余念がない」。

よく聞く言葉ですね。

スポーツ選手が明日の決勝戦に向けて準備に余念がない、などという言い方でよく聞いたりします。

ではこの「余念がない」、実際の言葉の意味はどうなっているのでしょうか?

日常、聞き慣れた言葉だけにいざ説明してみようと思っても中々、返答しずらいのが現状ではないでしょうか。

それでは今回は「余念がない」についてみていく事に致しましょう。

余念がないとはどういう意味?

それではまず「余念がない」という言葉の意味から探ってゆく事に致しましょう。

他のことを考えない

「余念がない」の意味の最初の1つ目は「他のことを考えない」です。

なるほど、そうですね。

確かにその通りの意味です。

先ほど、例えで出しました「スポーツ選手が明日の決勝戦に余念がない」ですが、まさにその通りに解釈すればいいでしょう。

他のことを一切考えないで、明日の決勝戦の事だけを考えて準備している、という意味ですね。

つまり「雑念」を頭の中から消し去った状態、と言えますね。

大事な試合の前日にそれ以外の事に夢中になって集中力や闘争心が薄れてしまったのではどうしようもないですからね。

余念がない、とはつまり「他のことを考えない」という事なのです。

一つのことだけに熱中する

「余念がない」の2つ目の意味は「一つのことだけに熱中する」です。

なるほど、これも言い得て妙ですね。

確かにその通りです。

「自分が今、やらなければばらない一つの事だけに熱中する」からその事に集中して成功できるのです。

もし、その一つの事だけに熱中せずあれもこれもやりながら行ったらどうなるでしょうか。

恐らく結果は思わしくない方向に行ってしまうでしょう。

例えば明日、大事な試験があるとします。

ほとんどの人はその試験の勉強だけに熱中するために時間を使うでしょう。

間違っても勉強中にテレビを見たり遊びに行ったりしないはずです。

一つの事だけに熱中する姿勢がつまり「余念がない」という形で形用されている事に異存を差し挟む余地はなさそうですね。

邪念がない

「余念がない」の3つ目の意味は「邪念がない」という事です。

「邪念」が入ってしまったらあなたがやろうとしている事の成功確率はぐんと下がります。

よって「余念がない」状態とは言えなくなってしまうわけです。

「余念」という言葉を改めてじっくりみてみたら、この「邪念」や「雑念」という言葉と似たような感じを受けますね。

この場合「念」が、あなたが行いたい事に対する全ての思い。

「やり遂げたい」「成功させたい」という一心を表しているのでしょう。

そこに「余」という言葉を足す事によって気持ちの一直線化を更に強調しているのでしょう。

つまり「自分の行いたい事に対する余りある思い」とでも解釈できるでしょうか。

「余念がない」状態は「邪(よこしま)」な気持ちがない状態、と言える訳ですね。

たわいがない

「余念がない」の4つ目の意味は「たわいがない」という事です。

「たわいがない」。

漢字に直すと「他愛」。

つまり「他から愛される」という意味になるのでしょうか。

それが「ない」で打ち消されていますから、「たわいがない」という意味はその事に熱中・没頭しすぎているため、他の人にかまうことができず、よって周囲の人から敬遠されるほど愛想がない状態、とでも解釈できるでしょうか。

「たわいがない」ほど、物事に打ち込んでいる姿はまさしく周囲の物事が全く目に入っていないことを意味しますから、他の人がからかっても全く相手にしない、という事になるのでしょうね。

