お詫び文章を直筆で書くこともあれば、メールで送ることもありますが、どちらも形として残るため、きちんと誠意のある、そして間違いのない文章を送らなくてはなりません。
とくに一度トラブルのあった相手に対して送る文章ですので、より慎重な対応になるのは当たり前でしょう。
また、お詫び状を出すことによって、こちら側の非を全面的に認めることになりますので、お客様や取引先の会社からお詫び状を求められたからといって、直ぐにお詫び文章を書くわけにはいきません。
まずはこちらに確実に非があるかどうかをきちんと確認した上で、もし非がこちらにあるのならその時にはしっかりとお詫びの気持ちを文章で表すことになります。
お詫び文章を書く際には、「謹啓」や「急啓」といった頭語を書いてから内容に移るのが基本とされています。
相手はこちらの謝罪を待っているため、時候の挨拶は不要です。
頭語を書き、まずは謝罪をしたら次にトラブルが起きてしまった原因について分かりやすく事実を書きます。
もしその時点で原因が不明であれば、分かり次第必ず伝えるという旨を書きます。
原因を書いたら、具体的な解決策と今後の決意を書いてこちらの誠意を相手に伝えましょう。
あくまでも客観的な事実に基づく内容のみを書き、個人の主観や意見を述べるのは控えます。
そして最後に「謹言」や「謹白」の結語でお詫び文章を結びます。
謹啓と併せて覚えておきたい頭語
「謹啓」は、頭語の中でももっとも丁寧で敬意の高いものです。
そのため、自分よりも目上の相手や会社の取引先相手などに用いる機会が多く、また明らかに目下の相手でなければ、頭語を何にすればいいか分からない時には「謹啓」にしておけば間違いはないでしょう。
しかし、すべての場合に「謹啓」が用いられるわけではありません。
手紙やメールによってはもっと気軽な内容もありますし、送る相手が親しい間柄であれば、「謹啓」の頭語にすると少々他人行儀になってしまう印象があります。
そこで、「謹啓」以外にもいくつかある頭語についてご紹介していきます。
どの程度の関係の相手に対して用いれば良いのかなど、参考にして頂ければ幸いです。
拝啓
「拝啓(はいけい)」は、最も使用頻度の高い頭語といっても良いでしょう。
一般的な挨拶に用いられることが多く、丁寧過ぎず気軽過ぎないといった印象なので、大抵の場合はこの挨拶で済んでしまいます。
離れたところに住む友人や家族への手紙、親戚や恩師への手紙、知人への手紙など、顔見知り程度の関係から親しい友人まで、幅広く活用することが出来ます。
「以前お世話になった人だけど、そこまで丁寧過ぎることなく、ある程度の親しみを込めた手紙を送りたい」という場合にも用いることが出来ます。
「拝啓」の意味は「謹啓」同様に「つつしんで申し上げます」というものですが、「謹啓」よりは親しみやすい頭語ですので、どんなシーンでも活用することが出来るでしょう。
拝呈
「拝呈(はいてい)」は、「贈ることを、その相手を敬って言う謙譲語」ですが、他にも「手紙の書き始めに書いて、相手への敬意を表す語」という意味もあります。
この場合は後者の意味で、使い方は「拝啓」とよく似ています。
意味もほとんど同じで、「拝啓」同様に普段使いが出来る頭語ですので、「拝啓」と書く代わりに「拝呈」の語を用いることが出来ます。
一般的には「拝啓」の方がよく使われますし、手紙を送る際の例としても「拝啓」で書かれることはあっても「拝呈」で書かれることはあまりありません。
「拝啓」よりもマイナーなイメージが強く、あまり世間一般に浸透していない頭語ですので、「拝呈」という使い方があるということ自体を知らなかったという人も中にはいるでしょう。
しかし、ある種マイナーな頭語だからこそ、実際に使うことで、手紙を受け取った人には「教養があるのだな」と思わせることも出来るでしょう。
言葉の響きも「拝啓」よりもどこか落ち着いて、大人びた印象がありますので、使ったことのないという人は、手紙を出す機会があったら一度使ってみると良いかもしれませんね。
謹呈
「謹呈(きんてい)」は、「拝呈」よりももっと聴き馴染みのない言葉だと思います。
それもそのはずで、この頭語は単なる挨拶として用いられることはあまりないからです。
「謹呈」とは、「つつしんで物を差し上げる」という意味の言葉です。
そのため、何か贈り物をする際にのみ使われる機会があります。
例えば会社のコンペで優勝した人に対して商品を送る際に、一緒に賞状のような形で「謹呈」という頭語と、どんなことをして優秀と評され、また何を送られるのかを書かれた内容の紙を渡すことがあります。
他にも、特別なことをして何か賜りものをする際などにもこの「謹呈」という語を使うことがあります。
普段使いとして活用される機会は少なく、また丁寧な頭語ですので実際に自分が何かを賜ることや、誰かに贈る機会がなければこの言葉を使うことはほぼないといっても良いでしょう。