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荒唐無稽とはどういう意味?使い方や荒唐無稽な人の5個の特徴を解説


わたしの近所に、いつもおもしろい話をしてくれるおじいさんがいました。

まだわたしが小学生の頃には、いつも公園の片隅のベンチに座っていて、本を読んだり何かを考えていたりしていた様子を覚えています。

暑い時も寒い時も、よく座っていたことを思い出します。

暑い時には木陰のベンチに、寒い時には日当たりの良いベンチにと場所を変えてはいたのですが、座り方も様になっていて公園に溶け込んでいるように思えました。

何をするという目的もないようなのですが、公園で子供達が騒いで遊んでいるのをぼんやりと見ていたようです。

公園で弁当やパンを食べているところを見たことがないので、食事時には自宅に帰っていたと推測するのです。

いまから振り返ると、年齢は70代だと思えます。

事情があって家にいるよりは公園の方が過ごしやすかったのかも知れませんが、本当のところは何にも知らないのです。

ただ、ご近所のオバサン達とは愛想よく会話をしていたので、危険な人物では無いことは認識していました。

なぜそのおじさんのことをよく覚えているかというと、ある日友達3人とボールで遊んでいる時に、ボールがそのおじさんのところに転がって行って、それを拾ってくれた時に話しかけてきたのです。

「君たちは、あの小学校の生徒なの?」と聞いてきたので「そうです」と答えると、「あそこでおじさんはよく川遊びや魚取りをしたんだよ」と言ったのです。

「どこで?」とわたしは驚きました。

「今は小学校になっているけれども、昔はため池でそこから水が流れて小さな小川があったんだよ」と、さらに続けて「小学校にあった池で、フナや鯉も釣ったよ」と言ったのです。

わたしたち3人は、口をぽかんと開けて、おじさんの行くことが信じられなかったのを覚えています。

難しい言葉で言うと「荒唐無稽」な話に聞こえたからです。

今は立派な小学校になっているのですが、昔は池であったようです。

大きな運動場は池を埋め立てて作ったようです。

家に帰ってそのことをお母さんに尋ねても、そういえばそんな話を聞いたことがあったかな?というぐらいです。

お父さんは地元出身だから知っているだろうと聞いてみると、お父さんもその当時のことはハッキリと覚えていないようで、池を埋め立てたことは祖父に聞いたとのことでした。

間違いなく池はあったのですが、わたしたち子供にとっては、荒唐無稽な話だと感じたようです。

つまり、「嘘だろう!でたらめだろう!」と思ったのです。

この記事の目次

荒唐無稽とは?

「荒唐無稽」とは、「荒唐(こうとう)」と「無稽(むけい)」が合わさってできている言葉です。

「荒唐無稽」とは、言うことがでたらめで根拠がないことを意味します。

平たく言うと「噓っぱちだ!」とでも言うのでしょうか。

普通の会話ではあまり使わない言葉でもあります。

しかし、いい加減な提案や申し入れに対して、文書で回答する時などには「こんないい加減な計画では・・・」とか「このような現実的でない噓っぱちの計画では・・・」などと書くよりも、「このような荒唐無稽の計画では・・・」などと表現すると真剣に対応している雰囲気を伝えることができます。

「荒唐無稽」の表現には、「人の言動などに根拠やまとまりがなくいい加減で現実性が無いことを表現しているのです。

「そんなはずはない!」とか「そんなことにはならない!」と強い否定が含まれているのです。

「この場所に出店すると、1年で元が取れるよ」という提案者と、「この場所では、赤字は間違いない。そんな考えは荒唐無稽だ」とやり合うのです。

現実的でない時に、よく使われる四文字熟語なのです。

読み方「こうとうむけい」


「荒唐無稽」は、「こうとうむけい」と読みます。

「荒唐」と「無稽」の熟語でできています。

意味

「荒唐」とは、言説などによりどころが無くとりとめのないさまのことです。

「無稽」とは、根拠がないこと、でたらめであることです。

「稽(けい)」という文字は、練習ということと同じように「稽古(けいこ)をする」としても使われてます。

「稽」とは、昔の書を読んで物の道理や故実を学ぶことで、学問という意味でもあります。