余念がない、という意味合いの4つ目に捉えられるのも頷けることでしょう。

余念がないの類義語

それでは次に「余念がない」の類義語について紹介していく事に致しましょう。

念入りの

「余念がない」の類義語の1つ目は「念入りの」です。

「念入り」は「気持ちを入れる」とか「魂を込める」といった意味に取られるでしょう。

その物事を為し遂げるために「念には念を入れて」何度も間違いの行らないよう繰り返して注意を払い気持ちを込めて行う、という事でしょう。

例えば戸締りです。

外出するときの鍵のかけ忘れがなかったかどうか。

何度もチェックして見直す、とい行為がそれに当たるでしょう。

人間の記憶というものは曖昧です。

さっきやった事もすぐに忘れてしまいます。

それを防ぐ意味でもチェックが二度三度と繰り返して行う様が「念入り」という意味になるでしょうね。

必死で取り組む


「余念がない」の類義語の2つ目は「必死で取り組む」です。

確かにそうですね。

「余念がない」状態というのは「必死に取り組んでいる」はずです。

決していい加減にやっていたり手を抜いてやっていたりはしていないはずです。

「余念がない」ほど、頑張っているのは「成功」というものを目標にしているから起こる気持ちの表れなのです。

最初から成功を放棄していたら「余念がない」ほど、頑張らないでしょう。

そういった意味で「必死で取り組む」は全く「余念がない」と同義、あるいは「類義」という扱いになるわけですね。

手間がかかった

「余念がない」の類義語の3つ目は「手間がかかった」です。

「手間がかかる」という意味は必要以上に手がかかる。

つまり労力も時間も普段より多くかかる、という意味合いになってきます。

余念がない状態も同様ですよね。

手間暇がかかっています。

時間も労力もつぎ込まれています。

そこまでやって万全の準備というわけです。

何事につけ、人がそこまで手間暇かけて何かを行うという事は、それだけ「気」が入っているからです。

「入魂」込めて何かをやろうとしているから、それだけ「手間」というもの医が入るわけなのです。

これが全く興味も関心もない事をやろうと思ったら、誰がそこまで時間をかけて没頭するでしょうか。

「余念がない」という行動の原理には「気に入っている」という動機があるからこそ、わざわざ時間をかけて手間をかけるのでしょう。

力の限りを尽くす

「余念がない」の類義語の4つ目は「力の限りを尽くす」です。

何かを成し遂げようと思えば、そしてそこに成功を求めるのならば、当然ながら人は真剣になります。

真剣になれば己の持っている全ての力を出し尽くしてでも、成功させようと思うのが人のセオリーではないでしょうか?

余念がない行動というのは、「力の限りを尽くす」行動という事になるのです。

これは誰がみてもそのように行うはずでしょう。

力の限りを尽くす必要がないのなら、余念がない行動もする必要はありませんからね。

気持ちの持ちようによって人の原理・原則は大きく変化するという事になりそうですね。

手の凝った

「余念がない」の類義語の5つ目は「手の凝った」です。

「手の凝った」は「手間がかかった」とも似たような意味合いを感じさせる言葉です。

つまり、念には念を入れて、時間と労力をかける、とほぼ同じ意味合いがあるということになりますね。

新婚早々の奥さんは愛する旦那さんのために手の凝った手料理を食卓に並べてくれます。

料理というものは「下ごしらえ」にどれだけ時間を割くかで中身や味が決まってきます。

それらを行おうと思えば前日から準備して用意していかなければならない、という事になります。

面倒くさがりの人にとても出来ない事になってくるのです。

「手の凝った」状態になるためには「愛」というものが根底にないと出来ません。

人間は行動するための動機がないことにはどうしようもありませんからね。

そういった意味では「愛」は格好の行動原則という事になるわけなのです。

使い方や例文

それではここからは「余念がない」の使い方をより詳しく知るために例文を紹介しながらより「余念がない」についてみていく事に致しましょう。

余念ない考え

「余念がない」の例文の1つ目は「余念ない考え」です。

これは間違った意味や不確かな意味とは全く違う、まさに「大正解」な意見を言っていたり、考えを提示している意味合いを表しています。

また用意周到な準備を積んで、その考えに全く余計な発想が含まれていない様も表れていますね。

例えば翌日に会社の会議を控えていたとして、議題に対して何らかの発言を行わなければならないあなたは前日に資料やデータを十分、調べておいてよどみのない意見を会議の場でサラサラと発言した、とします。

