「完璧な人間なんていない。」
いろんな人が言っていて、聞いたことがあるフレーズです。
ですが、現実には、実際に「完璧な人間」のような人はいます。
またの表現を「非の打ち所がない人」とも言いますよね。
その人は、どのような思考や行動をしていて、なぜ、「非の打ち所がない人」と周りの人に感じられるようになったのでしょうか。
「非の打ち所がない人」にあなたはなりたいですか?
なれると思いますか?
私の考えでは、なれます。
なぜなら、そう感じさせる人が現実にいるからです。
ということは、自分もなれると考えます。
「私には無理だ」と頭の中で否定している間は、なれないと思います。
何に関してもそうだと思いますが、頭で否定してしまうと、できるものもできません。
できる可能性があるのに、自分からブレーキを踏んでしまうようなものです。
前に進めば、やってみればできることをアクセルを踏むことだとすると、アクセルを踏む前からブレーキを踏んでしまっていて、アクセルが踏めなかったりする状態です。
そうやって考えてみると、なんとも悲しいと言いますか、もったいないとは思いませんか?
アクセルを踏んで先に進むことで、ブレーキを踏んで止まっている場所とは景色が違って見えるということを知ることができないのです。
なんとも悲しいですよね。
では、どうやったら、非の打ち所のない人になれるのでしょうか?
一番簡単な方法は、仕事でもなんででもそうですが、「非の打ち所のない人」が周りにいるならば、その人の仕方を真似ることです。
または、その人からいろいろと聞き出し、参考にして、やってみることです。
やって出来ない事はないと思います。
あとは、やるかやらないかです。
そういう観点を持ってみて、その「非の打ち所がない人」と接すれば、きっと何かを学べます。
つまり、あなたも「非の打ち所がない人」と言われるような人になれるのです。
今回は、「非の打ち所がない人」とはどういう人なのか、そして、どうすれば「非の打ち所がない人」になることができるのかを一緒に考えてみましょう。
非の打ち所がない人の9個の特徴
「非の打ち所がない人」が職場でも交友関係の中にでも入れば、その人はどうやって日々過ごしているのかなどが気になりますよね。
ですが、その人は周りの人が感じているほど意識しているという人はいないのかもしれません。
その人が周りに「非の打ち所がない人」と思われるように振る舞っているのであれば、あなたにもできるということだと思います。
つまり、誰でもできるのです。
考え方などの違いがきっとあるのでしょう。
そのようなことに気がつくきっかけになるように次のことを自分に当てはめて考えてみて下さい。
誰にでも優しい
「誰にでも優しい」というのは、かなりな美徳だと思います。
悟りを開いた人のように感じることですよね。
ですが、その人も人間です。
当然、不快に思ったり、怒るという感情も持ち合わせていると思います。
そういう感情を表に出すのではなく、優しくするということに徹しているのかもしれません。
私が思うのが、そういう人は、怒るなどというダークな気持ちは誰でも感じるものだと思いますが、表に出しても良いことはないということがわかっている人だと思います。
ただ、わかっているという訳ではなく、本当に自分で理解しているということです。
例えば、感情を言葉に出すと、言霊というのがあり、ダークサイドな感情を出せば、それが自分に帰ってくるということを本当に理解しているのではないかと思います。
引き寄せるというか、そういう類のものを意識しているのかもしれませんし、苦い経験がある人なのかもしれません。
私の考えすぎで、単なる優しい性格の人なのかもしれませんが、いろいろと勘ぐるとそういうことになるのかなと思います。
人に優しくすると、自分にも帰ってくるというのは、お分りいただけると思いますが、それを意識しすぎては相手にもわかってしまいますので、さりげない優しさができればベストですよね。
私の個人的な主観なのですが、怒ることも優しさだと思っています。
その理由は、誰も怒りたくて怒る人はいないと思っているからです。
相手が悪いという何かがあったなら、注意などはしても怒らないという人もいると思います。
私もいきなり怒るということはしません。
ですが、何度も繰り返したり、目に余ると感じた場合は怒ることもあります。
それがその人の為になりますし、怒られたインパクトはその人に残ります。
次からは怒られたことはしなくなると思うからです。
優しく接する方が良いと思う場合は優しく接しますが、そうでないと思った場合は怒ることもあります。
人って、そういうものではないでしょうか。
現代では怒れない人もいるようです。
それに私は「?」と思ってしまいます。
怒ることが絶対いいとは言いませんが必要なことだと思います。
その人の為にも。
優しく接して全てが上手く行くという考えもあると思いますし、私もそう思っていますが、ダメな時は怒る。
怒るときは怒るという姿勢も大事だと思います。
人ですから。
あなたはどう思いますか?
