今回はハッピーな「両思い」、つまり「相思相愛」について語っていきたいと思います。

今の時代、悲しい事もあり、辛い事も生きていく中で多くを経験されると思いますが、

その中でかけがえのないこの「他者からの愛情」をより大切にしていくための方法をご紹介していければなと思っております。

色んなところで耳にする相思相愛

まず「相思相愛」とは世の中のどんなシチュエーションでお聞きするでしょうか?

街中を歩いていても、テレビを見ていても、この「相思相愛」は耳にする言葉かも知れません。

元々は「愛」という文字が入っている分、「恋愛の意味」で使われる事が多いと思います。

しかし現代では意味が拡張しているせいか恋愛事意外にも、「飼い主とペットの関係」、「クラブと選手の移籍問題」などでも使ったりしているようです。

このように現代社会はある種「荒み過ぎた社会」とも言えるのかも知れませんから、どの分野にも人の温かみ、つまり「愛」に餓えているのが現状なのかも知れません。

これって相思相愛?確認してみよう

しかしそうは言っても、みなさんの日常生活でこの「相思相愛」と用いるときにはやはり、「恋愛」が一番多いのではないかと思います。

求めているという意味でもコレですかね?

そんな是非とも自分の身にも訪れてほしい「相思相愛」は、特に「人間関係」を考える上で、

どんな状況でその予兆が感じられるでしょうか?次に項目を分けながらまとめていきたいと思います。

一緒にいるだけで照れちゃう

誰かと一緒に居て照れるときは、少なくとも自分が相手に好意を持っているという事が出来ると思います。

でなければ照れている意味があまり説明できませんからね?

そう考えれば、相手が自分と居る時に「照れている状況」があれば、自分の感情と同じ様に相手も自分に好意を持っているのかも知れません。

ちゃんと目を見て話を聞いてくれる

人は基本的に「人の目を見て話すこと」を避けます。

これは恐いお兄さん同士のけんかで「メンチを切る」、「ガンを飛ばす」などの状況で言えば分かりやすいかもしれません。

つまり本来「相手の目を見る事」は、「威嚇」の意味が強いという事です。

しかし、その人が自分の目を見て話してくれる事に「好感を抱く」のはなぜでしょうか?

威嚇の意味が強い「他人の目を見る行為」が心地よいのはなぜでしょうか?

それは「目を見られる事は嫌だけど、その嫌なことであってもこの人にならそうされたい」と思っているからです。

「本来嫌いな事が、人によって好きになる」、これは「愛情」でなくて何なんでしょうか?

「自分の目を見て話を聞いてくれること」は、相手からの心遣いなどが伝わってきそうですね?

でも、目をみているとお互い照れちゃう

しかし、あまりに見つめ合っているとやはり恥ずかしいですよね?

でもその「恥ずかしい」のは何ででしょうね?お互いに「好きだから」なのではないでしょうか?

あんまり人前で「イチャイチャ」しないように。

自分にしか見せない姿がある

よくペットのイヌやネコが、「仰向けになってお腹を出して寝ること」ってありますよね?

本来は「腹を出す」のはとても危険な行為です。

4足歩行では急に天敵から襲われれば、いち早く危険を察知し「逃げるため」には「うつ伏せ」の方が絶対に良いでしょう。

つまり家族の前で「仰向けに寝る」のは、誰も自分を攻撃してくるものが居ないという安心感から、「よりリラックスしている」という事に他なりません。

相手に対し「何らかの警戒心が強ければ、守りに入る」のが動物の長年培ってきた本能です。

ですからその本能が「この人なら大丈夫」と言って、安心した「仰向けポーズのような」、

リラックスしている一面を見せてくれていたら、「相手からの信頼は大きい」ということが言えるのかも知れません。

自分と一緒にいると楽しそう

相手がもし「良く笑う」という面があれば、相思相愛度が高いのかもしれません。

「この人いつも笑っているな」と思ったとき、「自分が居ない時のその人」は一体どんな態度なのでしょうか?

もし自分と一緒に居ない時のその人が楽しそうでなければ、あなたに対しての愛情が強いのかも知れませんね?

なんでも話せる

他人の警戒心という観点から話をすれば、「どんな話題でも相手に話せる」ということも相思相愛の意味合いは強いのかも知れません。

この世の中で「誰にも言わないでね?」と言って周りに知れ渡ってきた話が一体いくつあるでしょうか?

