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余念がないとはどういう意味?使い方...(続き4)

研究テーマというものは成果を出すためには1ヶ月や2ヶ月ですぐに成果を出せるものもあれば1年、2年と歳月をかけてもまだ成果を出せない、というくらい地味で気が遠くなるようなものばかりです。

だからこそ研究というものには「余念なく」という意識が必要になってくるのですね。

整備に余念がなかった

「余念がない」の例文の4つ目は「整備に余念がなかった」です。

「整備」には様々な意味合いが含まれてきます。

公共工事で行う道路の整備。

野球の試合のグラウンドの整備。

関係各部署のメンバーへの意思の疎通のための整備、などなど。

いずれの場合もでこぼこになっている状態をフラットな状態に変化させるために行うのが「整備」でしょう。

「整備」を滞りなく行うためには無計画にやろうと思っても効率が悪く時間がかかるばかりです。

最も手っ取り早く最短の労力で完遂させようと思えば頭を使わなければなりません。

そのために「余念なく」時間と手間暇をかけて「整備」に持っていけるように事前打診を行ってゆくのです。

そう思うと「整備」という仕事は単純そうに見えて、やる人間の技量と知恵が試される仕事なのでしょうね。

余念もないほど打ち込む


「余念がない」の例文の5つ目は「余念もないほど打ち込む」です。

人が何かに対して打ち込む時は、あらゆる雑念や邪念といった類のものは、その人の心につけ入ってくる隙がないはずです。

「打ち込む」という事はそれほど一球入魂で一切の誘惑や誘いに惑わされない「岩」のような心を持った状態といえるでしょう。

例えば、あなたが鍛冶師だったとしましょう。

「刀」というものは何年も何年も修行を積んで初めて一人前の「鍛冶師」を名乗ることが出来ます。

ただの興味本位でやろうと思ってもとても務まるものではありません。

それほど本物の「刀」というものを作り上げるには血のにじむような努力と鍛錬が成されないと完成させることなど出来ない代物なのです。

だから鍛冶師の仕事は「打ち込む」という形容詞がピタッとはまるのです。

ちょっとでも身を抜いてしまったら本物の刀は作れないからでしょう。

このように「打ち込む」仕事や作業を行う時は「余念がない」という言葉がピタッとはまります。

「余念」には「真剣」とか「本物」といった意味が多分に含まれているからでしょう。

余念もない顔をする

「余念がない」の例文の6つ目は「余念もない顔をする」です。

「余念もない顔」。

日常的にはあまり使わない言葉かもしれませんね。

直訳すれば「余計な事や嘘、偽りを一切言わない真摯で純粋な表情」とでもなるでしょうか。

まあ、直訳通りの意味でとってもらっていいでしょう。

「余念がない」が「余計な事を言わない」という意味で捉えられる以上、「余念もない顔」はそのままの意味で取ってもらうに越したことはありません。

それにしても「余念のない顔」という言い方は、日常の会話ではあんまり使わない印象が濃いですね。

別の言い方をするならば「真剣な表情」だとか「真面目な顔つき」と言った方は馴染みがあるかも分かりませんね。

いずれにしても日本語には多岐に渡る心情描写があります。

そういった意味では「余念もない顔をする」と言われて聞く方が意味不明になっていては、その人の国語力を疑ってしまう事になってしまいます。

皆さん、国語は勉強するに越したことはありませんよ。

そうすれば「余念のない顔をする」と言われてもすぐにピーンとくることもできますからね。

情報収集に余念がない

「余念がない」の例文の7つ目は「情報収集に余念がない」です。