インターネットが普及し、スマホやタブレットなどで、いつでもどこでも欲しい情報が手に入るとっても便利な現代で、「生きづらい」と感じたことはありませんんか?
SNSなどで、簡単に友達や家族と連絡が取れ、知りたいことなどもキーボードをタイプするか音声で瞬時に簡単に手に入る。
まるで、SF映画や漫画、アニメなどで表現されていた近未来の中に生きているようなこの時代、なぜか「生きづらい」と感じる。
もしかしたら、高度情報化社会が提示する、現在の暗部なのかもしれませんよね。
便利な世の中だからこその生きづらさ
例えば、スマホの普及で、何をしていても情報にリンクしていたり、ゲームに参加したりしている。
一見すると、とても便利で素晴らしい時代ですが、果たしてそうでしょうか?私からすると、生きるということほど、楽しく、夢中になれるゲームはないのですが。。。
電車内で、歩きながら、車や自転車、レストランやカフェなどで、スマホを操作していない人の方が少ないと思いませんか?中には、話をしながらスマホを操作している器用な人もいます。
まるで、「スマホを操作していなければならない」という何かがあるのかのように感じます。
内心、無意識に「そのようなことが変だ」、「おかしい」と感じていても周りがしていることなので自身もスマホを持っているから同じようにしている「右へ倣えの日常」に、心が警告を鳴らしているから「生きづらい」と感じているのではないでしょうか。
まるで、いつでもどこでも「常にスマホを操作する」ということを、心の何処かで悪いことのように感じてしまっているということもあるからなのかもしれません。
日本人特有の「周りに気を遣う」ということだったり、「迷惑をかけない」などの素晴らしい精神とも言える一般的なマナーが、少しずつズレているという「違和感」が積もり積もって「生きづらい」と感じてしまっているのかもしません。
また、「本音を言わない国」では、インターネットなどで匿名でコメントを出せたりする便利な機能などは、表立って思っていることを表現するにはぴったりな時代なのかもしれませんよね。
その日本人にはマッチした機能などが、逆効果で陰湿なものになっているような気がしてならないのは私だけでしょうか。
ネガティブ思考から抜け出せなくなる
例えば、「SNS」ですが、友人などからSNSで連絡が来たら、「すぐに返信しなくてはならない」と勝手に義務感のように感じてしまったり、「連絡が遅かったり、返信しないことで悪く思われるのではないか」と強迫観念のように勝手に思っているということがあるのかもしれません。
本当は、そんなことは全くないとわかっているのに。
スマホやSNSを例えに出してみましたが、「生きづらい」と感じる理由はそれ以外にもありますよね。
「時代」という幻想、「年代」という思い込み、「流行」という名の呪文などなどetc。
これらの3つのことは、普段の生活の中でよく耳にするワードではないでしょうか。
無意識に感じている「違和感」が積もり積もって、「生きづらい」と感じてしまっているのかもしれません。
そして、「生きづらい」と感じている自分がおかしいのではないかと考えてしまう。
全くそのようなことはないのに、周りがそうしているから、自分だけ変な思考をしているということ自体に嫌悪感すら感じてしまっているのかもしれませんよね。
ですが、社会とは、そのようなものです。
いろんな人が集まって成り立っているものです。
いろんな人がいれば、それぞれの思考や行動がある。
それを、良いと感じるか感じないか。
または、無関心を装うのか。
ですから、どのように感じていようと、全く問題ありませんので、安心してください。
もし、「生きづらい」と感じているのであれば、人間として正常だと私は思います。
いつの世も、誰もが「生きづらい」と感じていたことだろうと思います。
「生きづらい」と感じているということは、世の中から目を背けていないということではないでしょうか。
目を背けていると感じることがないことを感じ取っているから。
あなたは目を背けていないから、「何かが変だ」と感じていることが、最終的に「生きづらい」と感じてしまっているということではないでしょうか。
目を背けてばかりいては、肝心なものを見逃すことになり、あとできっと後悔します。
なぜ、「生きづらい」と感じるのかを掘り下げて、自分を見つめ直して、検討してみるというのはどうでしょうか。
面白いと思いませんか。
時間潰しのゲームに明け暮れるより、「生きる」ということはどういうことなのかと考え、自分を見つめ直し、生きる。