この場合の事前の準備が「余念ない」に該当するのでしょう。

あてずっぽ、であるテーマに関してあなたの意見を言おうと思っても、予備知識や情報がない事には考えをまとめる事もできません。

余念ない考えを公表するためには事前の準備が必要、という事ですね。

余念なく取り組む

「余念がない」の例文の2つ目は「余念なく取り組む」です。

この場合の「余念」は「余計なことや邪念」という意味合いになってきます。

つまりやらなければならない事に対して、他の誘惑や雑念を取り払い、一心不乱に目の前の課題に取り組む、という様ですね。

大体において、何かに取り組もうと思ったら、遊び半分では成功できません。

集中力を保って一脇目もふらずにかかっていかない事には事が前に進まないものです。

「余念なく取り組む」とはまさにそのような状況を言い表した状態でしょう。

研究に余念がない

「余念がない」の例文の3つ目は「研究に余念がない」です。

「研究」というものはちょっとやそっとの努力、労力で成し遂げられるようなものではありません。

時間をかけて長期的な展望をもって焦ることなく地道にやっていく姿勢が要求されるはずです。

「研究に余念がない」というのはまさしくその通りの道を歩んでいかなければならないいばらの道なのです。

研究テーマというものは成果を出すためには1ヶ月や2ヶ月ですぐに成果を出せるものもあれば1年、2年と歳月をかけてもまだ成果を出せない、というくらい地味で気が遠くなるようなものばかりです。

