難しく考え過ぎないよう出来るだけ日常生活に出てきそうなシーンを想定してご紹介してゆきまますね。
「このヘッドホンは、究極の音のリアリティを追求している!」
この例文は、日頃、音楽好きな人が自分のこだわりの音を一つの「リアリティ」と捉える事によって一つの解釈基準を作り、「このランクよりも下のものはいい音とは認めない」という現実嗜好を垣間見せている言い方です。
どんな趣味であっても分野であっても、そこには自分のこだわりというものがあるはずです。
そのこだわりが「リアリティ」となってあなたの世界観を形作る、という事を言いたいわけなのです。
「今年の新入社員がリアリティショックを受けたようだ。」
新入社員というものはまだまだ現実の厳しさや真剣さを体感し切れていません。
感覚的にはそれまで4年間の大学生活における世界観がこの世の全て、のような現実感を持って生きてきました。
よって実際に入った会社の現実度がそれまで思い描いていた理想と大きく食い違いを起こしているために起こるのがこの「リアリティショック」という訳です。
この場合の「リアリティ」は自身が思い描いていた「世界観」と実際に入社してみてみた「現実」との差別観です。
これほど現実の「リアリティ」さが露骨に違っているとは…。
新入社員にとったら大きなカルチャーショックを受ける事かも分かりませんね。
「バーチャルリアリティの世界は私には馴染めません。」
「バーチャルリアリティ」。
仮想現実。
コンピューターが作り出す、いかにも現実っぽい嘘の世界の事です。
映画「マトリックス」でも取り上げられて有名になりましたよね。
もし、本当に精巧な「バーチャルリアリティ」の世界に放り込まれたら、現実と非現実の区別が分からなくなってしまい、人間は理性を失ってしまうかも分かりません。
それほど高度に進んだコンピューターグラフィックの技術は人間に「仮想世界」を見せてしまうようなのです。
「バーチャルリアリティ」の「現実感」というものは、人間の過去のデータと経験値によって作り出されたもの。
いわば「贋作」の世界です。
いかにも「創造」というテーマの最先端に言っているような気がして、実はすべては過去のおさらいなのです。
本来、「リアリティ」というものは今、そこにある現実を見て真実を感じるもの。
仮想世界が全てという発想に凝り固まってしまったら、明日が見えない危険性を感じてしまいそうですね。
「まだ5歳なのに、そのダンスの見事さは大人顔負けのリアリティさだ!」
5歳の子供が完成されたダンス技術を持っている大人のように踊ることなどできるはずがありませんよね。
体格的にも大きく見劣りしますし、技の切れもスピードも大人のダンスの域には到底、届かないものです。
それは見ている人がハッキリと認識できるはずです。
しかしながら、そんな肉体的ハンディをものともせず一心不乱に間違うことなく最後まで演技をやり続けてくれたなら、そこには5歳児が行った「リアリティ」がハッキリと存在してきます。
そう、この瞬間にその子しかでき得ない見事なダンスの「現実」が存在したのです。
ダンスの競技ならば確かに大人の行うレベルの方が圧倒的に高得点をたたき出すでしょう。
しかし、そこに年齢制を設ければ話は別です。
その5歳児のダンスはその「年齢層」の中でピカ一の光を輝かせたことは間違いありません。
これこそまさしく「リアリティ」の追求なのです。
「リアリティ」というものは行っているものの真剣さが加わって新たな真実味を増すようですね。
「リアリティを追求し過ぎた結果、今回の試作品は少々、見栄えがかなり良くないようだ」
この「リアリティ」はその作品の元となったモデルが存在していて、そのモデルのありのままの姿がいわゆる「リアリティ」とみなされています。
要するに元々の作品は「オリジナル」で今回の試作品は「模造品」という扱いになるのでしょう。
ただ、この試作品が芸術性を求めた作品だったとしたら、その試作品にオリジナルの「リアリティ」というものを求めすぎるのはいかがなものか、とも思います。
やはりいかなる世界においても「本物」といえる存在は1つだけ。