それと同じように考えるてみるのです。
そうすれば利己的な人に対するダイレクトな怒りの感情はやわらぎ、正しい方向へ導いてあげようという優しい親心も湧いてくるかも知れません。
少なくとも利己的な人から受ける苦痛は軽減されそうです。
関わらない
利己的な人にはできるだけ関わらない、交流をほぼ絶つという対処の方法もありそうです。
身近にいる関係者の立場から、一度善意の第三者に引っ込んで、第三者の目で観察をしてみます。
そうするとまた違った光景が見えてくる可能性は大いにあります。
また利己的な人の側も何らかの変化を見せる可能性があります。
いきなり食ってかかってくるかも知れません。
実際の反応はどうなるかわかりませんが、多少なりとも新しい発見があれば、それだけでも成功といえるでしょう。
やってみる価値は高そうです。
干渉しない
これも利己的な人との関係見直しですが、程度をもう少し軽くしてみます。
これまで同様に交流は続けながら、判断や決定に関しては何ら干渉しない、という突き放し方です。
たとえ請われても相談には乗らず、意見の表明もしないままでおきます。
利己的な人が、本当に干渉を望んでいないのか、実は寂しくてもっとかまってほしくてしかたがないのか、見極めることができるのではないでしょうか。
そうなればより効果的な対処方法を採ることができます。
たまには許す心を持つ
利己的な人は、何か失敗やトラブルがあっても、相手に許しを乞うような純情は持ち合わせていないことでしょう。
持ち合わせていてもおそらく隠しています。
そんな彼らをことあるごとに諫めていても、思うような効果は上がりません。
ときには汝の敵を愛せよ、ではありませんが、神のような広い心で許すことも考えてみましょう。
ただし利己的な人にフリーハンドを得た、と勘違いさせてはなりません。
許す心を持つのは何回かに一回、実害の少ない事例に限っておきましょう。
行き過ぎた行動は注意してあげる
利己的な人は何事についても行き過ぎが目立ちます。
余りにも他人の利益を考えない目に余る行動には、許す心をもたず例外なく注意を与えましょう。
しかしその目に余る行動の基準も、やはり相対的なものに過ぎません。
結局は世間一般の常識に照らして、ということになるでしょう。
これでは極めてあいまいなままです。
実際に親切のつもりで行ったことが、要らぬおせっかいにとられた、というケースも世の中には多いでしょう。
つまり注意する方もバランス感覚を問われることになります。
慎重なアドバイスを行いましょう。
利己的な人は人生も上手くいかない
人生とは人同士が互いに影響を与え合う相互作用の連続です。
それが行われる場所を社会と呼びならわしています。
しっかりした自己を確立することは、その社会で活動を行っていく上での前提条件です。
自己の経済基盤を確立し、自己主張して交渉ができるようになって、初めて自立した人間として社会に立てるようになります。
利己的といわれる人は、そこまでの過程ですでに問題を抱えていたのだ、と考えられます。
恵まれない家庭環境や、事件・事故の経験はその人に大きな影響を与えているでしょう。