1.自分では気付けないことを指摘されることが多い
ですので、客観的に他人に指摘してもらうと、自分では気づけなかったことを指摘されることが多いものです。
そこには、自分では思いもよらなかった現実があるかもしれませんね。
また、ショックな事実を知らされることになるかもしれません。
でも自分が気付けなかった部分にこそ、成長のヒントは隠されているものです。
それに、そういった自分では気づかなかった部分は、実は自分が受け止められず、見たくなくて無意識に避けていた部分だったりもするものです。
そこを自覚せずして…反省も、反省から学びを得ることも出来ませんよね。
反省って、ただでさえ嫌。
それを他人に指摘されるのなんて、もっと嫌なことでしょう。
だけど実際、失敗をしてしまった時、そこに居るのは自分だけじゃないですよね。
周りには人がいて、あなたの失敗を見ているのです。
だからこそ恥ずかしくなるし、落ち込んだりもするんですよね。
つまり、他人にどう思われているか。
自分の失敗を、他人がどう見ているかを知ることも、反省するためには必要な事になってくるのです。
それに、他人の客観的な指摘は、理にかなった指摘になっているはずです。
失敗したこと、その道理をわきまえるには、他人からの指摘は欠かせません。
3.自分を責め過ぎないこと
上手に反省をするためには、「自分を責め過ぎないこと」もテクニックのひとつです。
自分に起きたこと、自分がしてしまった失敗をちゃんと自覚すると、改めて自分のふがいなさを、実感することになるでしょう。
ダメな自分が情けなくて落ち込むし、どうしてこんな失敗をしてしまったんだと、自分を責めてしまいます。
だけど、自分を責めることは反省ではありません。
責めたい気持ちは分かりますが、責めてばかりじゃ次に進めないのです。
もちろん、誰だって失敗すれば落ち込むし、自分を責めます。
でもその気持ちをいつまでも引きずることの無いよう、自分で切り替えていかなければなりません。
それに責めるということは、自分を非難するということですよね。
また、辞書によると責めるとは、“苦しめること・悩ますこと”ともあります。
この自責の念に囚われていて、反省が出来るでしょうか?自分を苦しめ、悩ませるばかりで、現実を受けとめられていません。
責めることはある意味、自傷行為とも言えるのです。
反省すべき時に反省をするのではなく、自分を痛めつけるように責めているということは、現実から逃げているということにもなりますよね。
受け入れられない自分の失敗を感じるよりも、自ら自分を責めることで問題をすり替えてしまうのです。
また、自傷行為を行う理由のひとつには、周囲からの注目を浴びたり、同情を集める目的もあったりします。
失敗した時、みんなの前で、また、迷惑をかけた相手の前で、必要以上に自分を責め立てている場合は、一種のパフォーマンスになっているということです。
自傷行為を行う理由には様々なものがありますが、多くはその痛みによって、何か他の痛みを和らげようとしていたり、直視できない問題への気持ちを、紛らわそうとしていたりすることが考えられます。
何か失敗してしまった時、自分を責めることは、自分の気持ちを落ち着かせるために、一時は必要な行為なのかもしれません。
ですが厳しいことを言えば、責めることは反省するうえで、ほとんど意味がないと言えるのです。
1.反省は次に活かすためのもの
失敗したら、いつまでも自分を責めてはいられません
それがパフォーマンス化してしまえば、周囲の人に対して不誠実な態度にもなってしまいます。
自責が過ぎると、信用さえも失ってしまいかねないのです。
もし、周囲の人の信用を失ったとしたのなら、それは失敗のせいではなく、自分を責めるばかりで反省していないからかもしれません。