきっかけになってしまいました。
国を逃げ出した玄宗皇帝ですが、結局見方からも内乱の原因となった楊貴妃を処分する様にと言われてしまい、そのまま実行に移ります。
その後楊貴妃は自殺したとも他殺だったとも言われており、真相は分かりません。
玄宗皇帝が勝手に暴走しただけに過ぎないのに、全ての罪をかぶされた楊貴妃は可愛そうと言えなくもないでしょう。
クレオパトラ
クレオパトラとは、多くの方が知っている絶世の美女です。
当時、エジプト都であったアレキサンドリアでプトレマイオス朝の王女として生まれました。
当時は、家族間で結婚し、王位を継いでいく事が一般的でした。
その為、彼女は弟と結婚し18歳で、エジプトの女王となったのです。
ローマとの関係で弟と決別していた彼女はローマの英雄として知られていたシーザーがエジプトに出向いた際には、自分を絨毯に包み彼の元へ届けさせると言うものでした。
これにより、2つの国の関係は急速に近づき、弟を失脚させることへ繋がりました。
しかし、そのシーザーとの関係も長くは続かず、わずか四年後に、彼は議会で殺害されてしまうのです。
大事なパイプ役であったシーザーが無くなってしまい、クレオパトラは大きな後ろ盾をなくしてしまいます。
しかし、そこでめげてはいられません。
シーザーに代わる人物として、次に目を付けたのが同じくローマの英雄として活躍していたアントニウスです。
ここでも彼を虜にする事に成功し、エジプトの存続に成功するのです。
長きにわたり、自分の美貌を駆使する事で国を守ってきたクレオパトラもアントニウスが死んでしまうとそのまま自分も蛇の毒で自害してしまいます。
彼女が必死になって守ってきた国もそこでローマの物となり消滅してしまいます。
「クレオパトラの鼻が少しでも低かったら世界は変わっていた」と言われる程の美貌ですが、彼女の魅力はその姿だけではなく素晴らしい知識人という部分もあったようです。
シモネッタ・ヴェスプッチ
シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチは1453年に誕生しました。
生まれた場所などは、諸説あり真相は分かりません。
彼女を最も有名にしている出来事は、サンドロ・ボッティチェッリが描いた事でも知られている「ヴィーナスの誕生」モデルと言われている事です。
彼女は、15歳での時にマルコ・ヴェスプッチと結婚しました。
その後。
フィレンツェに移り住みます。
同じ年代の中で、一番美しいと言われていた彼女は、フィレンツェ一の美女として知られ、政治家出会ったジュリアーノ・デ・メディチと関係を持ったともされています。
しかし、これも真相は分かっておらず、当時夫は生存していなかったのではないかなど謎が多く残されています。
また、彼以外にも多くの人が彼女の美貌い夢中になって居たが、それはプラトニックな関係であったとも言われています。
そんな彼女は、23歳の若さの時に肺結核で亡くなります。
その死を多くの人が悲しみ、様々な作品が生まれたと言われています。
多くの画家や詩人が彼女を題材としており、その姿は現在でも様々な形で見る事が出来ます。
マリー・デュプレシ
マリー・デュプレシは1824年1月15日に誕生しました。
彼女の父親は、行商人でしたが、酒におぼれ生活は困窮していました。
母は、良い家の出でしたが、出稼ぎを行い家族を支えていました。
しかし、その母も8歳の頃に亡くなり、彼女自身もまた、様々な仕事をする様になります。
15歳になった彼女は、1840年代にフランスのパリにあったドゥミ・モンドという上流階級のお客を相手にする、高級娼婦となって居ました。
そこでは、読み書きを学ぶ事が出来彼女はそこで様々な事を学んでいきます。
豊富な知識や教養を得る事で、知識階級や上流階級の人々とも対等に会話をする事が出来る様になり、一躍ドゥミ・モンドの花形になりました。
上流階級の男どもが次々に彼女に夢中になったと言われています。
その時に、小説家アレクサンドル・デュマ・フィスと出会い彼の代表作である「椿姫」のモデルになったと言われています。
1844年に、恋に落ちたと言われて居ますが、その時の彼女は7人の愛人が居ました。
どれも大金持ちばかりで、その人気のほどを知る事が出来たでしょう。
絶大な人気を誇ったマリーですが、その後伯爵とイギリスで結婚します。
しかし、その結婚生活はすぐに別居となりフランスにもどってきます。
浪費や散財を重ねていく彼女のもtからは、次第に多くの人が去っていきました。
加えて、肺結核に侵されてアヘンなどの薬物にも手を出したことで1847年2月3日に僅か23歳という若さでこの世を去ったと言われています。
最後の時は、夫やかつての恋人が傍に居てくれたとの記述も残されておりその儚い人生からより「椿姫」としてのイメージが強く印象付けられています。
ベアトリーチェ・チェンチ
ベアトリーチェ・チェンチは、1577年2月6日に生まれました。
この一家は、名門貴族家としても知られておりその中の一家の一員として育てられていきました。
一家は、彼女の他に兄と二番目の母・その母の子として幼い弟がおりました。
チェンチ家の当主である、彼女の父親は非道極まりない人でした。
当時、貴族は刑に処される事は殆どなかったので捕まってもすぐに無罪となって居ましたが、処刑されてもおかしくない程の人だったようです。
彼は、妻や息子たちに暴力を加えており彼女に対しては強姦も行っていたようです。
彼女がそれを拒否すると全身が血だらけになるまで鞭で叩かれたという記録も残されています。
彼が、他の罪で捕まった際、警察当局に被害を訴えるも相手にしてはもらえませんでした。
そので、家族はもう当主を殺すしかないと犯行に至るのです。
使用人2人の協力も得て、殺害は成功しますがその計画はすぐにばれてしまいます。
そして死刑が確定するのです。
犯行の動機を知った市民が、厳罰を求めましたが刑は執行されてしまいました。
これは、当時のローマ教皇クレメンス8世が家族の財産を狙い、相続人を亡き者にする為に刑を執行したとも言われています。
無念を残して亡くなった彼女の亡霊が、自分の首を持って城に続く橋に戻ってくると言う逸話も残されています。
美人薄命な人は生き方も美しい
「美人薄命」と聞くと、どうしても顔が美しい人を想像してしまいます。
しかし、美人とは外見だけでは無く内面からにじみ出るものです。
その為、理性的で人に優しく・品格を持って生きている人は「美人」と表現する事が出来るでしょう。
早くに亡くなってしまった方々は、人気絶頂の時代に姿を消してしまった場合が殆どです。
その為、その後の老いて行く姿や人気が無くなり陰ってしまう姿を知りません。
その為、いつまでも若く美しい姿で人々の記憶に残り続ける事が出来ます。
だからこそ、その功績や美貌は更に人気を得て長きにわたって伝えられていくのでしょう。
美しい姿で人々の記憶に残り続ける事は、女性としては羨ましい部分があるかもしれません。
しかし、「美人薄命」と言われる方々は、きっとやり残した事があり決してこの結果を望んだわけではありません。
今を生きる私たちは、彼女たちのその美貌だけではなく全力で生き、儚く散ってしまったその姿から日々の努力を学んでいかねばなりません。
多くの人が自分の人生を全うできるように、毎日健康的な生活を目指し過ごしていきましょう。