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美人薄命は本当にあった。キレイなの...(続き7)

クレオパトラとは、多くの方が知っている絶世の美女です。

当時、エジプト都であったアレキサンドリアでプトレマイオス朝の王女として生まれました。

当時は、家族間で結婚し、王位を継いでいく事が一般的でした。

その為、彼女は弟と結婚し18歳で、エジプトの女王となったのです。

ローマとの関係で弟と決別していた彼女はローマの英雄として知られていたシーザーがエジプトに出向いた際には、自分を絨毯に包み彼の元へ届けさせると言うものでした。

これにより、2つの国の関係は急速に近づき、弟を失脚させることへ繋がりました。

しかし、そのシーザーとの関係も長くは続かず、わずか四年後に、彼は議会で殺害されてしまうのです。

大事なパイプ役であったシーザーが無くなってしまい、クレオパトラは大きな後ろ盾をなくしてしまいます。

しかし、そこでめげてはいられません。

シーザーに代わる人物として、次に目を付けたのが同じくローマの英雄として活躍していたアントニウスです。

ここでも彼を虜にする事に成功し、エジプトの存続に成功するのです。

長きにわたり、自分の美貌を駆使する事で国を守ってきたクレオパトラもアントニウスが死んでしまうとそのまま自分も蛇の毒で自害してしまいます。

彼女が必死になって守ってきた国もそこでローマの物となり消滅してしまいます。

「クレオパトラの鼻が少しでも低かったら世界は変わっていた」と言われる程の美貌ですが、彼女の魅力はその姿だけではなく素晴らしい知識人という部分もあったようです。

シモネッタ・ヴェスプッチ

シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチは1453年に誕生しました。

生まれた場所などは、諸説あり真相は分かりません。

彼女を最も有名にしている出来事は、サンドロ・ボッティチェッリが描いた事でも知られている「ヴィーナスの誕生」モデルと言われている事です。

彼女は、15歳での時にマルコ・ヴェスプッチと結婚しました。

その後。

フィレンツェに移り住みます。

同じ年代の中で、一番美しいと言われていた彼女は、フィレンツェ一の美女として知られ、政治家出会ったジュリアーノ・デ・メディチと関係を持ったともされています。

しかし、これも真相は分かっておらず、当時夫は生存していなかったのではないかなど謎が多く残されています。

また、彼以外にも多くの人が彼女の美貌い夢中になって居たが、それはプラトニックな関係であったとも言われています。

そんな彼女は、23歳の若さの時に肺結核で亡くなります。

その死を多くの人が悲しみ、様々な作品が生まれたと言われています。

多くの画家や詩人が彼女を題材としており、その姿は現在でも様々な形で見る事が出来ます。

マリー・デュプレシ

マリー・デュプレシは1824年1月15日に誕生しました。

彼女の父親は、行商人でしたが、酒におぼれ生活は困窮していました。

母は、良い家の出でしたが、出稼ぎを行い家族を支えていました。

しかし、その母も8歳の頃に亡くなり、彼女自身もまた、様々な仕事をする様になります。

15歳になった彼女は、1840年代にフランスのパリにあったドゥミ・モンドという上流階級のお客を相手にする、高級娼婦となって居ました。

そこでは、読み書きを学ぶ事が出来彼女はそこで様々な事を学んでいきます。

豊富な知識や教養を得る事で、知識階級や上流階級の人々とも対等に会話をする事が出来る様になり、一躍ドゥミ・モンドの花形になりました。

上流階級の男どもが次々に彼女に夢中になったと言われています。

その時に、小説家アレクサンドル・デュマ・フィスと出会い彼の代表作である「椿姫」のモデルになったと言われています。

1844年に、恋に落ちたと言われて居ますが、その時の彼女は7人の愛人が居ました。

どれも大金持ちばかりで、その人気のほどを知る事が出来たでしょう。

絶大な人気を誇ったマリーですが、その後伯爵とイギリスで結婚します。