寛大な心を持った人。
憧れますねえ。
尊敬しますねえ。
私のような短気ですぐにカッとなりやすい人間にとったら「寛大な心を持った人」というのはまさしく「聖人君子」の生まれ変わりか?と思えるほど畏敬の念を禁じ得ないのです。
それでは既に人生、長く生きてしまった人物にはもう「寛大」な心を持つ資格はないのでしょうか?そしてこれから長い人生を歩んでいく、であろうあなたたち。
出来るものなら狭量で自己中心的な人間になるよりも「寛大」な人物になった方がはるかにいい事がたくさん起こるような気がしませんか?
それでは今回は「寛大な心」という事をテーマに取り上げ、みていく事に致しましょう。
寛大な心を持つと人生は好転する!
人は他者に対して労わりや優しい心を持った方がいい人生を送れる、という事を暗黙的に知っています。
自分が損さえしなければそれでいい、という生き方を選んでしまうと、なるほど短いスパンでみたらいい思いをすることもあるかも分かりませんね。
しかし、長い目で見たら結局、損をしている、という事に気づくはずです。
いえ、そもそも「損得」という考え方自体が既に良くない人生を歩んでいると言ってもいいでしょう。
それでは寛大な心を持つ、という意味をまず考えていきましょう。
寛大な心とはどういう心?
「寛大な心」。
一体どういう意味なのでしょうか?
何をもって「あの人は寛大な心を持っている人だ」と人から言われるようになるのでしょうか?
まずはそこからみていく事に致しましょう。
人を許す心
「寛大な心」というものの決定的な意味合いは「人を許す心」で決まりでしょう。
あなたは何も思わずにストレートに人を許す事は出来ますか?
この質問に対してしばらく考え込む人が世の中に一番多いタイプの人なのでしょう。
つまり「善人」というタイプです。
しかしいくら「善人」であっても他者から嫌な事をされたり悪い事をされたりしたら腹を立てます。
怒ります。
それが普通の人間の感情であり損得を抜きにしたものの道理でもあるからです。
言うならば「寛大な心」というものはそのような多くの善人のそのまた上を行く存在の人の事なのかも分かりませんね。
つまり、自分自身にとって悪い結果、であったり損をさせられるような行為をされているにも関わらず、ニコニコとまではいかなくても平常心を失わずにその者の取った行為を罰せず許してあげる、という行動を違和感なく行える人の事を言うのです。
これは口で言うのは簡単でしょうが、もし自分が当事者だったらどうでしょうか?相手の比例や暴言、あるいは暴力行為を許してあげる気持ちの度量が果たしてあるでしょうか?
「寛大な心」というのは一種の悟りの境地かも分かりませんね。
つまり自分にとって失うものは何もない、という状況になって初めて成し得られるものかも分かりません。
まだまだ悟りきれていない私如きではとてもここまでの心境には届きませんね。
どんな人や状況も受け入れる心
「寛大な心」の意味の2つ目は「どんな人や状況も受け入れられる心」の事を言います。
そうでしょう、でなければとても「寛大」な措置は取れないでしょう。
人が人の事を許せるかどうか、はその人の持つ「価値観」によって様々に変わってくると思います。
という事はその人の立場によって相手の人間次第では、受け入れられる条件も変わってくるでしょう。
そう簡単に条件を丸飲み出来ない所に人間の損得勘定の難しさが表れてくるのです。
国対国の交渉事などはまさに好例ではないでしょうか?どこの国も必ずや自国の「国益」を最優先事項に挙げて相手国と交渉します。
出来るだけ自分のところに美味しい思いを持ってこようとして皆、必死です。
昔から「損して得取れ」という諺がありますよね。
今は損をしているように見えても長い目で見たらこっちの方が得になるという事です。
一つ例を挙げるとすれば戦国時代の両雄、豊臣秀吉と徳川家康の関係を上げざるを得ません。
天下を取った秀吉は家康が目障りなので都のある京都から遠い、関東に領土替えを命じて移動させました。
目の上のたんこぶが遠いところに行ってくれたと、秀吉はさぞかし胸をなでおろしたことでしょう。
しかし、その関東の地が後に300年近く続く江戸時代の都になるとは当の本人は全く見通せていませんでしたね。