考えてみて下さい。
正義感が強い
正義感が強いというのも「非の打ち所がない人」に共通する項目だと思います。
正義感などは、その人の性格や育ってきた環境で変わってくることなのかもしれませんが、正義感がなければ、この世は終わりだと思います。
正義感を出す場面というものが、普通に生活していると、そうそうあるものではないのかもしれませんが、いざという時に臆することなく正義感を表に出せるような人間、大人でいたいと私は思います。
責任感がある
「責任感がある」というのは、当たり前に持ち合わせていることだと思うのですが、中には「責任感がないな」と感じる人がいますよね。
私の場合は、仕事でそう感じる人と出会うのですが、「よくこれで仕事ができているな」と本当に不思議でなりません。
今の時代は、そういう人が多いのかどうなのか私にはよく分りませんが、たまたまそういう人が多いというだけなのかもしれません。
責任を持つというのは、仕事だけではなく、自分の生き方などにも当てはまることです。
大人であれば、自分の行動など全てに責任が付いて回るというのを理解できていないと仕事でも何でも責任を持った仕事や行動ができない人になるのではないかと思います。
もし、「責任」ということを考えたことがないのであれば、じっくり考えてみて下さい。
そして、自分なりの答えを出してみて下さい。
「非の打ち所がない人」と自分を照らし合わせてみて下さい。
その人と、自分の何が違うのかというのが一つでもわかれば、それは自分の成長に繋がることになりますので、気づかないよりは何十倍もマシです。
気がつけば、それをそのままにしておくことはなくなると思いますので、改善されていって、少しずつでも「非の打ち所がない人」に近づけることになり、いずれは自分もそういう人になれます。
精神的に大人
「精神的に大人になる」ということは、誰でもそう考えていることだと思いますが、実際にはできていないということが多いのかもしれませんよね。
私もそう感じています。
私は、もう結構な歳なのですが、まだまだ甘いなと感じたり、大人になりきれてないなと感じることがあります。
若い頃よりは、そう感じることが少なくなってきましたが、まだまだだと思います。
「精神的に大人というのは、どのようなことなのか?」ここでピックアップすることもいいことだと思うのですが、人それぞれ考え方が違うので、ご自身で考えて「精神的に大人」という自分を確立して行くのがベストだと思います。
または、実際に「精神的に大人だ」と感じる人と接する機会を多くしたりして、話をいっぱいしてみることです。
あなたが、「非の打ち所がない人」と感じる人というのは、「尊敬」や「憧れ」という気持ちもあると思います。
その人と話をして、自分のフィルターを通して答えを出すというのが一番の方法だと私は思います。
目の前にそういう人がいるというのは、とても恵まれている環境だと心から思えるといいですね。
お手本になる人がいるので、真似をしていけばあなたもそのような人になれるのですから。
真似をするというのは、言葉が陳腐かもしれませんが、真似をするとその人がどう感じていたりするのかというのも100%ではなくても何となくわかるものです。
そういう意味で真似るのです。
ぜひ、試してみてください。
少しでも、その人の感情などがわかるようになりますので、きっとあなたに良い結果をもたらすことになりますから。
自立している
いろんな意味で「自立している」というのも必要な要素だと思います。
何でも一人でできてしまうというのは、そうできるようになるまでは苦労があったりするものです。
誰しもが簡単にすぐできるようになるものではありません。
例えば、親元を離れて一人暮らしをすると、大変ですよね。
家事をしなくてはいけないですし、光熱費などのライフラインの支払いの為に、住んでいる家の家賃などのために働かなくてはなりません。
滞ることなく支払いができれば少しは違いますが、ちゃんと働かないで好きなことだけをやっていれば、支払いなどが滞るようになります。
そうなると、生活が儘ならなくなりますよね。
食事も自分で作るようになれば、偏った食事にならないようにしなければ、健康面に影響が出てきてしまいます。
などなど、そういうこともきちんとしなくてはなりません。
自立するということは、大人になるということでもありますし、世の中で信頼を得ることになると思います。
生活がきちんとできている人は、仕事でも何でもきちんとしている人だと思います。
それが、見る人によっては「非の打ち所がない人」と見えるのではないでしょうか。
あなたはどう思いますか?
