出来るだけ自分のところに美味しい思いを持ってこようとして皆、必死です。
昔から「損して得取れ」という諺がありますよね。
今は損をしているように見えても長い目で見たらこっちの方が得になるという事です。
一つ例を挙げるとすれば戦国時代の両雄、豊臣秀吉と徳川家康の関係を上げざるを得ません。
天下を取った秀吉は家康が目障りなので都のある京都から遠い、関東に領土替えを命じて移動させました。
目の上のたんこぶが遠いところに行ってくれたと、秀吉はさぞかし胸をなでおろしたことでしょう。
しかし、その関東の地が後に300年近く続く江戸時代の都になるとは当の本人は全く見通せていませんでしたね。
家康から見たら、まさに損して得を取った事例なのです。
まあ、家康がそこまで「寛大」な心の持ち主だったかは定かではありません。
もしかしたら悔しくて悔しくてしょうがなかったのかも知れません。
しかし、表面上はどうあれ変化する状況を受け入れたからこそ、活路が開けたのです。
「どんな人や状況も受け入れる心」というものは、まさしく「寛大な心」を表した疑いのない行動なのでしょう。
思い遣りの深い心
「寛大な心」の特徴の3つ目は「思い遣りの深い心」です。
そう、寛大さを発揮するためには誰に対しても行える「思い遣り」という尊い考え方が必要なのです。
この「思い遣り」。
中々出来るものではありません。
特に自分の損得がかかってくると付け焼刃の思い遣りはすぐに化けの皮をはがされてしまうでしょう。
私は30代の頃、ある業界で大型店舗の店長をやっていました。
俗に言う接客業です。
お客様と対面して販売を行う仕事です。
接客業をガッチリ行う条件の一つに「思い遣り」が入ってきます。
つまり「お客様」に対する「思い遣り」です。
お客様のいかなるわがまま、自分勝手な言い分もグッとこらえて胸の中に飲みこみ、お客様最優先の行動を取ることによって気持ちいい買い物をしていただき、リピーターとなって末永くそのお店の上客になってもらえるよう、頑張るのです。
ただ、この場合の「思い遣り」には「お客様」を通しての「売り上げ」や「利益」といったもののために行っている節があります。
と、言う事は心から思い遣っている訳ではないのですね。
「売り上げ」のためにこちらが「演出」しているに過ぎない行動なのです。
まあ、本当のプロの接客マンならばそうでないかも分かりませんが所詮、仕事でやっている「思い遣り」とはそういった目的の上で行っているもの。
半ば強制的なものです。
しかし、真の「寛大な心」を持つ御仁ならばそのような事はないのでしょう。
私利私欲など一切ない純粋な「思い遣り」を発揮できるのでしょう。
だから今もって、私はそういった人物がいたら心から陶酔したいですね。
真似ることによって少しはそういった心境が分かる気がしますからね。
寛大な心はどうやって醸成される?
では次です。
「寛大な心」というものは一体、どうやって醸成されるのでしょうか?そこのところを少々、掘り下げてゆきましょう。
親も寛大であることが多い
「寛大な心」は親も寛大であったから醸成される、と言えそうです。
人間というものは生きる過程において手本となる教材がない事には右に行ったらいいのか、はたまた左がいいのか、見当がつきません。
そういった「生きた教材」はまず自分の「親」がその役目を果たすでしょう。