そういった意味では「余念がない」状況の中にも少しは息抜きタイムを設けるのがよろしいのではないかと思うのですよね。
ストレッチに余念がない
「余念がない」の例文の11個目は「ストレッチに余念がない」です。
ストレッチは身体の血行を良好にして怪我や故障などを防ぐ効果がある優れたエクササイズです。
このストレッチを余念なく行う、という事は十分以上に時間をかけて体の隅々の毛細血管にまで血液を循環させ身体を暖めほぐして、来るべき競技に向けて万全のコンデションを保つことが出来るよう行う行動だと言えるでしょう。
これは少々、古い例え話になりますが、第65代横綱だった大相撲の貴乃花関。
現役時代は平成の大横綱と呼ばれ、同時に「若貴ブーム」を巻き起こし、相撲を大フィーバーさせたことは記憶に新しい事と思います。
彼は現役時代、入念過ぎるほど入念に体幹運動やストレッチに時間を割いていました。
狙いは、これらを行う事によって怪我や故障を未然に防止するためです。
そして彼は優勝回数22回を成し遂げ、3人目の一代年寄となり現在に至る、という訳です。
最もここ最近の話題は土俵外のドタバタ劇ばかりがクローズアップされる始末ですけどね。
いずれにしてもストレッチというものは余念なく入念にやってもらいたいものです。
カラスの行水程度のお茶濁しでは十分な効果は上げられませんからね。
この歌声には余念がない
「余念がない」の例文の12個目は「この歌声には余念がない」です。
ちょっと普段の日常会話ではあまり用いないような表現かも知れませんね。
で、意味を考えてみますと「その歌声には邪心も穢れもない清らかで天にも届くような澄み切った歌声だ」といったような解釈でいいかと思います。
最近はカラオケボックスが定着し、老若男女問わずまたどのようなシーンにおいても好きな歌を気軽に歌う事が出来る時代になりました。
しかしながら、そんな状況においても歌の上手い、下手は純然と存在し、更に歌声に余念のないもの、とまでいくとかなり制約されてくるのが現状でしょう。
今、芸能界で頑張っていらっしゃる歌手の中にも、決して歌の上手い方ばかりともいえないのが現実のようです。
実際、私が青春時代を過ごした頃の昭和40年代後半から50年代にかけてはアイドル歌手が百花繚乱だった時代です。
そしておかしなことに歌の本当に上手い人がレコードが売れず「?」という印象の可愛い子ちゃんアイドルの歌がよく売れる、という時代が長らく続いていました。
まあ、当時、これらのアイドル歌手の皆さんが全て「下手」だったわけではないのですが、「余念のない歌声」の歌手がヒット前線に躍り出る事って本当に少なかったわけです。
まあ、「余念のない歌声」でかなり話が飛んでしまいましたが、真の「余念のない歌声」を持つ歌手の歌は時代が経過してもいつまでも私の耳に残っています。
お一人だけ代表者をあげるとしたら「ちあきなおみ」さん、になるでしょうか。
彼女の歌声はまさに「余念のない歌声」の代表格だったと思いますよ。
余念もない凝固した考え
「余念がない」の例文の12個目は「余念もない凝固した考え」です。
「凝固」とは「凝り固まる」という意味ですね。
この「凝固」に「余念がない」を結びつけると「完璧に凝り固まった意見」という事になるでしょうか。
つまり、他者からの意見にも一切耳を貸さず、自分の主義・主張を貫き通す様子、になるでしょう。
世の中には頭の固い人物は山のようにいます。
年齢を重ねるにつれてその頻度はますます上がってゆくような気も致します。
意見や主張というものは、絶対といえるものは存在しない、と私は思っています。
それは世の中に存在する人類、60億人分の主義主張が全くもって一致していないからだと思っているからです。
だから余念なく凝固した考えに陥るのも仕方ない、と思っています。
そんな60億通りもの人間の考え方にいちいち合わせていられるはずがないからです。
そんな面倒くさいことをやるのなら、最初から自分の考えを相手に押し付けてついてこさせる方がよっぽど楽ですからね。
人間が多ければ多い程、考え方も余念がなくなる。
これは人間界の常識といえるのでしょうね。