責任転嫁する
でも、だってという言葉で自分の非を認めず、周囲に自分には非はないということを認めさすためには間違いの責任を人や他のもの、出来事に転嫁しなければいけません。
いつも巧みにそういったことを行う人がいますが、責任転嫁しているということはすぐわかってしまいます。
周囲にいる人への迷惑もたびたびになってきます。
責任転嫁しようとする真理とはどういうものかというと、自分が罪悪感でとても苦しんでいるのでくるしいのです。
苦しくて苦しくて仕方がない、誰かに手渡してしまいたいのが罪悪感というものです。
ある老人の話です。
人は年をとると物忘れが激しくなったり、若いころにはなんなくできていたことが上手くできなくなるようになることがあります。
そのことを一番よくわかり、気付くのは自分自身なのです。
どうしてできないのだろうと悲しく思うのも自分自身です。
年をとると強情になり人のいうことを聞かなくなるのは自分が老いて変わっていく姿を認めたくなくて、そしてその苦しい思いをどこかへやってしまいたいからなのかもしれませんね。
素直になれない
結局素直になれないのですね。
人が幸せに生きていくためにはこの「素直さ」がとても大切になってくるのではないでしょうか?
でも素直とは人のいいなりになることではありませんね。
ありのままを掛け値なしに見ることができるということです。
何をありのまま見るということなのかといえば、周りの出来事も、自分自身の言動も、そして自分の気持ちもです。
何かを変えようとするのではなく、そのものをあるがままにしておけるということには強さが必要です。
素直な人は強い人です。
謝罪ができない
人に謝ることができないという人がいました。
その人は言い訳もしないかわりに謝ることもできませんでした。
素直になれないと人に謝るということができません。
確かに間違いが何度か続いたときには謝罪したくなくなります。
その気持はとてもよくわかります。
「またか~」なんて人に思われるのが嫌で、誤ると自分の非を認めてしまうことになるので苦しいのです。
できれば出来た人間だと思われたいというのは誰でも持っている気持ちなのではないでしょうか?
ただ、あまりにも謝罪が出来ない人というのは、謝ると次からもっと責められるのではないかという気持ちも働いているのではないでしょうか?それだとますます謝罪できない人間になっていきます。
私は「バカで不出来な人間だと思われるととてもうれしい」という人はちょっとおかしいです。
だからこそ謝罪できる人は強いのですね。
それと、これは私の場合なのですが、間違いをしたとき最初は素直に非を認め反省もでき、謝罪もできるのですが、そこで性懲りもなく同じ間違いをまたしてしまったときに愚かさが出るなと感じます。
最初こそは素直になれるものの何度か目には「もう素直に謝罪するのは嫌だ!」になってしまうのです。
結局1回ならいいけど、続いてやってしまうと、「なんて愚かなんだ」と思われるに違いないと思って素直になれなくなるのです。
何度も間違いを犯すこと自体愚かなのにそれを認めることができないとなれば本当の愚か者ですね。
被害妄想しがち
間違いを認められない人は被害妄想しがちです。
指摘するほうは相手の人格まで否定する気などないのに間違いを指摘されることを自分自身を否定されているように感じるのですね。
犯してしまった間違いと自分自身を同一視してしまっているということです。
そして人が自分を攻撃してくるように思っているのかもしれません。
強情な性格ゆえ間違いを認められないということには間違いないですが、本来は被害妄想に陥っている気が弱い人なのかもしれません。