甘えない
「甘え」というのは、いろんな状況で出てくると思います。
仕事でもプライベートでも。
そこで、多少の甘えをするというのも必要だと私は思います。
状況によってなので、一概にはこうだと言えないのですが、相手の好意を断ってしまうということがあると思うからです。
相手の好意を無駄にしてまで、「甘えない」というのを貫くということもカッコイイと思いますが、相手の好意は素直に受け止めてイイのではないでしょうか。
そうではなく最初から、甘えて、楽をしようなどという考えがあるのであれば、それは、違うと断言できると思います。
自分発信でお願いすることなどは、そういうことに当てはまるのかもしれません。
相手発信で甘えるなら「好意」ですので、受けても全然イイと思います。
簡単な説明ですが、ざっと説明するとそういう分け方になるのではないでしょうか。
中には、本当に甘えている子供のような人もいます。
そういう人は、当然「非の打ち所がない人」にはかけ離れていますし、仕事もできる人という印象は何一つ感じません。
「甘え」ということも、人によっていろいろ考えがあると思います。
自分で答えを出すのもイイですし、そうでなくても全く問題ないと思います。
ですが、「非の打ち所がない人」とあなたが感じる人はどうでしょうか?
そう考えてみて、いろいろと枝を広げていくというのも、自分を知る良いきっかけになるかもしれません。
そういう私は、相手の好意に甘えることがあります。
それは、自分の中では申し訳ないという気持ちでいっぱいで、必ず恩返しをすると心に決めています。
極端な説明でわかりづらいかもしれませんが、私は、そう思っています。
相手の好意を断るほど、傲慢だとは思っていませんし、相手の好意に甘える時というのは、とても忙しかったり、本当にキツかったりという時だと思うので、私はそういう時は甘えて、感謝の意を示して、頭を深々と下げます。
そして、必ずその人が同じようになったら恩を返すと心に決めています。
それが、当然だと思うからです。
甘えられないでできる、乗り切れることもありますが、相手が好意を示してくれて、それが他の人から見ると、「甘え」と取られようと取られまいと、あまり気にしません。
相手の好意を素直に受けることができる人間でいたいからです。
あなたはどう思いますか?
流されない
流されないで、自分をしっかり持っているという人はたくさんいるのかもしれません。
中には、本当に流される人もいますよね。
自分というものがないのか?
自分の意見などないのか?
と、ついつい思ってしまいますが、その人の生き方ですから、私が否定する必要はありません。
「流行に流される」、「人の意見に流される」というのは、誰しもがあることだと思います。
流されるという人は、何も考えていないや自分の意見などがないという考え方もあると思いますが、性格的に、「素直な人」と捉えることもできると思います。
自分がしっかりとあり、自分の意見があっても、頑固になってしまってはせっかくの素晴らしい人が台無しになってしまいますよね。
また、何でも流されてしまうというのも素晴らしい人が台無しになることだと思います。
結局は程よくあればイイのではないかと思います。
相手の意見などを尊重して、自分が間違っていると判断できる人や素直に相手の意見を聞ける人が理想なのではないでしょうか。
流されるということが、自分にとってプラスになるのか、マイナスになるのかの判断ができれば何も問題はないと思います。
自分にとってプラスになるのであれば、流されてもイイと思いますし、正解はないと思います。
頭が良く賢い
「頭が良く賢い」というのは、「非の打ち所がない人」の必須条件なのかもしれません。
IQなどが高い人がイイと言っているわけではなく、頭の回転がよく、知識や教養がある人のことを私は言っているのです。
「経験がモノを言う」ということもかなりあると思いますが、状況などがはっきりわかっていて、適切な判断ができる。
これだけでも周りには、かなり「出来る人」と思われるのではないでしょうか。
そういうことを心がけて、仕事などをしていると、当然ミスなどは少ないですし、結果を出すことになりますので、最終的には「非の打ち所がない人」という評価になるのかもしれませんよね。
良い大学を出ても、勉強ばかりで世間や社会を知らない人が、成功できないように、人として当たり前のことが出来た上で、知識や経験などがモノをイイ、正しい判断などが出来る人間になるには時間がかかるものです。