通常、人に隠しごとを話すと、高確率で周囲に広まってしまうと思います。

人は他人の噂話が好きとかいろいろあると思いますので、こればっかりは仕方ありません。

ですからそういった経験からも通常は「人に話しても良いような話かどうかブレーキを掛ける」のが当り前の心理です。

そういった事からも、「何でも話してくれる」というのは「信頼度が高い」という事が言えると思いますので、そういう方の言葉は大事にしておいた方が良いかもしれません。

一緒に何かしようとしてくれる


「好き」という感情は、「一蓮托生」だと常々思っています。

人に対しても、物事に対してもそうです。

好きだからこそ「近くに置いておきたい」、好きだからこそ「一緒に居させてほしい」と思うのが「好き」という感情の本質なのだと思うのです。

逆に「嫌い」は「断固拒絶」の感情です。

嫌いな人・モノはとにかく「自分の人生に登場してほしくない」、「関わりたくない」というものが本音でしょう。

嫌いなものとは徹底的に自分との関係を断ちたいと人は考えるのだと思います。

つまり、「一緒に居たい」というのはそれだけで「好意を寄せている」ということが言えると思いますし、「心配している」という感情もあるのだと思います。

この人と「一蓮托生でありたい…」と思えるのは相手に多大な好意を持っていると思いますがみなさんはどう思いますか?

否定しない

「好きな人を否定する」のはなかなかできない事です。

なるべくなら「やりたくない事」ですよね?あなたがそういった考えならば、相手もそうかもしれません。

そう考えると、先ほどの「嫌いなものに対しては断固拒絶が心理」という事も、ここでは活きてくる表現だと思います。

巷ではよく、あるものを見てそのものを肯定する時、「これ可愛いかも…」と語尾に「かもしれない」を付けたりします。

こういった場合、自分は相手に「その物」がカワイイという肯定の意思を示したい気持ちはあるが全面的に肯定してしまうと、

「もしかしたら相手が否定するかもしれない」という恐怖心から、「全面的には肯定しないでいる」、「何となく逃げ道を作っている」という事が言えると思います。

最終的な判断は「保留」にしている状態ということですね。

つまりそのものを全面的に肯定してしまうと、相手が「そんなに可愛くないでしょ?」と否定して来たときに、

まるで「そのものをカワイイと判断した自分の人間性まで同時に否定されたような気持ちになる」というリスクがある訳です。

こういったリスク回避をするためにも、「カワイイかも…」で言い切らずに止めておいて、相手に否定された時には、

「そうだね、良く観たら可愛くはなかった…」と相手の意思に沿って、共にそのものを否定出来るのです。

こういった感覚からも、「他者からの否定」はとても恐い事です。

それをする事とは、「断固拒否」、「自分の人生の登場人物であってほしくない」ということですから、

逆に「否定されない」というだけで、かなりの恋愛や友情のアドバンテージがあるのではないでしょうか?

好きな人は基本的に「否定しない」のは、自分の近くに居てほしい「一蓮托生」の念があるからではないでしょうか?

相手の欠点を認めてくれる

更に言えば、人の欠点をも認められ、受け入れられるような存在は、かなりの「信頼度が高い」と言えるのではないでしょうか?誰でも「欠点」はあります。

しかし「欠点」なのですから、なかなか認めてあげる事は難しい事です。

よく「相手の欠点を10個言い合って、それでも笑いあえたら本当の親友だ」みたいな事を言うと思います。

他人の欠点を認める事は、「通常は嫌だし認めたくないけど、この人なら許せる」という言わば「特例」ということにはならないでしょうか?

つまりその特例を認めるという事は、それだけその人物がその人にとって、「重大な人」とも言えるのだと思います。

更に、欠点を知っているという事は、それだけ互いに「付き合いがある」ということも言えると思います。

相手の嫌な部分を知っていて尚且つ許せるような存在ならば、互いの信頼度は高く、相思相愛であると言えるのではないでしょうか?

「相思相愛」って?

では次に相思相愛の本来の意味合いなどを見ていきたいと思います。

この荒んだ社会で人に対する思いやりや愛情が、一際重要視されているように思いますので、意味もしっかり把握してその「温かさ」にあやかりたいものですね?

意味

まず前半の「相思」は相手を慕う事、そして後半の「相愛」が相手を愛する事という意味です。

まとめるとするならば、「相手を思いやり、愛し合う事」という意味になりますね?

