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日本食を食べることの6個のメリット!(続き3)

現代は四重が普通で、これは春夏秋冬を表しているとされます。

二重、三重の略式も増えているそうです。

おせちの売上は、毎年伸びています。

ドラッグストアーや郵便局にもおせち予約のチラシが置いてあり、販売チャンネルはどんどん拡大しています。

また百貨店にとっては、大事な店舗イメージ商品となっており、予約開始の時期は早まる一方です。

身近な日本食といえば

ここからは、日常の日本食について見ていくことにしましょう。

そのルーツはさまざまですが、完成形はいずれも江戸時代に表れています。

江戸の町人文化は、現在に至る日本料理に大きな影響を与えているのがわかります。

料理の研究には外せない、黄金時代ともいえそうです。

お米

米は中国大陸から直接、または朝鮮半島を経由して日本列島にもたらされたと推定されています。

ところが現在、中国で出回っている米はインディカが主力です。

日本米はジャポニカで、形状も粘り気も大きく違います。

中国で栽培されているコシヒカリなどは日本から持ち込んだものです。

ところがインディカとジャポニカはそのはるか前に分岐していたといいます。

このあたりの事情はよくわかりませんが、ジャポニカの方が好まれて、日本列島に定着していったのは確かでしょう。

寿司

寿司は保存食として、古代から作られていたようです。

もともとは東南アジアの魚保存法が伝わったと考えられています、日本では琵琶湖の馴れずしが、ルーツとされます。

滋賀県には今でも、鮒の内臓をぬき、長時間塩漬けにしたのち、飯とともに本漬けにして馴れを待つという、古代の製法が残っているそうです。

酢が作られるようになるのは、安土桃山時代になってからだそうです。

ここから寿司の歴史は新ページに移行します。

それは飯寿司の誕生です。

それまでの飯は、魚を保存するための材料に過ぎませんでした。

そして江戸時代の後期になると、握り寿司が登場します。

握ってその場で食べるというのは革命的でした。

その江戸時代から明治にかけての寿司屋とは、屋台が中心だったそうです。

戦後になって屋台による生もの提供が禁止され、現在の寿司屋形態に近くなります。

そして最初の回転寿司が登場したのは1958年の東大阪市、近鉄布施駅前からでした。

天ぷら

素材に衣をつけて油であげるという調理法は、奈良、平安の昔から見られるそうです。

16世紀になると南蛮料理(ポルトガル?)の影響をうけた、長崎てんぷらが登場します。

これが関西につたわり、江戸幕府の成立以降、江戸にも伝わります。

この間、油の生産量が増加し、種類も変化するなどして、現代の形に近ついてきます。

てんふら、という言葉が書物に初出するのは1693年だそうです。

江戸時代には油の生産量が増えます。

それにともない天ぷらは、屋台の定番となり、江戸庶民の食べ物として浸透していきました。

うなぎ

うなぎは万葉集にも読み込まれているそうです。