個人戦はシングルテニス・卓球、マラソンなど個人で成績をあげるものです。
結論から述べると、受験は個人戦です。
受験のテストでミスをすればその人が不合格になるだけで、仲間の点数を分けてもらえるわけではないからです。
しかし自称進学校や塾では「受験は団体戦」という言葉を好んで使います。
ではなぜなのか。
この本質は「進学実績を上げるのは団体戦」を意味しています。
東大合格者を10人出したい学校や塾があったとして、志望者が20人とすればそれを団体として、その中で10人が合格すれば良いというわけです。
東大が目指せるレベルですから早慶などには受かるかもしれないので、学校全体としての難関大学合格率はキープできます。
そういう意味では団体戦です。
あるいは、周りの偏差値が高くて65くらいだとすると、その中で偏差値55ではマズイという意識が働くことから、受験勉強は団体戦と言えなくもありません。
しかし、そもそも受験は戦いではありません。
どこに進学するにしても、または進学しなくても、結局は人生の中で自分がなりたい姿になれるかどうかが重要であって、勝った負けたではないからです。
文武両道は当たり前
これもまた自称進学校にありがちなことですが、やたらと「文武両道」を強調します。
多くの場合、難関大学進学率が高くてスポーツ部も強いといった意味を指しています。
勉強もしながら部活に所属するのが当たり前で「どちらも疎かにしてはならぬ」という風土を持っています。
ここに面白さがあります。
そもそも文武両道の意味を履き違えているという点が“自称”進学校らしいなというところです。
文武は学問と武芸のことを指します。
武士がいた時代、上に立つものはどちらかだけではダメで、政治を行う能力(学問)と戦で役に立つ力(武芸)のどちらもなければならないという意味でした。
現代に言い換えれば、学問は本来人の上に立つものとして知恵を持っていることであり、科目の勉強をすればいいというわけではありません。
武にしても、一概にスポーツと結び付けられるわけではなく、武の精神につながるものといえます。
そのため、文武両道はテストで点数を取ることや受験に合格するための勉強でも、大会で好成績を収めることでもありません。
上に立つものとして人々を束ねるために心がけることであり、まだ何者でもない生徒に強いるのは無理があります。
とはいえ、難関大学進学率が高くてスポーツ推薦などで選抜した強豪チームを持っている高校は入学志願者が増えるので、とくに私立は経営の面から考えても文武両道を推しておいた方が都合がいいというのはよくわかります。
アルバイトは異常なぐらい禁止!
自称進学校としてはアルバイトしている時間があるならその分勉強して良い大学に進学して欲しいわけですからアルバイトは異常なくらい禁止です。
ただ、授業がとてもわかりやすく、生徒の自主性で進学率が結果として高いという本物の進学校ならこんなルールはありません。
この禁止令は私立の高校ほど多いようです。
私立に通えるということは、生徒がアルバイトをしなくても金銭的な問題のない家庭ということなので「アルバイトをするな」と平気で言えるわけですね。
そして、こういった高校ではアルバイトは遊ぶ金欲しさという認識が強いです。
アルバイトで学べることなんてなく、良い大学に入って良い就職先に進むことが人生の勝ち組になることだと信じています。
補習が多い
こういうところで鍛えられた人たちがブラック企業を生むんじゃなかろうか、というほど授業後も長時間にわたって補習が行われます。
生徒たちは朝から晩まで学校に缶詰にされ、成績が少しでも落ちようものなら強制参加です。
文武両道といっても良い大学に入ることが最大の価値なので、生徒が部活に力を入れたいと考えていてもおかまいなしに補習を申し付けます。
教員が教えにくるケースもあれば、ひたすら机に向かって問題集を解くというケースもあります。
裏を返せば、進学校の生徒といえども学校に縛ってもらわないと勉強をしないということなのかもしれません。
本来なら勉強なんて自分のために自主的に行うものですから、強制されるようなものではないという違和感が、この妙な雰囲気を作り上げている原因でしょう。
さて、話は少し逸れますが1960年代頃までは教員が補習の授業を行うのも当たり前に行われていました。