つまり、「自分も相手が好きだし、相手も自分が好き」という事になります。

 

四字熟語

同じ様に「恋愛」で用いられる「四字熟語」は他にもあります。

例えば「双宿双飛(そうしゅくそうひ)」は、「双」が鳥のつがいを示し、親鳥が夫婦仲良く巣から飛び立ち、

また舞い戻って来るような様から、「夫婦仲良く二人三脚生活していく」という意味があります。

また、「一日千秋(いちじつせんしゅう)」は、一日会っていないと、まるで秋季三回分も会っていないように思える「一日三秋」から転じて出来た言葉だそうです。

こう見るとなんだかロマンチックな意味ですね?

類義語

類義語を時点で調べてみると、「慕い合う」、「蜜月」、「両思い」などが出てきます。

ここで「蜜月(みつげつ)」とは、結婚して間もない夫婦の関係という意味ですが、語源はなんと英語の「ハネムーン(Honey Moon)」から来ているみたいなんです。

そもそもこの「ハネムーン」は、古代ゲルマン人の中で結婚の1カ月間は「ハチミツ酒」を呑む習慣があった事や、

結婚直後は「蜜のように甘くとろけるような関係」、

または「結婚生活は満月がすぐ欠けてしまうように脆く儚い一時的なもの」という意味などから出来たという語源には諸説ある面白い言葉です。

そんな意味深い言葉であるハネムーンの「Honey」を蜜、「Moon」を月と和訳して出来たのが「蜜月」だそうですよ?言葉って面白いですね?

使い方

では「相思相愛」の話しに戻りますが、使い方は簡単です。

相思相愛が互いに信頼し合った状態であることが分かればいいのです。

カップルで使うとき

例えば「カップル」で使う場合には、「あの二人いつも一緒で仲良しだね?」という状況ではこの相思相愛が使えるのではないでしょうか?

ですから、「どこに行くのにもいつも一緒のあの二人は本当に相思相愛の関係だ」という具合になると思います。

友達同士で使うとき


また友人同士で使う時には、「あの二人は例え離れていても、いつも互いを思い、信頼し合っているので、

正に相思相愛の関係だ」というように、「友人同士」でも使えるのではないでしょうか?

相思相愛ってどういう状態?

では具体的に、「相思相愛」とはどんな関係なのでしょうか?

上記のように「カップルの場合」と、「友人の場合」の2つに分けてまとめていきたいと思います。

カップル同士の相思相愛

恋愛で使う場合の「相思相愛」は、やはり何と言っても「愛情」を強く表現する時に用いるのだと思います。

そこで、相思相愛に足る、「愛情」とは何なんでしょうか?

お互いに尊敬している

まずは互いの「尊厳心」が重要でしょう。

互いに何でもいいので「尊敬し合える部分」があると、互いに「愛情を持てる」のだと思います。

互いに「ここは勝てない」という部分があるかどうかとも言えると思います。

恋愛の最終形を例えば「夫婦関係」とすると、夫婦とは二人三脚で互いに信頼し合い、助け合っていかなくてはなりません。

当然生活していけば、「自分だけではままならない部分」も浮き彫りになるでしょう。

そこで「役割分担」をしていくと、「自分には出来ないことも相手には出来る」というようなことも分かっていくでしょう。

そうなれば当然、相手に対する「有難み」、つまりは尊敬する心が生まれるのではないでしょうか?

そういった「相手に対し尊敬する心」が生まれれば、他人に「この人は凄いんだ」、「こんなスゴイ人と愛を育める自分はなんて幸せなんだ」と思い、自然と「相手への愛情」が強まっていく事でしょう。

この「尊敬」が互いに起これば、それだけ「愛情が強くなる」ので、結果的に「相思相愛」になるのだと思います。

「尊敬」を持てれば何だっていいと思います。

それは「家事」でも、「仕事においての何か」でも、「性格」でも、「価値観」でも、「趣味」でも何だって良いでしょう。

重要なのはその要素が相手にとって「凄いな」、「勝てないな」と思うかどうかが大切で、互いに勝てない部分があれば、それが尊厳心に繋がり、愛情へと向いて行くのだと思います。

相思相愛の気持ちを実現していきたい場合は、「互いに尊敬できるようなこと」を見つけてみてはいかがでしょうか?