家康から見たら、まさに損して得を取った事例なのです。
まあ、家康がそこまで「寛大」な心の持ち主だったかは定かではありません。
もしかしたら悔しくて悔しくてしょうがなかったのかも知れません。
しかし、表面上はどうあれ変化する状況を受け入れたからこそ、活路が開けたのです。
「どんな人や状況も受け入れる心」というものは、まさしく「寛大な心」を表した疑いのない行動なのでしょう。
思い遣りの深い心
「寛大な心」の特徴の3つ目は「思い遣りの深い心」です。
そう、寛大さを発揮するためには誰に対しても行える「思い遣り」という尊い考え方が必要なのです。
この「思い遣り」。
中々出来るものではありません。
特に自分の損得がかかってくると付け焼刃の思い遣りはすぐに化けの皮をはがされてしまうでしょう。
私は30代の頃、ある業界で大型店舗の店長をやっていました。
俗に言う接客業です。
お客様と対面して販売を行う仕事です。
接客業をガッチリ行う条件の一つに「思い遣り」が入ってきます。
つまり「お客様」に対する「思い遣り」です。
お客様のいかなるわがまま、自分勝手な言い分もグッとこらえて胸の中に飲みこみ、お客様最優先の行動を取ることによって気持ちいい買い物をしていただき、リピーターとなって末永くそのお店の上客になってもらえるよう、頑張るのです。
ただ、この場合の「思い遣り」には「お客様」を通しての「売り上げ」や「利益」といったもののために行っている節があります。
と、言う事は心から思い遣っている訳ではないのですね。
「売り上げ」のためにこちらが「演出」しているに過ぎない行動なのです。
まあ、本当のプロの接客マンならばそうでないかも分かりませんが所詮、仕事でやっている「思い遣り」とはそういった目的の上で行っているもの。
半ば強制的なものです。
しかし、真の「寛大な心」を持つ御仁ならばそのような事はないのでしょう。
私利私欲など一切ない純粋な「思い遣り」を発揮できるのでしょう。
だから今もって、私はそういった人物がいたら心から陶酔したいですね。
真似ることによって少しはそういった心境が分かる気がしますからね。
寛大な心はどうやって醸成される?
では次です。
「寛大な心」というものは一体、どうやって醸成されるのでしょうか?そこのところを少々、掘り下げてゆきましょう。
親も寛大であることが多い
「寛大な心」は親も寛大であったから醸成される、と言えそうです。
人間というものは生きる過程において手本となる教材がない事には右に行ったらいいのか、はたまた左がいいのか、見当がつきません。
そういった「生きた教材」はまず自分の「親」がその役目を果たすでしょう。
子は親の背中を見て育つといいます。
つまり親の行う一挙手一投足の全てがいい意味でも悪い意味でも子供の成長に大きな影響力を持っている、と言えるのです。
だから親が寛大な心の持ち主だったならば子は自然とその動作、振る舞いに感化され知らず知らずのうちに自分もそのような行いをやっている、という訳です。
親が子に与える影響力。
言葉では言い表せない説得力がありますね。
人の親切が身に沁みた経験がある
「人の親切が身に沁みた経験がある」からこそ寛大な心が醸成されるものです。
人から親切にされて心が荒くれる人はまずいないでしょう。
「親切」というものは人の心に「愛」と「信頼」というものを植え付けてくれます。
それらが人間の成長と共に発展されてゆき、やがて人々の心を寛大な人間性の性格に誘ってくれるのです。
「寛大な心」とはつまり「人を許す気持ち」の事。
自分自身が過去に行った悪い事を第三者の人間がとがめる事をせずに寛容に対処してくれたからこそ、その有難みや恩恵を感じる。
それが「寛大な心」の醸成につながってゆくのです。
人が人の事を労わり大事にする気持ち。
やはりそういった経験や環境は非常に重要ですし、大事ですね。
大きな挫折や病気を経験したことがある
「大きな挫折や病気を経験したことがある」人ほど寛大な心が醸成されます。
それは挫折や病気というものがどれほど人の心を弱め挫けさせるものなのかを実体験で分っているからです。