それを、机上の空論を知っただけで良しとするのではなく、自分で経験することが大事なのではないかと強く思います。
そういう人が「頭が良く賢い」と思われるのでないでしょうか。
運動神経が良い
運動神経が良い人が「非の打ち所がない人」と思われる要素の一つでもあると思います。
運動神経以外が素晴らしく、運動になるとダメという人は、「非の打ち所がない人」とは定義できないと思うからです。
そういう人は、「運動以外は非の打ち所にがない人」になってしまうと思います。
運動は、アスリート並みに良いのがイイと言っているわけではありません。
だいたい、そういう「非の打ちどころがない人」というのは、健康面や体型などを考慮して運動をしている人が多いので、運動神経が良い悪いという判断はもしかしたら間違っているのかもしれません。
運動をしない人で体型をキープできている人は、体質などが原因で、運動をしている人は、やはり、運動をしていない人とはいろんな面で違いがあります。
性格的なものもあるかもしれませんが、運動やスポーツをしている人というのは、明るいですし、声も大きく、ハキハキしています。
サバサバしていると言いますか、体育会系の典型と言えばわかりやすのかもしれません。
そういう人たちは、やはり、仕事が出来る人も多いです。
仕事だけではなく、プライベートでもお手本にしたいと思える人が多いと私は経験から感じています。
礼儀正しい
礼儀正しさは、「非の打ち所がない人」に限らず、人として必要な要素です。
そして、「非の打ち所がない人」は礼儀を忘れません。
人としてごく当たり前のことが出来るというのが、最低条件とも考えられる「非の打ち所がない人」なのですが、礼儀正しくない人は、ウジャウジャいます。
そういう人達は、決して「非の打ち所がない人」には慣れないでしょうし、なろうとも思っていないでしょう。
どれだけお金を稼いでいようと、どうであろうと、礼儀正しくない人はいますので、そのような人とは逆のことをすると「非の打ち所がない人」に近くのではないでしょうか。
人が生きている中で、特に日本人であれば、礼儀はとても大切なことの一つだと思います。
それができない人というのは、致命傷だと思います。
もし、礼儀に対して、あまり関心を持ったことがないのであれば、明日から人を見るときに礼儀がきちんとしているかどうかを気にしてみてください。
礼儀がきちんと出来る人というのは、たとえ仕事ができないとしても、その時だけで、いずれ出来るようになります。
周りの信頼も厚いのです。
嘘だと思うなら、礼儀を欠くようにしてみてください。
仕事も他のことでも、良いことが続かなくなりますから。
それくらい、日本社会では大切なことなのです。
じっくり礼儀というものを理解し、実践するようにしましょう。
それが、第一歩になりますから。
なにもかも完璧な非の打ち所がない人
あなたの周りにもいませんか?
あなたの周りには、必ず一人はいると思います。
「非の打ち所がない人」だと感じさせる人が。
年齢を問わず、いるはずです。
それが「いない」と言い切るなら、人を見る目がもしかしたら劣っているのかもしれませんし、自分が「非の打ち所がない人」だと残念ながら勘違いしているのかもしれません。
もし、あなたが「非の打ち所がない人」だと思っているなら、それでも問題ありませんが、本当にそういう人であれば、自分ではそうは思いません。
人にそう言われても「自分はまだまだです」と謙虚な態度と言動をします。
決して、「自分がそうだ」などと、自惚れた発言や態度はしません。
もし、そうしているのであれば、すぐに訂正したほうがいいですよ。
恥を晒しているようなものですから。
非の打ち所がない人になるには?
一生懸命で真面目に取り組む
一生懸命に何でも真面目に取り組むということをいつからやって来なくなりましたか?
そういう質問を自分にしてみると、結構面白いと思いますよ。
面白いというのは少し違うかもしれませんが、自問自答してみるのです。
子供の頃というのは、何にでも一生懸命に真面目に取り組んでいたことがありますよね。
いつからそういうのをしなくなったかわかりますか?
そして、なぜしなくなったか自分で理解できて、説明できますか?
大人になったからでしょうか?
それとも、一生懸命、真面目にやるのが恥ずかしいとでも感じたからでしょうか?