相手を見直して愛情が深まっていくかも知れません。

愛情表現がなくても好き

長く同じ人と居れば、「相手は自分の事をどう考えているだろうか?」と分からなくなる事も多々あると思います。

それを確かめずに置いておく事が全て「信頼」と一括りにしてしまう事は難儀な事かも知れません。

しかし一方で綺麗事と言われても、「言葉の無い恋愛」が一番高尚だとも思えるのです。

具体的な愛情表現や、「好きという言葉」が無くても、相手を信頼して愛し合える、そんな関係があれば他に勝てる恋愛など無いと思います。

どんなに二人の間を引き裂こうとしても、実現できる人は居ないでしょう。

そんな状況が「本当の意味での相思相愛」なのかも知れません。

急ですが、ここで例を挙げましょう。

「私のこと好き?」と恋人に聞く人が世の中にはいると思います。

この行為を全否定する気はありません。

本当に不安ならば確かめてみるのも手でしょう。

しかし私は言いたいのです。

この「私のこと好き?」は一部で「意味が無いこと」とも言えると思います。

例えば、「私のこと好き?」と聞くのはなぜでしょうか?多分相手が自分をどう思っているかが不安なのでしょう。

その外側には見えない「内に秘めた本当の思い」を確かめたいのでしょうね?

その内に秘めた思いを「会話」という方法で、「言葉」を使って確かめようとしていますが、そもそもそんなやり方が上手くいくのでしょうか?

「私のこと好き?」と言って、相手が「じゃあ…、好き」と答えたら、どうなんでしょうか?

「じゃあ…?、なんで間があるの?」、「本当は私の事嫌いなんじゃあないの?」となったら、相手のリアクションが本当か嘘かは全くの別で、

「会話では相手の気持ちは探れない」ということを自分で証明してしまった事になります。

その「じゃあ…好き」があなたをこよなく愛する本当の気持ちなのかも知れません。

しかしそんな事には関心は無く、「じゃあ…」の間に囚われて、相手に疑念が湧く結果を見出してしまっています。

つまり結局は、「会話などの直接的な愛情表現では相思相愛かは確かめられない」ということです。

このことは人の「感情と言動は別物」ということを前提に置かなければならないでしょう。

相手は「思った事を全て口に出すロボットのようなもの」という訳ではありません。

あなたと同じように「恥ずかしいから言えない」とか、「本当の事を言うのには勇気が居る」とか思っていて言えないことだってあるのです。

それを自分でも言えない状況があり得るのに、「相手にばかり気持ちを求めているような事があったら」、

相手の本当の気持ちに気づいてあげられていないという事なので、その時点ですでに「相思相愛」ではないでしょう。

「相手の直接的な愛情表現」を、「自分への正直な気持ち」と直結させる事はとても難しい判断のいる事です。

それが「言葉」であっても、「行動・しぐさ」であっても同じ様に判断が難しい事でしょう。

ですから、最終的には「信頼関係」が重要になるのです。

相手を否定せずに信じる心を自ら持つような、価値観が何よりも重要なのです。

それでも納得がいかない場合、「やはり言葉の重要」と思う場合は、相手の本当の気持ちを探るために、「言いやすい状況」、「伝えやすい状況」を作る事が重要でしょう。

相手の気持ちが気になるのならば、「まず自分から」。

これが鉄則です。

自分から相手の気持ちに立って、「率先して」自己表現していき、それで相手が「私もあなたの事が好きよ」とか、

「僕も君のこんな所が大好きだよ」とあなたの勇気ある行動に初めて相手が応えてくれるのでしょう。

そういったように恋愛で「相思相愛」を考える上では、直接的な愛情表現を経て、いろいろな経験があって、

相手の気持ちを直接確かめることなく、「分かり合える」ようになれば、本当の意味で相思相愛と言えるのではないでしょうか?

安心感があって心地よい


私のアルバイト時代、年下の女の子に恋愛で悩んでいるということを聞いたので、

「どんな恋愛が良いの?」と聞くとその娘は、「燃えるような刺激的な恋愛がしたい」と言っていました。

私は彼女のそんな意見を「否定したい」訳ではありません。

それも含めて人の自由なので、誰にも干渉出来る事ではないでしょう。

若い世代には誰でもドラマや映画のような刺激的な恋愛に夢見る時期もあると思います。

しかし、私の目指す恋愛は「刺激的でなくても信頼し合える関係」が一つあります。

別に私の話なんてどうでも良いのですが、「恋愛は刺激的」とも言えると思いますが同時に「恋愛は安心感」とも言っていいのではないかとも思うのです。

確かにいつでも「ドキドキワクワクするような恋愛」は魅力的ではありますが、同時に「少し不安定で疲れる」とも言えると思います。

というのはそもそもなぜ「ドキドキ」するのでしょうか?