だからこそ研究というものには「余念なく」という意識が必要になってくるのですね。

整備に余念がなかった

「余念がない」の例文の4つ目は「整備に余念がなかった」です。

「整備」には様々な意味合いが含まれてきます。

公共工事で行う道路の整備。

野球の試合のグラウンドの整備。

関係各部署のメンバーへの意思の疎通のための整備、などなど。

いずれの場合もでこぼこになっている状態をフラットな状態に変化させるために行うのが「整備」でしょう。

「整備」を滞りなく行うためには無計画にやろうと思っても効率が悪く時間がかかるばかりです。

最も手っ取り早く最短の労力で完遂させようと思えば頭を使わなければなりません。

そのために「余念なく」時間と手間暇をかけて「整備」に持っていけるように事前打診を行ってゆくのです。

そう思うと「整備」という仕事は単純そうに見えて、やる人間の技量と知恵が試される仕事なのでしょうね。

余念もないほど打ち込む


「余念がない」の例文の5つ目は「余念もないほど打ち込む」です。

人が何かに対して打ち込む時は、あらゆる雑念や邪念といった類のものは、その人の心につけ入ってくる隙がないはずです。

「打ち込む」という事はそれほど一球入魂で一切の誘惑や誘いに惑わされない「岩」のような心を持った状態といえるでしょう。

例えば、あなたが鍛冶師だったとしましょう。

「刀」というものは何年も何年も修行を積んで初めて一人前の「鍛冶師」を名乗ることが出来ます。

ただの興味本位でやろうと思ってもとても務まるものではありません。

それほど本物の「刀」というものを作り上げるには血のにじむような努力と鍛錬が成されないと完成させることなど出来ない代物なのです。

だから鍛冶師の仕事は「打ち込む」という形容詞がピタッとはまるのです。

ちょっとでも身を抜いてしまったら本物の刀は作れないからでしょう。

このように「打ち込む」仕事や作業を行う時は「余念がない」という言葉がピタッとはまります。

「余念」には「真剣」とか「本物」といった意味が多分に含まれているからでしょう。

余念もない顔をする

「余念がない」の例文の6つ目は「余念もない顔をする」です。

「余念もない顔」。

日常的にはあまり使わない言葉かもしれませんね。

直訳すれば「余計な事や嘘、偽りを一切言わない真摯で純粋な表情」とでもなるでしょうか。

まあ、直訳通りの意味でとってもらっていいでしょう。

「余念がない」が「余計な事を言わない」という意味で捉えられる以上、「余念もない顔」はそのままの意味で取ってもらうに越したことはありません。

それにしても「余念のない顔」という言い方は、日常の会話ではあんまり使わない印象が濃いですね。

別の言い方をするならば「真剣な表情」だとか「真面目な顔つき」と言った方は馴染みがあるかも分かりませんね。

いずれにしても日本語には多岐に渡る心情描写があります。

そういった意味では「余念もない顔をする」と言われて聞く方が意味不明になっていては、その人の国語力を疑ってしまう事になってしまいます。

皆さん、国語は勉強するに越したことはありませんよ。

そうすれば「余念のない顔をする」と言われてもすぐにピーンとくることもできますからね。

情報収集に余念がない

「余念がない」の例文の7つ目は「情報収集に余念がない」です。

この例文のようないいか方日常、日常よく使うしテレビや新聞紙上などからも目にしたり耳にしたりする機会が多いのではないでしょうか。

「情報収集に余念がない」。

直訳すれば「情報収集に専念し、わき目もふらずに情報集めをやっている」という事ですね。

「情報」というものは何でもかんでもかき集めればいい、というものではありません。

自分にとって有意義で役に立つものだけをピックアップしていく事が求められます。

そういった経緯を考えれば情報収集に余念がなくなるのは当然の事となるでしょう。

しかも、その情報の生かし先が自分ではなく会社やチームの存亡にかかわるようなものであったとしたら、尚更時間をかけてより濃密かつ精密に情報を収集する必要は出てきますからね。

