多くの人は自分の事が可愛いものです。
自分に有利になることなら何でもやりたいはずです。
反対に他者に対しては自分の有利さを損なわれないようにするためにキツク当たったりわざと嫌な事を押しつけたり、といった行為に出やすいものではないでしょうか?
しかし、これらの行動をいつまでもやっていては人間としての真の成長はあり得ません。
自分に甘く、他人に冷たい態度を取っている人間の成長というものは、ある時期を境にしてピタッと止まってしまうものなのです。
自分には厳しめにするのがポイント
「仏」の世界で修行するお坊さんたちがいい例でしょう。
彼らは朝から床に就くまで己に厳しい修行を与えて日々、鍛錬をすることを日課としています。
それによって世俗の色恋や物欲などを己の心から排除しているのです。
「寛大な心」というものはこれくらい、厳しい修行を己に果たさないことには自身の心に育むことが出来ないもの、とも言えるのでしょう。
ちょっとやそっとの気持ちの入れ替えくらいでは身につかないのが「寛大さ」というもののようです
ですが、心を鎮めて己のあらゆる「欲」を正面から見据えてその根源を見抜き、正しい教えでもってこれを鍛えてゆければ、きっといつかはあなたも「寛大な心」が芽生えるはずです。
「自分には縁のないものだ」と諦めてしまったら本当に永遠に身につかないでしょう。
だからこそ、諦めることなく毎日を生きましょう。
常に「そうありたい」と強く願うだけでも物事はいい方向に運んでいくようになりますからね。
こだわりを強くしない
寛大な心を持つための考え方や行動の7つ目は「こだわりを強くしない」です。
「こだわり」というものは結局、自己都合であり自己中心的な発想の権化のようなものです。
それは自分の好きな事を誰にも邪魔されたくない、という一種の欲望の体現なのです。
そのような気持ちを持ち続けているうちは、人の頼みや困りごとの相談などに対して、満足のいく結果を残せるような回答は行えないでしょうね。
と同時に強いこだわりを持っている人に対して、困っている人がそのような人の所に相談に行くような事もないでしょう。
ハードルを上げると寛容になれない
我の強い人というのは、自身の短所とも思える点を指摘されると、余計に自身の「我」を守るような行動に出てしまうことです。
つまり「ハードル」をどんどん上げてしまう結果になってしまうのです。
これではいつまでたっても「寛大な心」というものは身につけることが出来ませんね。
俗に言うところの「寛容さ」というものは「寛大な心」を身につけるためには是非ともマスターしておきたいものです。
「寛容」な面があまりにも欠けていては「寛大な心」を身につけられるはずもないからです。
ただ現実的にはなかなかうまくはいかないでしょう。
それは自身にとって嫌な事や腹の立つことを我慢しなければならないからです。
それが一種の「こだわり」ともいえるのですが、「こだわり」とは言うならば自分自身の行動規範の「ものさし」ともなるルールのようなもの。
それは自身の「正義」でもあるわけです。
それを根底から覆し、我慢して相手の要望に応えられるかどうか?
「こだわり」を捨て去るためには今まで自分が正しいと信じてきたものを一切合切、捨て去る勇気が求められるでしょうね。
それが出来るかどうか、です。
几帳面ではない
寛大な心を持つための考え方や行動の8つ目は「几帳面ではない」という事です。
「几帳面」とは「完璧」とか「こだわり」に通じるものがあります。
そこには大きく自己満足が支配しており、自分の気に入るかどうか、という尺度が決め手となってきます。
だから几帳面な人、と他者から言われたり呼ばれたりした場合、それは必ずしも褒め言葉ではない事に注意してください。
「几帳面」はむしろ融通が利かず、一つのやり方や方法だけがこの世で絶対、という頭の硬さを実証しているようなものですからね。