それは、「相手の行動が読めない」、「不意を突いている」からなのではないでしょうか?

もしそうなら「相手の行動を予測できない」ため、とても「不安定な関係」とも言えると思います。

まぁそれが良いのでしょうが…。

つまりは、「刺激的な恋愛を求める事」は、「後先予測できない不安定な恋愛に身を置く事」を求めているということなのではないでしょうか?

これは更に考えると、本当の意味で「以心伝心」出来ているのだろうか?

また刺激さを求めるあまり、大事にしなくてはならない「二人の関係、または将来性を無下にしていないか?」と考えてしまうのです。

かなり主観が過ぎましたが、「刺激的な恋愛」を説く方々に楯突きたい訳ではありません。

何度も言いますが個人の自由です。

ですから結局何が言いたいのかというと、「恋愛」に相思相愛を持ち出す場合は、「互いが対等」という考え方も捨ててはいけません。

つまりは「刺激的な恋愛」は果たして「相思相愛」になっているのか?

「自分だけが勝手にドキドキして、自己満足になっていないのか?」と思う訳です。

ですので、恋愛に相思相愛を考えるときには、前述のような「直接的な愛情表現がなくても」、「刺激的でなくても」、

相思相愛は別のところにあると思うので、互いに「安心感」を見いだせる恋愛の方が互いの気持ちに沿った、「本当の相思相愛」になると思うのです。

「安心」とは、「マンネリ」とも取られるかも知れませんが、「マンネリ」で何が悪いんでしょうか?

むしろ「二人の間だけで分かっている事」、「二人で飽きるまでいつもやっている事」、こんなことがあるって事だけで私は「素敵だな」と思います。

マンネリを感じられるまで煮詰まった「味の十分に滲みたおでんの大根」のような恋愛に「本当の意味での相思相愛」がある気がします。

それだけ相手を理解し合っている訳ですからね?

とにかくお互い大好き!

何はともあれ、理屈など関係なく互いに「好き」という気持ちがあるに越した事はありません。

とにかく相手を好きで好きでたまらない、相手が自分を好いてくれている状況も愛おしくてたまらないというのが「相思相愛」と言えるのかも知れません。

気になる人との「相思相愛な関係」を築きたいとお思いの方は、自分から相手を好きになって、相手に気持ちをぶつけていくのが良いかと思いますがどうでしょうか?

友達同士の相思相愛

つづいて、友人同士の場合はこの「相思相愛の関係」はどうなるでしょうか?順番に観ていきましょう。

沈黙ですら居心地がいい

恋愛編で「直接的な愛情表現が無くても…」という話がありましたが、それを友人に例えると、「沈黙も心地よい」というのが的確な表現だと思いますがどうでしょうか?

例えば初対面の方と二人っきりになった時、あなたはどのような接し方をするでしょうか?

大抵の方が話を進めて、「相手との共通点を見出し」、より深い話しなどをしていく事が多いと思います。

中にはそんなにこれから頻繁に会う訳ではない人に対しては、そつない「世間話を二つ三つ」として終わる事もあるのかも知れません。

そういった意味では、「沈黙が恐怖」と感じるシチュエーションは世の中に多いのかも知れません。

「息のつまりそうな無言のエレベータ」、「気まずい無言の美容院」、「牽制し合いの地獄のタクシー車内」などなど、探せばキリが無いでしょう。

そんな地獄感満載の「沈黙」ですが、もしこの地獄が「心地よい」と思えれば、それは「相思相愛」言わずしてどんな関係なのでしょうか?