情報というものは使い手の腕次第で生きもし、殺してしまう事もあります。

情報は生きています。

旬度が問題にされます。

そういった意味でも情報収集を余念なく行える人は、企業で生き残れる存在、とも言えるかも分かりませんね。

自伝の執筆に余念がない

「余念がない」の例文の8つ目は「自伝の執筆に余念がない」です。

「自伝」というものを執筆しようと思ったなら、これは膨大な資料を集め時間を整理してかからないととても書き上げられるものではありません。

「自伝」ともなれば10代や20~30代の若い人が執筆するような代物とは言えないでしょう。

それこそ人生を長きに渡って歩んでこられた方々が万感の思いを込めて書きあげるものです。

という事は最低でも60年前後の自分の生きてきた時間の追求が必要になってくるはずです。

そうなれば、それに伴う資料集めも当然、膨大な時間と労力を使う必要が出てくるでしょう。

そしてそれらの準備が出来たらようやく執筆開始です。

この「書く」という作業も人によってまちまちですが、書き慣れていない方ならば執筆の速度は思うようにはいかないでしょう。

よって自伝の執筆という作業には気の遠くなるような時間がかかり、同時に相当な根気も要求されてくるのです。

そのような事を考えれば「執筆に余念がない」状況となるのは当然の事と言えるでしょうね。

余念なく笑う

「余念がない」の例文の9つ目は「余念なく笑う」です。

「余念」を「笑う」で使う時の意味は「邪念も悪意も何もなく、心の底から笑っている状態」と取れるでしょう。

「笑い」や「笑顔」というものは人間関係を構築する上において「挨拶」と並ぶくらい重要なものです。

「笑う門には福来る」というくらい、笑顔には運気を上げたり幸運を呼び込む特殊なパワーが秘められています。

中には作り笑いや嘘笑いで場を誤魔化すこともあるでしょうが、そのような笑いを行っている人には申し訳ないながら良き運気は巡ってきにくいと言えますね。

心の底から何の疑いももたず相手の事を肯定した上での「笑い」は全ての邪念や雑念を払拭してくれる効果があるのだと思ってもらってもいいと思います。

それだからこそ、余念なく笑える人には素晴らしき幸が回ってくることだと思いますよ。

向上していくことに余念がない

「余念がない」の例文の10個目は「向上していくことに余念がない」です。

「向上」とは自分の気持ち、心を「成長」「発展」「完成」させるために常に前向きにしてあらゆるところから勉強する姿勢を貫いていこうとする姿勢の事をいいます。

「向上していくことに余念がない」という状況は、まさにその気概を地のままに歩んでいる姿に他なりませんね。

本当に頭の下がる思いです。

「向上」していこうと思えば遊びの誘惑や異性との関りも極力、避けなければならないでしょう。

そうしない事にはその道のプロには到底、なれないからです。

ただ、真の意味で「向上」していくためには適度な息抜きも必要になる事は間違いありません。

そうしないことには、人間の頭脳はすぐにパンクしてしまうでしょう。

昔から超マジメ過ぎるほど一つの道に打ち込むと、どこかで壁にぶち当たった時に解決方を見いだせず、そのまま脱落してしまうケースが後を絶ちません。

そういった意味では「余念がない」状況の中にも少しは息抜きタイムを設けるのがよろしいのではないかと思うのですよね。

ストレッチに余念がない

「余念がない」の例文の11個目は「ストレッチに余念がない」です。

ストレッチは身体の血行を良好にして怪我や故障などを防ぐ効果がある優れたエクササイズです。

このストレッチを余念なく行う、という事は十分以上に時間をかけて体の隅々の毛細血管にまで血液を循環させ身体を暖めほぐして、来るべき競技に向けて万全のコンデションを保つことが出来るよう行う行動だと言えるでしょう。