そしてそのような苦しい時に周囲の人からの暖かい励ましや激励、援助を受ける事によって、人の気持ちの何たるかを肌で感じ取れるようになるからです。
この事は順風満帆に人生を送ってきた人間には理解できない行為なのかも分かりませんね。
人というものは他者から受けた優しさや労りを忘れることはありません。
そして十分すぎるくらい人の気持ちの好意を体内で熟成することが出来たなら、今度は自分が他者に対して同じ行動を取れるようになるものなのですよ。
良きお手本が身近にいる人は本当に恵まれた人生だと思いますよ。
寛大な心を持つための8個の考え方や行動
それでは次に参りましょう。
寛大な心を持つための考え方や行動についてです。
私たちはいかにすれば、寛大な心を持てる人間になる事が出来るのでしょうか?ちょっとでもそういった憧れがあるのならば、これからご紹介致しますことが大いに参考となる事は間違いないでしょう。
寛大な心を持つための考え方や行動、全部で8個のご紹介となります。
自分より他人を大切にする
寛大な心を持つための考え方や行動の最初の1つ目は「自分より他人を大切にする」です。
ちょっと宗教じみた例えとなりますが、かの有名な「イエス・キリスト」は右の頬を張られたら左の頬もどうぞ、と言ったようです。
また、汝の隣人を愛せよ、とも言われたようですね。
つまり、自分の損得の事は後回しにしてあなたに向かい合っている人間の事を最優先にして考え行動してください、という意味に取れると思うのです。
これは人間が世の中で生きていく上で黄金律というか世渡りのための決定的な大法則ともいえるものでもあるでしょう。
寛大になるには気遣いが大切
また、お客様相手の接客業やお店での商売もそうです。
自分の事を最優先にして接客していたら「総スカン」を喰らって二度とそのお店に足を運んでもらえなくなるでしょう。
つまり寛大な気持ちに必要なものは自己の損得ではなく「気遣い」が最も大事、という事になるのですね。
「気遣い」、つまり相手の気持ちを最優先にして考え、相手が気持ちよくなるような行動を努めて行う様です。
この考え方がやがてあなたの心に「寛大さというものを植え付けてくれる、という事になるのです。
相手の気持ちを慮り、相手の嫌がるような言動や行動は一切やらない。
これが「寛大な心」の礎となるのでしょう。
肝を据わらせる
寛大な心を持つための考え方や行動の2つ目は「胆を据わらせる」です。
これはあなたのハートがどれくらい「ドッシリ」と構えているかを試している表現といえるでしょう。
そう、相手に対して「寛大さ」を発揮しようと思えば、まず自分自身が相手よりも大きな懐を持っていないことには話しになりません。
小さな器で「寛大になれ」と言ってもそれは物理的に無理な相談なのです。
ビクビク、おどおどしていては寛大になれない
「腹が据わる」という事はあなたの器量がビクビクオドオドしていない事を言い表しています。
そうでないと、あなたは誰の前に立っても同じような「寛大さ」というものを発揮できなくなってしまうはずです。
Aという人間の前では寛大でいられるのにBという人間の前に行ったら全然、寛大になれない、というのでは全く話が違ってきてしまうのです。
常に堂々と自信を持った言動をする
「寛大な心」を持つ人間は常に堂々としています。
それは自分に対して自信があるからでそういった背景があって初めてあなたが取る言動の全てに「寛大さ」が備わってくるのです。
人間は日頃からの言動や行動によって、自信というものを鍛えていきます。
自信は昨日、今日で一気に備わるようなものではありません。
何年も何年も辛苦の思いを繰り返していって、やっと手に入れる事が出来るものなのです。
そうやって苦労して手に入れた自信だからこそ、誰の前に行っても常に堂々と振る舞うことができますし、人にも平等に接することが出来るのです。
常に堂々とした自信と言動を持っている人は、心の鍛え方が一本、筋が通っている、と思っていただいていいでしょう。
様々な経験を積む
寛大な心を持つための考え方や行動の3つ目は「様々な経験を積む」です。
確かに様々な経験を積まないことには「寛大な心」というものは醸成されません。
経験値の大きい、それも数の多い方の方が圧倒的に自身の心を鍛えるのに説得力がある事は誰も否定することはできないでしょう。
