それ以上のことも求めないし、それ以下になれともいわない。
そんな人がいたら、心地よくいることができますよね。
もしかしたら、今この記事を読んでくださっている方の中には、家族がまだ生存していて自分のことを100%受け入れてくれるところがあるから“安心できる感覚がわからない”とおっしゃる方もいるかもしれません。
そのような方もいれば、幼いころから存在を否定され、自分の居場所がないと勘違いしている方もいるのです。
ありのままの自分でいることができる、こんな簡単にできることのように思えることでも現代社会では“やりにくい”“生きにくい”社会になっているということを理解すると、わかりやすいかもしれません。
気を遣わなくていい人
一歩家から外に出れば(なかには家の中でも)、誰かに気遣いをして生きていることがあるかと思います。
自分の立場を守るためでもあるし、相手のご機嫌を損なわないためでもあるし、なにしろ自分が相手を気遣っておけばそれだけでこの場がまるくおさまるのだから、気遣いをしているという人もいるでしょう。
それさえも人間のストレスになりかねません。
そのため、いつでも気を遣っている人というのは、安心できる場所がなくなっているともいうことができます。
要するに、気を使わなくていい…本当の自分でいることができる、相手の心の状態に対していつでもアンテナを張り巡らしていることもないのです。
それって、とても心が休まる状態だと思いませんか?
気を張らなくて済む
誰かにいつでも気を使っている人というのは、ひとつ前の項目から言葉をもってくると“常に周りの人にアンテナをはっている”状態になります。
気を張ること自体は悪いことではありません。
少しのストレスは、人の心を律し、そしてその心を成長させてくれるからです。
しかし、あまりにもいつまでも気を張っている生活をするというのも心の健康を損なうキッカケになりかねません。
気を遣わなくていいということは、それだけストレスのない生活が約束されているということであり、「心を休めることができる」状態でもあるのです。
なんでも話せる人
あなたには何でも話すことのできる人っていますか?もしかしたら、何でも話すことなんてできる人は一人もいない!という人もいるかもしれません。
周りの人はみんな敵で信じることができないのでしょう。
とてもおつらい人生を送っているのかもしれないですね。
もしもそのような状況の中で、心から信用することができて、何でも話すことのできる人が現れたらどうでしょうか?誰でも子供のころは、おそらく保護者の方に「今日あったこと」だとか「今感じていること」というのを何も考えることなく、伝えていたかと思います。
だって、聞いてくれるし、受け入れてくれるからですよね。
しかし、大人になるにつれて「この人にはこのことを話す」「あの人にはこのことを話してはいけない」なんて、人によって話す内容を変えることも増えてきたはず。
なんでもかんでもオールジャンルの話、自分の気持ちをドーンとぶつけることができる人っていないんですよね。
だからこそ、何でも話すことができる、自分の話したことを聞いてくれる人ってとても安心することができるのです。
黙って聞いてくれる
話を聞いてくれていて、さらにそこに批判を加えてくる人もいますね。
「それはちがう」とか「でも」「だって」とか。
世の中にはどんな話題に対しても議論を交わしたい人もいます。