これは少々、古い例え話になりますが、第65代横綱だった大相撲の貴乃花関。

現役時代は平成の大横綱と呼ばれ、同時に「若貴ブーム」を巻き起こし、相撲を大フィーバーさせたことは記憶に新しい事と思います。

彼は現役時代、入念過ぎるほど入念に体幹運動やストレッチに時間を割いていました。

狙いは、これらを行う事によって怪我や故障を未然に防止するためです。

そして彼は優勝回数22回を成し遂げ、3人目の一代年寄となり現在に至る、という訳です。

最もここ最近の話題は土俵外のドタバタ劇ばかりがクローズアップされる始末ですけどね。

いずれにしてもストレッチというものは余念なく入念にやってもらいたいものです。

カラスの行水程度のお茶濁しでは十分な効果は上げられませんからね。

この歌声には余念がない

「余念がない」の例文の12個目は「この歌声には余念がない」です。

ちょっと普段の日常会話ではあまり用いないような表現かも知れませんね。

で、意味を考えてみますと「その歌声には邪心も穢れもない清らかで天にも届くような澄み切った歌声だ」といったような解釈でいいかと思います。

最近はカラオケボックスが定着し、老若男女問わずまたどのようなシーンにおいても好きな歌を気軽に歌う事が出来る時代になりました。

しかしながら、そんな状況においても歌の上手い、下手は純然と存在し、更に歌声に余念のないもの、とまでいくとかなり制約されてくるのが現状でしょう。

今、芸能界で頑張っていらっしゃる歌手の中にも、決して歌の上手い方ばかりともいえないのが現実のようです。

実際、私が青春時代を過ごした頃の昭和40年代後半から50年代にかけてはアイドル歌手が百花繚乱だった時代です。

そしておかしなことに歌の本当に上手い人がレコードが売れず「?」という印象の可愛い子ちゃんアイドルの歌がよく売れる、という時代が長らく続いていました。

まあ、当時、これらのアイドル歌手の皆さんが全て「下手」だったわけではないのですが、「余念のない歌声」の歌手がヒット前線に躍り出る事って本当に少なかったわけです。

まあ、「余念のない歌声」でかなり話が飛んでしまいましたが、真の「余念のない歌声」を持つ歌手の歌は時代が経過してもいつまでも私の耳に残っています。

お一人だけ代表者をあげるとしたら「ちあきなおみ」さん、になるでしょうか。

彼女の歌声はまさに「余念のない歌声」の代表格だったと思いますよ。

余念もない凝固した考え

「余念がない」の例文の12個目は「余念もない凝固した考え」です。

「凝固」とは「凝り固まる」という意味ですね。

この「凝固」に「余念がない」を結びつけると「完璧に凝り固まった意見」という事になるでしょうか。

つまり、他者からの意見にも一切耳を貸さず、自分の主義・主張を貫き通す様子、になるでしょう。

世の中には頭の固い人物は山のようにいます。

年齢を重ねるにつれてその頻度はますます上がってゆくような気も致します。

意見や主張というものは、絶対といえるものは存在しない、と私は思っています。

それは世の中に存在する人類、60億人分の主義主張が全くもって一致していないからだと思っているからです。

だから余念なく凝固した考えに陥るのも仕方ない、と思っています。

そんな60億通りもの人間の考え方にいちいち合わせていられるはずがないからです。

そんな面倒くさいことをやるのなら、最初から自分の考えを相手に押し付けてついてこさせる方がよっぽど楽ですからね。

人間が多ければ多い程、考え方も余念がなくなる。

これは人間界の常識といえるのでしょうね。

鍛錬に余念がない

「余念がない」の例文の13個目は「鍛錬に余念がない」です。

「余念がない」を最も効果的に、またよく使われる使用例としての代表的な言い方ですね。

鍛錬とは多くの方がご理解していただける通り、「訓練」であり「練習」であり「特訓」です。

それらは何回も何回も反復しながら、また妥協せずに己が納得できるレベルまでやっていって初めて成し遂げられるものなのです。

だから「鍛錬」は「余念なく」行わなければならないのです。

余計な事を考えたり楽をしようなどという「邪ま」な考えが起こったら元も子もなくなってしまいますからね。

一般的に「鍛錬」を積むものとしては、スポーツや音楽の世界、芸能文化の世界が思い浮かびますね。

例えばバイオリンの演奏。

1年や2年の経験ではとても上達できない「難しい」楽器です。

だからこそ、血のにじむような鍛錬を繰り返して上達を目指しているのです。

それでも志半ばで諦めてゆく人が多いのも事実。

それくらい「鍛錬」というものがついてくる種目は「余念がない」覚悟が真に必要となるのですよね。

余念なく話す

「余念がない」の例文の最後の14個目は「余念なく話す」です。

この場合の「余念なく」は会話の中身において余計な事は一切言わず、核心に触れる正確で正しい情報のみを淡々と急ぎ足にならないよう、はっきりと丁寧に喋っている様が受け取れます。

人に何かを「話す」という行為は論理的思考に立って、伝えたい事を順序立てて話さないと、支離滅裂になってしまい、相手にこちらの言いたい事を正しく伝えられない危険性が考えられます。

よって「余念なく」話すよう準備しておくわけです。

特に会議の時やプレゼンテーションの時などは、話す順番をきちんと決めておいて聞き手に正しく理解してもらえるような配慮が必要になってきます。

そういった意味でも「余念なく話す」という事は重要な事であり、話し手の会話センスも試される大切な一瞬、とも言えるでしょうね。

まとめ

如何だったでしょうか?「余念がないとは?」について

・「余念がない」の意味
・「余念がない」の類義語
・「余念がない」の使い方や例文

という3点をピックアップ致しまして見て参りました。

「余念がない」について多少はご理解が深まったのではないか、と思います。

そもそも私たちは何かに熱中すれば、他のことは忘れてその事のみに集中できるようになっています。

当然、そういった時は普段は好きな事でも耳に入ったり目に入ったりもしません。

好きな音楽も「余念のない準備」を始めたら耳に入ってきません。

テレビをつけていても画面に見入る、何てことも起こらないでしょう。

これが「余念がない」という状況の真骨頂になるのです。

反対に明日の大切な試合のために用意するものを忘れないようにしようとしているのに、テレビ番組に夢中になっていたり音楽ばかり聴いていたのでは肝心の試合の準備が疎かになってしまいます。

試合当日になって「あ、あれを持ってくるのを忘れた!」なんていう恥ずかしい失敗を犯してしまったりするのです。

余念がない考えというのはその物事にどれだけ真剣に打ち込んでいるか、で大きく様子が変かするという事になりそうですね。