互いに話さなくても「心地よい」ということは、互いに「無駄な話ししなくてもいいだろう」、「無理してまで話す必要はない」と、とてもリラックスし合っているという証拠です。

沈黙を恐れずにただいるだけで時間を使える二人は相思相愛の友情があるのかも知れません。

いちいち報告しなくてもわかってくれる

私は忙しいとよく、友人との連絡を先延ばしにしてしまうのですが、先日久しぶりに高校時代の友人に会った時、

「連絡もせずに怒っているかなぁ?」と思ってしましたが、とても自然に何事もなかったかのように話してきました。

友人曰く、「何年会えない時間があっても、こうして会えた時にまるで高校時代に戻ったように自然と話せる関係が好きだ」と言ったのです。

また、「せっかく会えたのにケンカしてては時間がもったいない」とも言ったのです。

この言葉に私は、忙しいからと言って友人に連絡していなかった状況への反省と、

その友人への友情の足りなさへの恥ずかしさに、いてもたっても居れなくなって何度も謝ってしまいました。

高校時代の友人は本当に私の事を心配してくれていたのです。

離れていても相手を信頼して、特別返信がなくても待つことのできるくらい「解り合っていること」が、友情に置いての「相思相愛」なのかも知れません。

暖かく見守ってくれる

友人に対して「自分の友人なのだから、こういう人間であってほしい」という気持ちが強いと、

相手の行動などに、「自分の考え」を押し付けてしまい、納得のいかない部分を強く否定したりしてしまう事があると思います。

こういった状況の時、相手は果たして「喜んでいる」でしょうか?

自分には自分の考え方があるように、友人にも友人の考え方があると思います。

そういった状況下では、自分の考えも大切ですが相手の人生なので、「相手の気持ちも考えること」が重要になってくると思います。

多少納得のいかない行動があっても、友人ならば「温かく見守ること」も重要だと思います。

あなたはその友人と何のために友人関係になったのでしょうか?

自分の納得のいく、自分の言う事を聞く、操り人形のような存在が欲しかったために友人になった訳ではないと思います。

どこかで相手を信頼して、「温かく見守ること」が出来れば、相手の気持ちも尊重できて、互いの気持ちが通じ合った、「相思相愛」の関係になれるのかも知れません。

常に気にしてくれる

友人はあなたの事を「常に気にしてくれて」います。

これを鬱陶しいと感じてしまう事もあるかと思います。

しかし、あなたも好きな人や、頼れる友人が出来ると、そこかで「気になる気持ち」を持ってしまう事はあるかと思います。

「好きな気持ちは肯定する事」と言いましたが、人の考えとはそんなものなのです。

自分に向けられたら、時に鬱陶しいと思う事も、立場が逆転してしまったときは相手が嫌がるかも知れないけど、「心配してしまう」ということはよくあると思います。

ですから、周囲に「心配してくれる友人がいること」はとても幸せな事です。

私もそんな友人を大切にしたいと思います。

フラットな関係でも大丈夫!

人は対等な関係であると、不安に感じる部分があります。

何でもいいから相手よりも優位に立っていた方が安心だからです。

しかし、本当の友人関係、つまりは「相思相愛」の関係を築く上では、この「対等な立場」という考え方が何処かで必要になるのではないでしょうか?

これは、「損得勘定でない」、別に付き合う上で損も得もないような関係であるため、変に競り合う必要性もないので、「立場は対等で大丈夫」というのが本当の友人関係ではないでしょうか?

よく「敬語で恋愛は成立しない」とか言われますが、これは「友情」でも同じなのかも知れません。

友人と何か競り合う心があると、「良いライバル」には成れるのかも知れませんが、「相思相愛の友人」には成れないのかも知れません。

相思相愛の関係を築こう!

いかがでしたでしょうか?今回は相思相愛について記事を書いてきましたが、また少し説教すさくなってしまった事を謝ります。

すみませんでした。

しかし忘れないでほしいのは、「相思相愛」ですから、相手との関係を考える際、「互いに慕いあっている、愛し合っている」という事が重要なのです。

つまりは「し合う」という言葉が大切な訳で、この「し合う」ことを相手から求め過ぎてはいけません。

人に気持ちを伝えたりすることはとても勇気のいる事です。

本当に相思相愛の関係を持てる人が欲しいのなら、自分からその難しい「気持ちを伝える行為」をして、相手に認めてもらう事がとても大切な事だと思います。

ですから、求める相思相愛の気持ちが友情であれ、恋愛あれ、どちらにしても「自分の気持ち」が一番重要でしょう。

なかなか大変な事かも知れませんが、相手との関係が拗れたかな?と思うときもご自身の行動や言葉にも注目して、本当の意味で「対等」に関係を築いていって下さい。