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寛大な心を持つための8個の考え方や行動(続き7)

そのような狭い心の持ち主に「寛大な心」を要求しても無理というのも頷ける話しです、

完璧を求めると寛大な心を忘れる

「几帳面」に代表される「完璧性」は所詮、自己中心的な発想です。

他者の意見にまるで耳を貸さない堅物さんの発想と言えるでしょう。

何しろ「自分がこの世で一番、正しい」と思っているからこそ、几帳面にやり方を改める事もなく我が道を進めるのです。

「寛大な心」を持つ人に固定された観念はありません。

「無我」というか「無流儀」というか、とにかくどのような作法、発想にも耳を傾け良いと思ったものは素直に褒め、しかしだからといって他者の行いを暗に批判したりはしません。

だから多くの人から支持と信頼を得るのです。

「几帳面」がいいか、悪いかはこの際、問題ではありません。

時流の変化に応じてタイムリーな動きを行う事が出来るかどうか。

「寛大な心」とはそのような「無手勝流」ともいえるものとも言えるでしょうね。

寛大な心にもメリットとデメリットが

では次です。

「寛大な心」を持つ人は本当に素晴らしい、という印象を持たれた方も多いと思うのですがでは本当に「寛大な心」は世間の全ての人にとって歓迎すべきものなのでしょうか?

「寛大な心」のメリットとデメリット面を探ってみることにしましょう。

メリット

「寛大な心」のメリットはなんといっても多くの人に歓迎され愛される象徴のような存在になれる事です。

相手の性格や癖を厭わず、誰に対しても嫌な顔一つみせず、奉仕できるのですから人から信用されて当たり前でしょう。

「善人」とはまさに「寛大な心」を持った人の事を言うのでしょうね。

人から恨まれたり嫌われたりすることがないだけに一生、平穏で平和的な人生を送れることでしょう。

デメリット

一方で「寛大な心」を持った人のデメリットとは何でしょうか?それは欲望があまりにもなさすぎるために起こる、ある「悲劇」を背負っていることです。

それは「命」に対する危険性です。

この例で最も説得力があるのが「イエス・キリスト」の磔の刑ではないでしょうか?彼は自身の弟子の裏切りによって無実の罪で処刑されるという悲劇に見舞われています。

それでもキリストは寛大な心を捨てず、誰の事も恨まずその命を捧げたのです。

果たして一般の人間がここまでの事が出来るでしょうか?もしあなたに愛する人があった場合、その人の悲しみを犠牲にしてでも自らの命を捧げるような事が出来るでしょうか?

真の「寛大さ」とは個人の損得を超越しないことには成り立ちません。

残念ながら神でもない人間が「寛大さ」を求めようとすること自体、どこか無理があるのかも分からないのです。

そこが一般人としての人間が求める「寛大さ」の最も大きなデメリットかも分からないのです。

まとめ

如何だったでしょうか?「寛大な心」について、それを持つための考え方や行動を中心にして紹介して参りました。

「寛大な心」。

実に奥が深いですね。

最終的に神の域にまでさしかからないと真の「寛大さ」というものはあり得ないのかもしれません。

人間には命があります。

それは有限です。

限りなく生き続けれる命を持った人間はこの世に一人もいません。

そんな状況だから、人間が行える「寛大さ」にも必然的に限界があって当然でしょう。

自らの命を代償にしてまで行う「寛大性」は全く「寛大」とは言えないという事です。

よって生きる術において、より良き人生を送るための一環として「寛大な心」というものを身につけて欲しいものです。