しかし恵まれた家庭環境で育った人でもいろいろな問題を抱えています。
ここで筆者はかつての同僚女性のことを思い出します。
その女性は頭もセンスもよく、動きも実にキビキビしていました。
しかし何となく違和感がありました。
それは同僚男性との接し方です。
怒る、拗ねる、甘える、機嫌をとるなどの男性への働きかけが日常的にうっとおしいほど豊富で、しかも濃いのです。
何年か後、彼女の家族構成を聞いて合点がいきました。
兄が三人いていずれも秀才、彼女は四人兄弟の末っ子だというのです。
おそらく可愛がられ放題に育ち、いつも優秀で頼りになる兄たちに甘える生活だったのでしょう。
知的水準の高さもうかがわれました。
しかし周囲にいる普通の男性たちにとっては、ちょっと過剰でした。
そのため男性陣の彼女への好き嫌いははっきり分かれました。
中堅幹部となって活躍していましたが、影響力のある地位につくと、ハッキリものを言いすぎるところが、しばしば摩擦を起こすようになります。
議論をまとめるのは得意ではありませんでした。
その傾向が強くなったところで、本社の主流ラインからは外されました。
反応は「え、何で?」という声と、「仕方がないよな。
」という声にやはり2分されていました。
その後確か1~2年のうちに退社しています。
彼女には、男性とは三人の兄たちのように、結局は自分の意志を汲んでくれる、という確信のようなものがあったように思います。
しかし地位が上がると甘えは通用しなくなりました。
確信は誤解だったのです。
フォローしてくれる人も減っていきます。
それに世の中の男性は兄たちほど優秀な人格者ばかりではありませんでした。
もう少し別の接し方が必要だったのです。
彼女はいわゆる利己的な人の13個の特徴を備えていたわけではありません。
仲のよい友人も理解者もたくさんいました。
しかしだんだん特異な存在と認識されるようになり、会社生活の最後には利己的な人とほとんど同じ評価になっていたようです。
彼女の会社人生は理解者やアドヴァイザーに事欠くことはありませんでしたが、結局はうまくいきませんでした。
このストーリーは、利己的な存在とみられてはならない、ということ示しています。
知らず知らずのうちに利己的に映ってしまうことがある。
これは大きな問題です。
利己的ではない人も決して油断はできません。
利己的な人は、あちこちに頭をぶつけながら、曲がりくねった人生を歩むことになります。
そして利己的な人は、常に自分は誤解されている、という思い込みを持っています。
自分の人生は公私ともにうまくいっていない。
悪いのは周囲の無理解である、というわけです。
この感覚がなくならないかぎり、人生の好転することはなさそうどうです。
逆になくしてしまえば、疑いなく今よりうまく回り始めるでしょう。
その可能性は閉ざさないようにしたいものです。