つまり「寛大さ」というものを会得するためには出来るだけ多くの、それも自身にとって辛い経験をたくさん積んでこられた方の方が、圧倒的に物事に対する見方が鷹揚になりちょっとやそっとの事では驚くこともなくなり冷静で平等な判断を下せる、という事になるからです。
小さなことでくよくよ悩まなくなる
様々な経験を積んだ方は、小さな事ではくよくよ悩んだりする必要がなくなってしまいます。
これは物事を迅速に処理する上において非常に効率の良い判断となります。
反対に経験値の小さい方は、何かを決定したり判断したりするための「経験」という判断材料が乏しいため如何せん、時間をかけ過ぎてしまいます。
これは経営者レベルとなってくると非常に不利な事態を引き起こしてしまうのです。
人生におけるビジネスの最前線は1分1秒を争う熾烈な戦場です。
いい獲物を引き当てられるかどうかは一瞬の判断力が全てです。
なのに、もたもたくよくよしていては永久手的にビジネスチャンスを逃し続けてしまうでしょう。
小さなことでくよくよしていては大きな仕事はこなせません。
小さな失敗をないがしろにしろ、とは言いませんが「大よく小を制す」というように大きな成功を収めるためには目先の小さな失敗はむしろ「損して得取れ」という発想で乗りきるくらいの「胆力」が必要となってくるのですよ。
上手に力を抜くポイントが分かるようになる
小さなことにくよくよしてしまう、ということは物事の大きな流れが見えていない、という事にもつながるでしょう。
だから自分の判断がどういう結果を招くのかが怖くておどおどしてしまうのです。
だから様々な経験が必要になってくるのです。
それも若いうちにたくさん、積んでおかなければなりません。
そうしないと柔軟な発想力が生まれてこなくなってしまい常に失敗を恐れる後ろ向きな人生の歩き方を迫られる羽目になってしまいます。
多くの経験を積んでいれば、上手に力を抜くポイントが分かるようになってきます。
これは自ら進んで失敗経験を積んだ者にしか分からない特権です。
そういった経験をたくさん積んだ方の方が世間では有利になる理屈、もうご理解いただけましたよね?
人には常に笑顔で接する
寛大な心を持つための考え方や行動の4つ目は「人には常に笑顔で接する」です。
そもそも「寛大さ」とは相手を受け入れる度量の大きさ。
度量の大きな人ほど対人関係においては余裕を漂わせているものです。
人と接する時に余裕ある態度。
それは「笑顔」です。
「笑顔」を作れるかどうかで相手に与える印象は大きく変わってきてしまうのです。
それほど「笑顔」の威力はその人の「寛大さ」の象徴といえるものなのですよね。
話し方はゆっくり目にする
しかし、いくら顔を「笑顔」に変えても話し方が早口で一方的にまくしたてるようにしていては、せっかくの笑顔も台無しです。
笑顔はゆっくり目に話す事によって初めて相手に好印象を与えるのです。
早口は、いくら笑顔を振りまいてもほとんどいい印象は与えられない、という事に早く気付くべきでしょうね。
早口では、かえって悪い印象を植え付ける結果になるかも分かりません。
一方的なペースで早口で話しながらも常に笑顔は崩していない、というのは人を騙す時の常套手段とも言えるでしょう。
もしくは相手の話を全然、聞かない姿勢ですね。
これでは相手から信頼感を得ることができないでしょう。
そうなると、とても寛大性をアピールする、なんていう事も難しくなるでしょうね。
人の話をよく聞く
寛大な心を持つための考え方や行動の5つ目は「人の話をよく聞く」です。
寛大な心を持つ人の真骨頂は、いかなる時でも相手の話を「聞く」という姿勢を崩さない事なのです。
困りごとの相談というものは、話す方としたら誰にでも話せるものではありません。
相手を選んで選んで選び抜いた末に、「この人なら安心だ」と思える人に初めて相談できるものですよね。
そのような対象になれる人間というのは誰でもいいわけではありません。
そこにその人の「寛大さ」が試されてくるのです。
人に言えないくらいの悩み事や相談、あるいは恥ずかしい打ち明け話などをいとも簡単に外部の人間に秘密をばらしてしまうような人間に誰が相談するでしょう?