そういうことを自問自答しながら、箇条書きで書き出してみると頭で考えるよりもクリアにわかるようにになります。
まるで、霧が晴れるかのようにクリアになります。
もし、自分も「非の打ち所がない人」になりたいと思うなら、まずは、自分を見つめ直してみることが大事でもあります。
自分のことを知らずして、いろんなことがレベルアップするというのは難しことだからです。
自分の劣る部分というは、誰にでもあるものです。
それは、恥ずかしいとかそういうものではありませんので、変に考えないようにしてください。
それらを見つけることが重要で、見つけたらどうやったら劣る部分を補ったり、改善することができるのかと考えてみることです。
必ずやる必要はありません。
ですが、「非の打ち所がない人」になりたいなら、やってみて損はないと思います。
「非の打ち所がない人」というのは、今のあなたと何かが決定的に違うのです。
それに気がつくだけでも、かなり違うと私は思います。
答えを出すのは自分です。
決して、他人ではありません。
自分がどう生きるのかという方向性を決めるのも道を進むのも自分です。
もし、他人が決められるとしたら、それは、あなたをドアの前まで連れて行くことだけでしょう。
ドアの前に立ち、ドアを開けるのはあなたで、開けたドアから先に進むのはあなたなのですから。
じっくり考えてみてください。
【真面目な人になるには、こちらの記事もチェック!】
あなたも非の打ち所がない人になれるかも?
これまで述べてきたことは、ほんの一握りなのかもしれません。
シチュエーションによって、これまで述べてきた要素が通じない「非の打ち所がない人」もいるかもしれません。
そして、他の人がなれている、「非の打ち所がない人」にあなたがなれないはずはありませせん。
もし、なれないと思ったり、なろうとしないのであれば、それは、あなたの心が原因だと思います。
ここで述べてきたようなことというのは、人として、ごく当たり前のことだと思いませんか。
それを当たり前のようにやっていれば、「非の打ち所がない人」に誰でもなれると私は思います。
なろうとするかしないかの違いがあるだけです。
もし、「絶対なれない」と思っているなら、是非ともその「絶対なれない」という理由を教えていただきたいものです。
あなたの周りにいる「非の打ち所がない人」に、あなたはどのような感情を抱くでしょうか?
嫉妬ですか?
憧れですか?
理想ですか?
もし、嫉妬しているなら、あなたは幼稚な思考をしているとお伝えするべきでしょう。
もし、憧れや理想なら、あなたもなれると私はお伝えするべきでしょう。
その人も、最初から「非の打ち所のない人」になると思っていたわけではなく、あなたと同じ感情を持っていたのかもしれません。
毎日を必死に生きて、経験して、挫折して苦しんで、成長してきたのです。
それが、「非の打ち所がない人」になれた要因だと思います。
そして、その人にも同じように憧れたり、理想とする「非の打ち所がない人」がいたはずです。
もしかしたら、そういう風にいろいろと考えたりしていなくても、ただ「毎日を効率よくスムーズに何でも物事を進めるにはどうしたらいいのか」と考えて実践しただけなのかもしれません。
生きるという全てのことに対して、自分なりに真剣にコミットする思考をしただけなのかもしれません。
何でも真剣に取り組み、ミスは修正して二度と同じミスをしないようにする。
挨拶や礼儀などのマナーは欠かすことなく、道徳を考え直して日々を生きる。
もし、世の中のみんながみんな「非の打ち所がない人」になっていたら、世の中はどうなるでしょうか。
そう考えてみると、面白い思考の遊びができるかもしれません。
そういうことを時間をかけて考えてみて、実践してみると、いつの間にか自分がそうなれているかもしれません。
要は、自分次第だと思います。
難しく考えてしまうのは、人の悪い癖でもあると思います。
結果的には、シンプルが一番最良の方法だったということもよくありますよね。
「非の打ち所がない人」になるにはどうしたらいいかと考え過ぎるよりも、毎日を必死に生きてみることが、いつの間にか自分を高めることになり、周りが勝手に「非の打ちどころがなない人」だと思うようになるかもしれません。
人に迷惑をかけず、不愉快な思いをさせることなく、やることはきちんとやる。
簡単なことです。
そして、思い出してください。
子供の頃に、両親に言われ続けてきたことではありませんか?