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寛大な心を持つための8個の考え方や行動


寛大な心を持った人。

憧れますねえ。

尊敬しますねえ。

私のような短気ですぐにカッとなりやすい人間にとったら「寛大な心を持った人」というのはまさしく「聖人君子」の生まれ変わりか?と思えるほど畏敬の念を禁じ得ないのです。

それでは既に人生、長く生きてしまった人物にはもう「寛大」な心を持つ資格はないのでしょうか?そしてこれから長い人生を歩んでいく、であろうあなたたち。

出来るものなら狭量で自己中心的な人間になるよりも「寛大」な人物になった方がはるかにいい事がたくさん起こるような気がしませんか?

それでは今回は「寛大な心」という事をテーマに取り上げ、みていく事に致しましょう。

寛大な心を持つと人生は好転する!

人は他者に対して労わりや優しい心を持った方がいい人生を送れる、という事を暗黙的に知っています。

自分が損さえしなければそれでいい、という生き方を選んでしまうと、なるほど短いスパンでみたらいい思いをすることもあるかも分かりませんね。

しかし、長い目で見たら結局、損をしている、という事に気づくはずです。

いえ、そもそも「損得」という考え方自体が既に良くない人生を歩んでいると言ってもいいでしょう。

それでは寛大な心を持つ、という意味をまず考えていきましょう。

寛大な心とはどういう心?

「寛大な心」。

一体どういう意味なのでしょうか?

何をもって「あの人は寛大な心を持っている人だ」と人から言われるようになるのでしょうか?

まずはそこからみていく事に致しましょう。

人を許す心


「寛大な心」というものの決定的な意味合いは「人を許す心」で決まりでしょう。

あなたは何も思わずにストレートに人を許す事は出来ますか?

この質問に対してしばらく考え込む人が世の中に一番多いタイプの人なのでしょう。

つまり「善人」というタイプです。

しかしいくら「善人」であっても他者から嫌な事をされたり悪い事をされたりしたら腹を立てます。

怒ります。

それが普通の人間の感情であり損得を抜きにしたものの道理でもあるからです。

言うならば「寛大な心」というものはそのような多くの善人のそのまた上を行く存在の人の事なのかも分かりませんね。

つまり、自分自身にとって悪い結果、であったり損をさせられるような行為をされているにも関わらず、ニコニコとまではいかなくても平常心を失わずにその者の取った行為を罰せず許してあげる、という行動を違和感なく行える人の事を言うのです。

これは口で言うのは簡単でしょうが、もし自分が当事者だったらどうでしょうか?相手の比例や暴言、あるいは暴力行為を許してあげる気持ちの度量が果たしてあるでしょうか?

「寛大な心」というのは一種の悟りの境地かも分かりませんね。

つまり自分にとって失うものは何もない、という状況になって初めて成し得られるものかも分かりません。

まだまだ悟りきれていない私如きではとてもここまでの心境には届きませんね。

どんな人や状況も受け入れる心

「寛大な心」の意味の2つ目は「どんな人や状況も受け入れられる心」の事を言います。

そうでしょう、でなければとても「寛大」な措置は取れないでしょう。

人が人の事を許せるかどうか、はその人の持つ「価値観」によって様々に変わってくると思います。

という事はその人の立場によって相手の人間次第では、受け入れられる条件も変わってくるでしょう。

そう簡単に条件を丸飲み出来ない所に人間の損得勘定の難しさが表れてくるのです。

国対国の交渉事などはまさに好例ではないでしょうか?どこの国も必ずや自国の「国益」を最優先事項に挙げて相手国と交渉します。

出来るだけ自分のところに美味しい思いを持ってこようとして皆、必死です。

昔から「損して得取れ」という諺がありますよね。

今は損をしているように見えても長い目で見たらこっちの方が得になるという事です。

一つ例を挙げるとすれば戦国時代の両雄、豊臣秀吉と徳川家康の関係を上げざるを得ません。

天下を取った秀吉は家康が目障りなので都のある京都から遠い、関東に領土替えを命じて移動させました。

目の上のたんこぶが遠いところに行ってくれたと、秀吉はさぞかし胸をなでおろしたことでしょう。

しかし、その関東の地が後に300年近く続く江戸時代の都になるとは当の本人は全く見通せていませんでしたね。

家康から見たら、まさに損して得を取った事例なのです。

まあ、家康がそこまで「寛大」な心の持ち主だったかは定かではありません。

もしかしたら悔しくて悔しくてしょうがなかったのかも知れません。