この事一つとっても、寛大な心を持つ人間の包容力というものがいかに相手の人にとって重要か、という事を物語っていますよね。
自分の話ばかりする人に寛大な人はいない
また、人の話しを真摯に嫌な顔もせずにとつとつと聞く姿勢が重要な事であるのに対し、その反対で人の話しを聞かずむしろ自分の話しばかりする人は、とても寛大な心がある人、とは周囲から認識されないでしょう。
つまり「寛大な心」を有している人というのは「聞く」姿勢があると同時に「自慢話」などの自分本位の話をしない、という共通点があるのです。
人の話しを全く聞かず、自分の話しばかりする人をあなたは信用できますでしょうか?果たしてそのような人に重要な案件を聞いてもらいたくなるでしょうか?
無理難題を聞いてもらいたいと思う人は藁をもすがる心境になっています。
しかしいくら聞いてもらっても、こちらの話が右から左に抜けるだけであとは相手の人の自慢話ばかりを聞かされていたのでは全く意味がありません。
寛大さというものは「無償の愛」の精神がないことには身につかないもののようなのです。
人に甘く自分に厳しくする
寛大な心を持つための考え方や行動の6つ目は「人に甘く自分に厳しくする」です。
「寛大な心」というものはまず自分に厳しい境遇を与え、それに打ち克って周囲の物事を見ていく「目」が備わらないことにはなかなか身につかないものです。
それくらい「寛大さ」というものは出来た人間にしか体現できないものなのです。
多くの人は自分の事が可愛いものです。
自分に有利になることなら何でもやりたいはずです。
反対に他者に対しては自分の有利さを損なわれないようにするためにキツク当たったりわざと嫌な事を押しつけたり、といった行為に出やすいものではないでしょうか?
しかし、これらの行動をいつまでもやっていては人間としての真の成長はあり得ません。
自分に甘く、他人に冷たい態度を取っている人間の成長というものは、ある時期を境にしてピタッと止まってしまうものなのです。
自分には厳しめにするのがポイント
「仏」の世界で修行するお坊さんたちがいい例でしょう。
彼らは朝から床に就くまで己に厳しい修行を与えて日々、鍛錬をすることを日課としています。
それによって世俗の色恋や物欲などを己の心から排除しているのです。
「寛大な心」というものはこれくらい、厳しい修行を己に果たさないことには自身の心に育むことが出来ないもの、とも言えるのでしょう。
ちょっとやそっとの気持ちの入れ替えくらいでは身につかないのが「寛大さ」というもののようです
ですが、心を鎮めて己のあらゆる「欲」を正面から見据えてその根源を見抜き、正しい教えでもってこれを鍛えてゆければ、きっといつかはあなたも「寛大な心」が芽生えるはずです。
「自分には縁のないものだ」と諦めてしまったら本当に永遠に身につかないでしょう。
だからこそ、諦めることなく毎日を生きましょう。
常に「そうありたい」と強く願うだけでも物事はいい方向に運んでいくようになりますからね。
こだわりを強くしない
寛大な心を持つための考え方や行動の7つ目は「こだわりを強くしない」です。
「こだわり」というものは結局、自己都合であり自己中心的な発想の権化のようなものです。
それは自分の好きな事を誰にも邪魔されたくない、という一種の欲望の体現なのです。
そのような気持ちを持ち続けているうちは、人の頼みや困りごとの相談などに対して、満足のいく結果を残せるような回答は行えないでしょうね。
と同時に強いこだわりを持っている人に対して、困っている人がそのような人の所に相談に行くような事もないでしょう。
ハードルを上げると寛容になれない
我の強い人というのは、自身の短所とも思える点を指摘されると、余計に自身の「我」を守るような行動に出てしまうことです。
つまり「ハードル」をどんどん上げてしまう結果になってしまうのです。
これではいつまでたっても「寛大な心」というものは身につけることが出来ませんね。
俗に言うところの「寛容さ」というものは「寛大な心」を身につけるためには是非ともマスターしておきたいものです。
「寛容」な面があまりにも欠けていては「寛大な心」を身につけられるはずもないからです。
ただ現実的にはなかなかうまくはいかないでしょう。
それは自身にとって嫌な事や腹の立つことを我慢しなければならないからです。
それが一種の「こだわり」ともいえるのですが、「こだわり」とは言うならば自分自身の行動規範の「ものさし」ともなるルールのようなもの。
それは自身の「正義」でもあるわけです。
それを根底から覆し、我慢して相手の要望に応えられるかどうか?
「こだわり」を捨て去るためには今まで自分が正しいと信じてきたものを一切合切、捨て去る勇気が求められるでしょうね。
それが出来るかどうか、です。
几帳面ではない
寛大な心を持つための考え方や行動の8つ目は「几帳面ではない」という事です。
「几帳面」とは「完璧」とか「こだわり」に通じるものがあります。
そこには大きく自己満足が支配しており、自分の気に入るかどうか、という尺度が決め手となってきます。
だから几帳面な人、と他者から言われたり呼ばれたりした場合、それは必ずしも褒め言葉ではない事に注意してください。
「几帳面」はむしろ融通が利かず、一つのやり方や方法だけがこの世で絶対、という頭の硬さを実証しているようなものですからね。
そのような狭い心の持ち主に「寛大な心」を要求しても無理というのも頷ける話しです、
完璧を求めると寛大な心を忘れる
「几帳面」に代表される「完璧性」は所詮、自己中心的な発想です。
他者の意見にまるで耳を貸さない堅物さんの発想と言えるでしょう。
何しろ「自分がこの世で一番、正しい」と思っているからこそ、几帳面にやり方を改める事もなく我が道を進めるのです。
「寛大な心」を持つ人に固定された観念はありません。
「無我」というか「無流儀」というか、とにかくどのような作法、発想にも耳を傾け良いと思ったものは素直に褒め、しかしだからといって他者の行いを暗に批判したりはしません。
だから多くの人から支持と信頼を得るのです。
「几帳面」がいいか、悪いかはこの際、問題ではありません。
時流の変化に応じてタイムリーな動きを行う事が出来るかどうか。
「寛大な心」とはそのような「無手勝流」ともいえるものとも言えるでしょうね。
寛大な心にもメリットとデメリットが
では次です。
「寛大な心」を持つ人は本当に素晴らしい、という印象を持たれた方も多いと思うのですがでは本当に「寛大な心」は世間の全ての人にとって歓迎すべきものなのでしょうか?
「寛大な心」のメリットとデメリット面を探ってみることにしましょう。
メリット
「寛大な心」のメリットはなんといっても多くの人に歓迎され愛される象徴のような存在になれる事です。
相手の性格や癖を厭わず、誰に対しても嫌な顔一つみせず、奉仕できるのですから人から信用されて当たり前でしょう。
「善人」とはまさに「寛大な心」を持った人の事を言うのでしょうね。
人から恨まれたり嫌われたりすることがないだけに一生、平穏で平和的な人生を送れることでしょう。
デメリット
一方で「寛大な心」を持った人のデメリットとは何でしょうか?それは欲望があまりにもなさすぎるために起こる、ある「悲劇」を背負っていることです。
それは「命」に対する危険性です。
この例で最も説得力があるのが「イエス・キリスト」の磔の刑ではないでしょうか?彼は自身の弟子の裏切りによって無実の罪で処刑されるという悲劇に見舞われています。
それでもキリストは寛大な心を捨てず、誰の事も恨まずその命を捧げたのです。
果たして一般の人間がここまでの事が出来るでしょうか?もしあなたに愛する人があった場合、その人の悲しみを犠牲にしてでも自らの命を捧げるような事が出来るでしょうか?
真の「寛大さ」とは個人の損得を超越しないことには成り立ちません。
残念ながら神でもない人間が「寛大さ」を求めようとすること自体、どこか無理があるのかも分からないのです。
そこが一般人としての人間が求める「寛大さ」の最も大きなデメリットかも分からないのです。
まとめ
如何だったでしょうか?「寛大な心」について、それを持つための考え方や行動を中心にして紹介して参りました。
「寛大な心」。
実に奥が深いですね。
最終的に神の域にまでさしかからないと真の「寛大さ」というものはあり得ないのかもしれません。
人間には命があります。
それは有限です。
限りなく生き続けれる命を持った人間はこの世に一人もいません。
そんな状況だから、人間が行える「寛大さ」にも必然的に限界があって当然でしょう。
自らの命を代償にしてまで行う「寛大性」は全く「寛大」とは言えないという事です。
よって生きる術において、より良き人生を送るための一環として「寛大な心」というものを身につけて欲しいものです。
それによって自分自身だけでなく周囲の人にも「幸」と「生き甲斐」を生んでこその「寛大な心」です。
そうならないのならすぐにでも捨て去ってあなたの事を愛する人の気持ちを裏切らない生き方を模索した方がいいかも分かりませんね。